夏・4話
会川には、六才まで双子の弟が居た。 少なくとも、会川はそう記憶している。何をするにも仲の良い、やんちゃで元気な兄弟だった。
一つのアイスクリームを溶ける前に懸命に舐めたり、天の川を見上げて一緒に眠ってしまったり、プールでどちらが先に25m泳げるかを競ったり。
そんな断片的な思い出ばかりが残っている。
会川は弟について思い出すたび、両親が玉突き事故で亡くなる前にちゃんと聞いておけばよかったと後悔した。どのアルバムを見ても、写真を収めた箱を浚っても、市役所の公式な記録の中にさえ、その弟は一切存在しないからだ。あれは本当に弟だったのか。それとも会川が自分自身に無意識に見せていた幻なのか。もしかしたら、子供の頃によくある空想の友達だったのか。
それは今もってはっきりしない。
彼は、小学校に入学してすぐに自分がみんなとは少し違うということに気づいた。みんな、<ソーゾー>を見ることが出来ないのだ。まずいセロリをよく焼いたソーセージにして食べることも、道行く人を日曜日のヒーローにすることも、雨降りの日に傘の内側をきれいな晴れ間にすることも、どうやらみんなは出来ないらしい。そう気づいたときの衝撃は大きかった。一体、<ソーゾー>を使わないで、どうやって真夜中のトイレに行けばいい?
両親も先生も友達も、彼をただ想像力豊かな子供だと考えていた。
けれど、幼なじみのまーちゃんだけは違った。
彼女は会川の家のはす向かいに住んでいて、彼と彼女はよく一緒に家で映画を見たり、どちらか一方の家にお泊りにいったりする仲だった。
それは、終業式の日だったと記憶している。ともかくたっぷりとした西日が教室に差し込んでいて、二人しかいない教室はひどく蒸し暑かった。
「なあに、話って」
その日の彼には、秘策があった。
「いいから、ちょっと手を握ってみて」
「いいけど……」
彼女は少し怪訝そうな顔をしながらも、素直に彼の手を握った。
前にまーちゃんとシャボン玉で遊んでいたとき。彼はシャボン玉をおどろおどろしい妖怪の目玉にして遊んでいたのだが、シャボン玉の輪っかを吹き終えた彼女の手が、彼に触れた。すると彼女はまるで火傷したかのように手を振り払い、シャボン玉をその手で追い散らし始めた。
「見た……今の」
「見たって、なにを?」
「なにって……いいや」
彼女はふぅ、と大きく息をついた。
あのときにはわからなかったけれど、翌日になって彼は気付いた。きっと体のどこかが触れていれば、<ソーゾー>を彼女に見せることも出来るんだ。
そうして彼は彼女と手をつなぎ、目の前の自由帳の写真に意識を集中した。
真っ赤な大きな花に、まんまるの体の蜂が一匹ぶら下がっている写真だった。自由帳の説明によると、コイツは
そして、そんな彼の<ソーゾー>に従って、写真に変化が起こりだした。最初は、目の錯覚のようなわずかな動き。植物の陰がぶれて見え、何かがちらちらと動いているように感じる。
―――蜂が、
その
どう、と振り返った彼を、しかし彼女は見ていなかった。彼女は、憑かれたような手付きでゆっくり、ゆっくりと写真に指を近づけていく。彼女の指は、確かに板紙のつるつるとした感触をとらえた。
あぶない、と彼は叫んだ。
その声に反応するかのように、蜂はぶぅんと唸ると彼女の指へと飛びかかった。
一瞬、彼女の目に恐慌が宿った。彼女はぱっと手を引っ込めて彼を突き飛ばすと、自由帳の載った机をひっくり返しながらたっぷり五歩ほど後ずさる。
そのまん丸に見開かれた目はまだ自由帳に向けられていたが、彼の手から離れた彼女にとって、それはいつもの、決して動いたりしない、ただの自由帳へと戻っていた。そして彼女は、おそるおそる目を自由帳から自分の指先へと動かす。そこはちょうど虫に刺されたときのようにぷっくりと赤く腫れていたが、その膨らんだ形はすぐにぼやけ、瞬く間にふだん通りの見慣れた形へと戻った。
彼女は、視線をさらに指先から彼へと動かした。そこには、自由帳に向けられた以上の恐怖と、嫌悪が含まれていた。
「……お
それが、彼とまーちゃんが交わした最後の言葉になった。
お父さんから教えてもらった<ソーゾー>という言葉を、彼が幻を<貼る>と再定義するまでには、さらにもう少しの年月がかかることになる。
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