瞬間、僕は飛び降りた。

棚からぼたもち

どうして、そこにいるのか。なぜ、飛ぼうとしないのか。

 大きな鳥を眺めていた。灰色にくすんだ大きな羽に、僕の手からひじのあたりまでありそうな大きな嘴。大きな体をピクリとも動かさずに、ただパチクリ、パチクリと瞬きをして、こっちを見たりそっちを見たりしている。僕は不思議に思った。どうして、この鳥はその翼を空に広げないのだろうと。その大きな羽は、きっとこの青空に映えるものであると思えるほど立派なのに。少ししてから僕は思った。彼は少し、疲れてしまっているだけなのだろうと、その大きな翼を見せびらかさないのはそのためなんだろうと。それでも雲は流れていくし、時間はそれなりに経っていく。そうこうしているうちにいつかこの青空は曇っていってしまう。それなのに大きな鳥はピクリとも動こうとしない。時間に焦るような表情は見せずに、毅然とした表情で立っている。

 僕はそろそろ時間であると歩き出す。歩き出した途端に、足が動かなくなった。目の前には数十メートルはありそうな崖が広がっていたのだ。きっとこの崖の向こうには、僕が思う桃源郷が広がっていて、そこには普通の職と、普通の家族と、普通の景色とって、そんなものが広がっているのに、僕はそこに行くことができない。それでも僕の幸せはそこにあって、僕の人生はそこで終わる。それが一番なのだ。でも、僕には長い手足も、羽も生えていない。だから崖を飛び越えることはできないんだ。

 そう思うと、僕は大きな鳥にすがりたくなった。泣いてすがって、顔をぐちゃぐちゃにしながら「僕にも翼をはやしてください。」と頼みたくなった。でもそんなことをしても、きっと翼は生えてこない。わかってる。わかっているのに、そこにすがるものがあると、自然と、すがりたくなってしまう。そんな弱い自分を見つめては、また死にたくなる。

 やがて天気が悪くなってきた。雲はだんだん厚くなっていくし、風がだんだん冷たくなっていく。そろそろ時間が来てしまったと思うと、大きな鳥が動き出した。その鳥はその大きな翼を広げたと思うと、綺麗な羽音を立てて、崖の下へと落ちていった。僕は唖然とした。崖の下には薄暗い空間が広がっていて、そこでは明日を生きていけるかもわからない状況なのに、大きな鳥は真っ逆さまに、何のためらいもなく、落ちていった。僕が喉から手が出るほど欲しがったものを持っていた鳥は、何のためらいもなく崖の奥深くへ落ちていった。この事実は、僕に崖の奥深くへの興味を持たせた。崖の底は、きっと簡単には生きては行けない。でも、だからこそ、渇きを満たしてくれる何かがあるのではないか、と。

 そのとき、僕は感じた。脳で思考したのではなく、直感的に、感覚として、入り込んできた。結局、僕が欲しかったのは、毎日の普通じゃなく、一日の特別なんだと。今思い返せば、僕だって羽を生やせたかもしれない。この崖を飛び越えることができるくらいの立派な羽を生やすことができたかもしれないのに、僕はそうしなかった。できなかったんじゃなく、しようとしなかったんだ。僕はこのまま、この崖を落ちるべきだ。きっとそこに僕の欲しかったがある。そう、感じた。

 少し歩みを進めて、崖の真下を覗く。そこには黒が。ただ、真っ黒が広がっていた。結局、僕という人間は、誰かの後ろしか辿っていけないくらい弱い人間なのだと思う。でもそれでいいじゃないか。誰かの後ろをたどって歩いていこうと決めたのは、紛れもない僕自身で、これは立派な、僕の意思だ。こうやって辿っていって、いつか、自分らしいものが見えてくれば、それでいい。存在価値はあとからついてくるものだから。僕は断崖に立って、呼吸を一つする。不思議と空が晴れ晴れとして、僕を見つめている。


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瞬間、僕は飛び降りた。 棚からぼたもち @tanabota-iikotoaruyo

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