牛と落人と神託と

綿雲

神様の落とし物

乱雑に書類や文具なんかが散らばったデスクのど真ん中に、あくまで厳かな顔をして鎮座する白い牛。

それを挟んで向かい合い、俺と初老の警官は背を丸めて座っていた。


「困るんだよねこういうのって、結局落とし主が現れないとなるとさ」

「はあ」


ものがものなだけに処理も厄介だし、と警官のついた溜め息が白く染った。12月も近付き、交番には石油ストーブが設置されているが、冷え込む朝方にはもう一歩力不足な代物である。

俺は悴んだ手を擦るふりをしながら、ちらと腕時計の時間を確認する。


「だいたいどこに置いとけってのよこんなもん、像ですよ像」

「ゾウというよりはウシじゃないんですか」

「そういう意味ではないって、牛の像でしょうよこいつは」

「それはまあそうですね」


彼の警官の言う通り、その白牛は真っ白な石に寝そべった牛の姿を象った石像であった。サイズ感としては横倒しにした1リットルの牛乳パックくらいだろうか。それなりに大きくて、だからそれなりに重みがあった。よく転がった時に傷が付かなかったな、と改めて思う。


美術品とか言うよりは、どうもお地蔵さんとか小さな大仏様のような、神社で祀られる類のものに見えた。警官にそう伝えれば、きっと天満宮のやつのお土産かなんかだろうね、と言った。警官の説明もお粗末すぎたが、ああなるほど、となんとはなしに納得した俺も大概だった。


「まあそれなら縁起物でしょうし、そこらに飾っとけばいいのでは」

「一応遺失物なんだからそういうわけにもいかんでしょう君、ていうか本当に落し物?そこらの祠からひょいと持って来ちゃったんじゃないの?」

「そんな不敬な、転がってたんですよ道の真ん中に、ごろんと」

「ごろんとねえ」


冗談みたいな話だが、嘘ではなかった。白い鳩でも蹲っているのかと思ったら白い牛だったのだ。

いつもなら無視するところだが、この日に限っては、そういった神とか仏とかに関わりそうな、所謂バチが当たりそうなサムシングを放置しておくのも気が引けるわけがあるのだった。


「あれだね、受験の神様が転んでたってのもどうかと思うけどね」

「受験の神様なんですか」

「そうそう、なんてったかな、とにかく学問にご利益のある神様ですよ。学業成就試験合格必勝祈願てね」

「はあ。凄そうですね」

「そうそう、白い牛はえらい神様のお遣いなんですよ。そうだ君は?受験の予定ないの」

「ちょうど今日これから就職の面接が」


これがつまりその理由であった。大学を卒業して暫く経つにも関わらず、俺は未だ就職活動を終えられずにいた。

去年のこの時期には四年生も終盤に差し掛かり、就職活動なんて終えている奴がほとんどだった。引き換え俺はと言えば、卒業後もバイトをしながら就職活動を続け、いくら面接しても結果はお祈りメールが来るばかり。


焦りなんてとうに通り越して、言い得ない不安が絶えず胸の内を蝕み続けていた。神でも仏でも牛でもなんでもいいから祈りたいのはこちらの方なのであった。


「あらいいタイミングじゃない、ご利益あるんじゃないの」

「でも転んでたのにですか」

「細かいこたいいじゃない、とにかく名前と住所と電話番号ね、ここに書いてってくださいよ。一応規則なんでね」


早めの電車に乗るために余裕を持って出てきたとはいえ、やはり少し時間が気になって、さっさとペンを動かした。その間も牛の石像は俺の手元をじっと見つめているような、と考えて、俺は何をやっているんだろうかと空虚な気分にもなってくる。


「はい確かに、えーと須賀さんね。拾い主は落とし主が見つかれば一割貰えますからね」

「一割のご利益ってどのくらい効くんですかね」

「さあねえ、まあ普段は何万人のうちのひとつのお願い事が、いま百分の一だと思えばね。それなりなんじゃないですか、ねえ」

「はあ」




面接には落ちた。当然の如く落ちた。この翌週の朝、駅のホームで電車を待っている最中だった。何通目かもわからないお祈りメールの文面が目に飛び込んできた瞬間、体のどこかで、ふつりと糸が切れたような心地がした。


もういいか。


俺は掌から携帯端末を取り落とした。踏み出した足が点字ブロックを超える。やけに軽い体が宙に浮いた。


俺は落ちた。




目を開けるとそこは白くぼやけた世界だった。虚ろを眺めてぼーっとしていると、同じくぼやけた白衣姿の人物がこちらに何事か話しかけてくる。朧げな視界はコンタクトをしていないせいだとその時やっと気付いた。


