Third Instrament 変革者
男にはたった一つだけ趣味と言えるものがあった。それはコーヒー。他の人から見たら何でもないようなことであるが、男は真剣であった。
インスタントの安っぽい味は言うまでもなく、本格派のものを飲んでみても、どこか気に入らないところがあったらしい。
最高のコーヒーを淹れようと思い立った男は自分で機材を揃えてしまった。
そしてその設備はちゃちな喫茶店なんかよりも整っていると男は自負していた。
先程出来たばかりのコーヒーをマイセンのカップに注ぎ、リビングを目指す。
ソファーに座りながら夜空を眺めつつ自分で淹れたコーヒーを飲むのが男にとって至福の時間だった。
ソファーにドスリと身体を預けつつ湯気の立つ出来たてのコーヒーを飲む。
思わずほぅ、と吐息が漏れる。
今この瞬間に飲んでいるこのコーヒーこそが男が今まで追い求めてきたものだった。今までの苦労を帳消しにする美味さ。だからこそ思わずこんな言葉が出てしまったのだろう。
「男は黙って……」
「―――――ブラックコーヒー」
ビクンッと男の肩が跳ね上がる。
ふと気がつけば男の隣に誰かが座っている。
恐る恐る首を動かし横にいる人物を見る。それは白いスーツを着た四十代ぐらいの男だった。
彼が男のセリフを取ったのだろう。いたずらの成功した子供のようにニンマリ笑っている。
ふう、と男は一度大きく息を漏らした後、さっきまで飲んでいたコーヒーをそばのテーブルへ置きキッチンへ向かう。それから突然の訪問者のために新しいカップにコーヒーを注いでいく。そして注ぎ終わったそれを、リビングでくつろいでいる白いスーツの男に手渡す。
「少し冷めているが……」
「ああ、大丈夫だ。それに私は少々猫舌でね。これぐらいの方が丁度いい」
「……そうか」
白いスーツの男は手渡されたそれをゆっくり口へと運んで行く。そして一口飲んだ瞬間ちょっと驚いたのか大きく目を見開く。
「こいつは美味い」
「それはそうだろう。この味は私が長年追い求めていた味だからな」
男は満足そうに一度頷くと、先ほどと同じようにドスリとソファーに身体を預け、傍らのコーヒーを飲む。
「ほう、今日の私はツイてたな。このコーヒーが飲めたのだから」
「ああ、そうだな」
そう言って男は白いスーツの男にまるで十年来の友人に向けるような優しい笑みを浮べる。
二人はしばらく無言でコーヒーを飲み、夜空を彩る星や月を愛でる。
そしてコーヒーを飲み終わり、手持ち無沙汰になった頃、男は白いスーツの乱入者に、優しく笑いかけながら尋ねる。
「さて、君は誰なんだい?」
その問いに少し困ったように苦笑いしながら答えた。
「さあ、私は一体なんなのだろうか。君にはなにに見える?」
ふむ、と男は目の前の白いスーツの男をじっと見つめ、観察する。すると、ある言葉が自然と頭に浮かんできた。
「……変革者かな?」
「ハッ、ハハハ。ああ、確かに私は変革者だ。よくわかったな」
そう言って嬉しそうに笑う変革者に男は不敵に笑ってみせる。
「で、その変革者さんは私のなにを変えるんだい?」
「さしずめ君が嫌いな人間を作らないことをだな」
ああ、そのことか。
男は心の中で嘆息する。
男には嫌いな人間がいなかった。
そのことを上司や同僚に話すと、いつも必ずこう言われるのだ。
―――――キミは優しいね。
そう言われ続けているうちに男はいつしか自分もでそう思うように……
「本当にそう思っているのか?」
変革者の言葉が男の心を貫いた。
男には初めからわかっていた。自分に嫌いな人間がいないのは優しいなどといった理由でないことを。
「君がやっているのは究極の肯定だ。一切の感情を交えずに、その存在の全てを受け入れる。だからこそ君に嫌いな人間はいない。いや、出来はしない」
男には変革者の言葉に思い当たる節があった。
たとえどんなに酷いことをされたとしても、アイツはそういう人間。それに他の面ではあんなに良いところがある。だからしょうがない。しょうがない、しょうがない、しょうがない、しょうがない……。
「そう、か……。私は諦めていたんだな。他人の存在を、ただ肯定し続けるだけで、そこに一切の自分の意志というものを出さない。ただ受け入れるだけの機械だったというわけか」
「そういうことだ」
男は変革者との対話で自身が感情のない機械であったということを認めてしまった。 納得してしまった。
それと同時に強い衝動が湧き上がってくるのを感じた。
何故自分が感情を捨てようと思ったのか。その始まりを……。
「生憎そんなものに興味はない。あるとすれば未来だ」
「……未来?」
「そう未来。相手の何もかもを受け入れるということは、けれども相手になにかを与える事など出来ない。君は決して人から嫌われることはないだろう。同時に好かれもしない。一人ぼっちでこの世界を生きることになるだろうね」
変革者はそこで一拍置き、いつのまにか消えた。最後にたった一言だけを残して。
「どうするは君自身が決めることだ」
男はソファーの背もたれに思いきりよりかかると、大きく息を吐き出した。
男は今更自分のこの生き方を変えられるほど、器用ではなかった。けれどもこのままこの生き方を続けたら変革者の言う通り、誰の心にも残らないということが、確信としてあった。
わからない。自分がどうやって生きたらいいか男にはまるで見当が付かなかった。けれどもたった一つだけ言えることがある。
「まあ、明日のことは明日考えるさ」
フッと笑った男の顔には吹っ切れたような清々しさがあった。
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