空願う少女は動かぬ翼を持って

空宮海苔

第1話:翼は動かず

 カノンは崖から一歩、踏み出そうとした。


 彼女には、空を飛ぶための翼があった。


 雪白な羽根が無数に伸びた天使のごとき翼。


 月光に照らされた少女の綺麗に整った横顔と、大きな白銀の翼が、星のまたたく夜空と合わさって色のコントラストを作り出す。

 さらに、彼女の足元に広がる植物たちが冷涼な夜風になびいて緑の波を作り出す。

 ――その光景はまるで、一つの絵画のように美しかった。


 けれど、その夜闇に踏み出そうとする彼女の足は寸前のところで止まる。


 全てを飲み込んでしまいそうなこの暗く、そして広い空を見ると、恐ろしくて足がすくんでしまう。

 翼があるだけでは、飛べなかった。


 空を埋め尽くすように燦然さんぜんと輝く白星も、夜闇の中にただ一つ静謐せいひつに浮かぶ青白い月も、カノンを後押しすることはなく、ただそれに届かないという事実が彼女を焦らせた。


「私には――届かないよ」


 悲嘆ひたん焦燥しょうそうを抱え、その口からまるで鈴のような透き通った声が漏れる。

 まだ十五の少女にとって、この大きな空は恐ろしすぎたのかもしれない。


 涙が出そうになるのをこらえ、手で顔を覆い、手をきゅっと握る。髪が巻き込まれ、艶がかった綺麗な深青色しんせいしょくの髪が歪む。

 震える足を曲げてその場にへたり込んだ。


 ◇


「ただいま」


 気落ちしたまま、カノンはキィィと軋む木製の扉を開いた。


「カノン、何してたの? こんな遅くまで」


 ソファーで新聞を読んでいた母がカノンに気づき、怪訝な表情で振り返る。

 薄青色の髪に、金色の瞳。

 その容姿は歳を重ねてはいるもののかつての美しさを感じさせるものだったが、目つきがあまりよくないために台無しになっているようにも感じる。


「……ごめんなさい」

「謝らなくてもいいわ。でも何してたの?」

「飛ぶ練習、してた」


 カノンは俯きがちに答えた。


「――そう。飛べた?」


 まるで期待していない声だった。


「……ダメだった」

「そう。でも、セレストなんだから早く飛べるよう努力しなさいよ?」


 カノンの短い言葉に、母はそれだけ言ってから新聞に向き直った。


 彼らは天人族てんじんぞくと呼ばれる人種だ。


 その原種は翼の生えた金髪金眼の、まさに天使のような人間だった。

 しかし、現在では別の人種と混じり合い、金髪や金眼が多いだけの普通の人間となった。

 

 ただし、今でも彼らの中には稀に天使のような翼を持った人物が生まれる。

 そのような人物たちは、過去純血の彼らがそう呼ばれたように、現在でも『セレスト』と呼ばれる。


 彼女の胸に着けた、金色にプラチナの装飾が入った星型のブローチも、伝統的なセレストの証だ。


 ――つまり、彼女は翼を持って生まれた才ある人間・・・・・だった。


「……はい」


 カノンは目を伏せ、二階の自室へ向かった。

 さり際、聞こえた母親のため息にカノンはびくっと肩を揺らす。


(また失望させちゃった。私には、何もできない)


 そんな自責思考がカノンの中に降り積もる。


 自室の扉を開けると、中は暗く、窓から差し込む月光のみが光の源だった。


 机の上には、教科書が二冊といくつもの本が置かれていた。

 彼女はその光景にさらに焦りを感じる。


「いつになったら、みんなと同じように行けるんだろ」


 彼女は、最近学校へ行けなくなっていた。

 まばらには登校しているが、その頻度が低い。

 成績もかんがみて、学校側からもある程度許されているし、両親も飛べれば良い、といった様子で、特に何も言ってこない。


 机に置かれたオイルランプの火を、月明かりを頼りにしてつける。


 机の中からノートを取り出して、勉強を始める。

 行けないならせめて、追いつけるくらいには頑張らないと。彼女はそう思った。


 ◇


 次の日、そのまま寝てしまった彼女は目覚ましで六時に起こされてから、朝の準備をした。

 学校に行く準備だけしてから、シンクで皿洗いをし、外に干した洗濯物を取り入れて畳んだ。


 そして、それから学校の時間まで少し寝ようと思っただけの彼女が、学校の時間をのがしてしまうのも仕方のないことだろう。


 ――次にベッドで起きた時、時間は十時を過ぎていた。


(空……キレイだな。もっとうまく描かないと。こんなんじゃだめ。今見てる空と同じくらいの絵を――)


 面倒になって学校もほっぽり出した彼女は、簡易的なセットだけ持って外で水彩画を描いていた。


 膝の上の木枠に乗せられたキャンバス紙に向かって、彼女は絵筆を進める。


 今彼女の居る、街の端にある少し崖になった場所からは、建物と空の両方がよく見える。


 比較的高所にあるこの街『アルタスト』は、街の中にも高低差がある部分が多く、周囲にも崖が多いのだ。


 彼女は、黙々と作業を続けた。

 もっと綺麗に、私の理想に近づくように。

 その一心で書いていた。


「できた……」


 黒の鋳鉄でできた街灯に、荘厳なコンクリートでできた家がいくつか端に入り込んでいる。また、建物の窓には空から反射した白い雲が写っていた。


 そして真ん中には、青く、そして広い大きな空が広がっている。

 温かい春を感じさせる少し横長の真っ白な雲が点々と浮かんでいるその絵は、確かにプロと比べれば品質は落ちるが、十五という年齢から考えれば凄いと言わざるを得ない品質だった。


 しかし、彼女の胸に達成感はあれど、良いものができたという満足感はなかった。


「全然、ダメだなぁ」

「えっ? めちゃくちゃよくできてるじゃん」


 と、彼女の言葉に反応するように、後ろから男の子の声が聞こえた。


「だっ誰⁉」

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