夏・2話

 ミヤコと初めて会ったのは、深夜四時のことだった。


 それは熱帯夜の夜だったはずだ。いつもと特に変わることもなく、会川が夏屋を閉め、たまには少し運動してから部屋に帰ろうと古い非常階段を上っていると、一人の若い女が最上階の踊り場に座り込んでいた。


 会川は驚いて、階段の真ん中で片足を持ち上げたまま固まった。


 細すぎる身体に真っ黒な服。どうみても昼間に働き夜に眠る人間の格好には見えなかった。脱色を繰り返した髪は遺骨のような色合いで、身体を覆うように指輪やイヤリングを纏っている。片方のレンズに皹が入った眼鏡と、裸足のままぶらぶら揺れている足が、わざわざ人気の無いビルの屋上へと上った理由を明らかにしているように思えた。


 会川に気づいたのだろう、彼女はどこか遠い都市の光に想いを馳せていたであろう目を、ゆっくりと現実へと戻した。


「どうも。こんばんは」


 割れた眼鏡が蛍光灯を反射させて、彼の目に刻々ぎざぎざとした光を投げつけた。


「こんばんは。不躾ぶしつけで申し訳ないが、一人には少し遅い時間じゃないか」

「あら。言われてみればそうね。もうすぐ日が昇っちゃうわ。よかったら今夜泊めてくださる?」


 会川は、そう言う意味では、といった意味の言葉を口の中でかみ殺した。もしいま断ったら、どんな面倒なことになるか分かったものではない。このビルから自殺者が出たとあっては痛くもない腹を探られかねない上、店に妙な噂が立つ可能性もある。そう、一晩泊めるだけだ。話を聞くだけ聞いて、明日になったら何かすてきな夢を<貼>ってやって、どこへなりとも返してやればいい。


「生憎、来客を全く考えていない部屋なんだが……まぁ、一晩くらいなら何とかなるだろう。ついてきてくれ、このビルの屋上だ」


 会川は、夏屋の入ったビルの最上階を改装して住みついている。

 本来オフィスが入るはずの無機質な部屋には、真ん中に置かれたダブルベッドの他に家具らしい家具は殆どなかった。愛想の無い硝子製のスイングドアの横にはコインランドリーへ持っていく衣類を入れた籠とゴミ袋。その横には四方が硝子で囲まれた業務用の小型冷蔵庫が置かれていて、中には経口栄養剤のパウチが満載されている。

 一辺が10mの正方形に似た部屋にあるのはそれだけだ。コンクリート剥き出しの天井へまばらに取り付けられた蛍光灯の真っ白い光が、それらを無機質に照らしていた。


 会川が部屋に求めたのは次の二点。南向きであることと、日当りがいいこと。だからこの部屋を改装する際に、一つだけ無茶な注文をした。丁度今ベッドが置いてある真上に、天井をくりぬいて天窓を取り付けたのだ。彼の幻は、少しだけ陽に透ける。


「ずいぶん変わった部屋に住んでいるのね」

「会川だ。あなたは」

「ミヤコ。シャワーはあるかしら」

「右に進んで突き当り。棚にタオルときれいな部屋着があるから好きなのを選んでくれ。ただ、私はそういう意味で君を呼んだわけではない」

「家族は、って聞くのもヤボよね、こんなところにいるんだから。厚かましいけれど、お風呂を出たらなにか食べ物を頂いてもよろしいかしら」

「なんでも、好きなものを」

「じゃ、真っ赤なレアステーキとそれに合うブルゴーニュワイン。あと祖母が得意だったオリヴィエサラダが食べたいわ」

「承った」

「……ねぇ、もしかして、シャワーってこの『給湯室』って書いてあるところ?」

「中は使えるよう改装してある」

「ほんとだ。ねぇ、会川さんって売れっ子のアーティスト? それとも秘密結社の幹部?」

「喫茶店経営とある種の興行収入で暮らしてる」

「ふうん。ねえ、知らないないようだから教えてあげるけど、現代にはマンションっていう便利な発明品があるの」


 シャワーの水が床を打つ音がした。一つ小さくため息をついてから、会川は足元の灰皿を拾い上げ、燐寸を擦って口元の煙草へ火をつけた。


「ふう、案外いいお湯だったわ、ありがと」


 会川は煙草を咥えたまま無言でうなずいた。灰皿は、もう七割程度が吸い殻で埋まっている。

 会川は何も言わず、尋ねる様に煙草の箱を差し出した。


「悪いわね」


 そういってミヤコは一本煙草を取り出すと、会川の咥え煙草の火先ほさきに近づけると一息に吸った。

 会川は灰が床に落ちるのも気にせず無言でミヤコが煙を吐き出す様子を見守っていたが、短くなった火先から立ち上る紫煙が目に染みて漸く灰皿へと放り込んだ。

 半分少しを残して丁寧に揉み消された吸い殻に囲まれてなお赤く光るそれは、少し肩身が狭そうに見えた。


「あいにくこの部屋には食器がない。下に降りてくれないか」


 空になった煙草の箱を握りつぶすと、なにかを仕切り直すように会川が言った。


「そういえばカフェをやってるとか言ってたわね」

「二階だ。外階段で降りてくれ」


「へえ、なかなか素敵なところじゃない」


 それは明らかにお世辞だった。都心から少し外れた雑居ビル二階。会川はそこの潰れたまま放置されていたカフェを買い取って夏屋をやっていたが、前の店が潰れ、放置された理由は中を一目見るだけでおおよそ察しが付いた。

 新しいオーナーも内装や雰囲気にこだわるつもりは無かったため、設備は買い取った当時のまま、傷が目立つ赤と黒の市松模様のタイルの上には色も大きさもばらばらの椅子やテーブルが六組ほど並んでいる。


「ここ、何時からあいてるの?」

「深夜から夜更けまで」

「お酒も出してるお店ってこと?」

「いや、コーヒー……と、たまにパンくらいかな。何しろ常連が居ないんだ、この店は」

「ふうん……。看板も、ネオンサインも、明かりも無し、おまけにOPENの札は部屋の中からしか見えない。住んでいるのもあんなところだし、お金持ちの気まぐれってわけ」

「私が持っているのはこのビルだけだ。それに一階が閑古鳥が鳴く薬局、二階がこの店、三階と屋上は空室だから左団扇とはいかないよ。それじゃ私は支度をする」

「期待して待ってるわ」


 キッチンと思しき方向に消えた会川を見るともなしに見ながらミヤコはそういう。

 しかしその言葉の余韻がまだ消える間もなく、銀の盆をげた会川が戻ってきた。


「確かに私も無理を言ったかもしれない。それに折角出していただいたものに文句をつけるのもどうかと思う。でも、仮にも飲食店の店主として、これはちょっとひどいんじゃないかしら」


 会川が運んできた二枚の皿にはそれぞれ非常食の缶詰が開けられ、ワイングラスには透明な水が入っていた。会川は黙って右手を差し出す。


「悪かった、友好の証だっていうわけ?」


 ミヤコは、胡乱な目を隠そうともせずに会川の手を握った。


 そうして、ステーキ、オリヴィエサラダ、ワインの夜食を終えた彼女は、静かに涙を落とし、静かに泣いていた。


「あなた、家族は」

「父はガン、母は自殺。大分昔のことだ」


 彼女は、似てる、とだけ小さくつぶやいた。


「私のおばあちゃん。料理が得意でね、倒れる前日まで料理教室の先生やってたの。人気の先生だった。お盆と正月に帰るたび、本当に豪華な料理を作ってくれて。でも私が一番好きだったのは、そんな大皿にちょこんと添えられていたロシア風のポテトサラダだった」


 彼は何も答えず、静かに聞いていた。なぜなら、もう知っていたから。


「でも、そんなこと言ったら悪いじゃない、もっと手間のかかった豪華な料理が山とあるのに。だから小さいころの秘密の夢は、おばあちゃんのそのサラダを好きなだけ頬ばることだった。思い返せば、人生で一番幸せだったのはあの頃ね」


「今まで忘れていたのに、これを食べたら全部思い出しちゃった」

「君の記憶から作ったものだからな」


 会川は煙草の火を付けながら、小さく言った。


「ねえ。あなたは、―――何?」

「夏屋の店主」

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