「須賀さん、あなた駅のホームに落ちて電車に轢かれたんですよ。覚えてます?」

「いいえ」

「そりゃあそうか。しかし助かったのは奇跡ですよ。打撲と全身骨折くらいで済んだのは本当に運が良かったとしか言いようがない」


患者本人としてはたいした怪我ではあるのだが、電車に弾き飛ばされたという情報を鑑みるにましな方だったのだろう。

上手く頭が働かずに黙っていると、医師は何か思い出したのか、眉を顰めて軽くため息をついた。


「あなたね、こんなこと言いたかないが、死のうなんてもう考えないことですね」

「え」

「あなたがためらいもなく線路に向かっていくのを見ていた人がいたんですよ。せっかく寿命が伸びたんだから、もう馬鹿なことを考えちゃいけませんよ」


医師はそれだけ言い残すと、カルテを捲りながらどこかへ行ってしまった。

ゆっくりと、しかし確実に、事故の瞬間の記憶が蘇って来た。


俺は確かに、死のうとしていた、のかもしれない。

これでいったい何社目だっただろう。特技も資格も経験も何もなく、せいぜいが趣味は読書、という語れる自己など何も持たない俺を、採用する会社などあるはずもなく。


神のご利益でもあればあるいは、と思ったあの会社も、結局は駄目だった。そもそもがあの時電車に乗ろうとしていたのも、次なる面接先へと向かうためだった。


真横で轟く列車の騒音だけを覚えている。

どこも動きやしない体をベッドに預けたまま、俺はただぼんやりと白い天井を眺めて過ごした。間違いなく自分の体がこんな状態なのに、どこか他人事で、涙すら出なかった。




退院したころにはもう蝉の鳴くような季節であった。

俺は当然無職のままで、リハビリとカウンセリングのために自宅と病院とを往復するだけの、軽い隠遁生活のような日々を送っていた。


そんなある日、偶さか件の交番の前を通りかかった。ああ君、牛の、とでかい声で呼び止められ、何事かと振り返る。牛の君とは何やら人聞きが悪かった。

見れば、あの日遺失物を預けた白髪の警官が、にこにこしながら自転車から降りる所だった。


引き取り手が現れる間もなく、その後あの白牛像は忽然と姿を消してしまったそうだ。おまけに俺の署名した遺失物届けの書類も紛失してしまったらしく、件の警官はいやあ助かったよ、などと悪びれもせず笑っていた。


「しかし君、なんだか先日より顔色がいいんじゃないの。もしかして面接受かったかい」

「いえ、落ちました」

「ありゃ、そらごめんね」

「お気になさらず」

「まあきっと次があるって、今回落ちたのも神様のお導きかもしれんしね」


ホームから落ちたこともお導きの末路なのだろうか。些か釈然としない心地で、はあ、と相槌を打つ。まあ自ら進んで電車に撥ねられたくせに生きているのだから、むしろそっちがご利益だったと考えるべきか。


神など信じていないつもりのくせに、都合のいい時だけ自分の身に降り掛かった災厄や幸運に、神だの仏だのとぐちゃぐちゃ理由をつけたくなるのは、人間皆同じなのだろうか。


「そういえば私もね、あとからよくよく調べてみたんだけどさ」

「落とし主についてですか?」

「違うって、あの像のこと!いきなりふっと消えちゃったもんでさ、こりゃ本当に霊験あらたかだって思ってさ」

「あらたかでしたか」「そりゃああらたかでしょう」


あの像ってこんな感じだったよね、と警官は携帯端末の画面を俺に向ける。あの日拾ったのとよく似た牛の石像が写っていた。光沢のある白い石でできた背中の、滑らかでごつごつした手触りをぼんやりと思い出す。


「はい、たしか」

「やっぱり?これって撫牛って言ってさ、菅原道真公にまつわる牛らしいのよね」


古来より伝わる伝承、もとい検索エンジンの知恵に拠れば、白牛は道真公の遣いであるという。

歴史に明るくない俺としては正直あまりイメージが沸かなかったが、たしか中学か高校の修学旅行で天満宮だかと名のつく神社に訪れたことがある気がする。


そう伝えれば警官はそうそうそれ、と手のひらで左右に宙を切るような動作をして見せた。恐らくあの大きな牛の像を撫でるさまを表したかったのだろう。


「なんでもね、私はてっきり学業とか受験の神様だと思ってたんだけど。どうもそれだけじゃなかったんだな」

「はあ。というと」

「というとだね、諸病平癒、つまり病気や怪我を治してくれるというご利益もあったというわけ」


つまりは健康の神様でもあったわけか。皆が頭を撫でていくんだよね、と笑いながら、警官は己の白髪まじりの頭をがしがしと掻いている。


確かに端末の画像を見ても、青銅製らしい撫牛は頭のてっぺんだけがやたらと変色していた。撫でた箇所の病気が治る、という話と学業成就の話とがごっちゃになって、頭が良くなりますように、という願いの形が広まった末、皆が頭を撫でていく、ということだろうか。

神に向かって申し訳ないが、禿げあがった頭部はストレス性の脱毛症を想起させる。俺と同じだな。


「いやあ参拝客も学生さんが多いしさ、ちゃんとしたところを全然知らなかったんだけどね。でもこれで君はさ、2種のご利益を得られたってことじゃないかしら」

「学問と、健康ですか」

「そうそう!きっと就職がもしアレでもさ、健康の方で何かしらあるんじゃない、たぶん」

「何かしら…」

「いいかい若い人、何事もね、健康が第一ですよ。仕事があっても体が悪くちゃあ続かない訳ですしね、つまり君が今息災でいる、それこそが霊験かもしれないし、健康な身体があってこそ新たな出会いに繋がるんだな、おそらくは」

「濁しますね、さっきから語尾を」

「まあまあ」


こんなふうに多くの参拝者から散々勝手な期待をかけられて、叶わなければ罵られて、その挙句に禿げるんじゃ、神の使いとはいえ彼の牛もたまったもんじゃなかろう。


就職活動から何から、生きることさえ上手くいかない俺をいちいち詰る親の顔が脳裏に過ぎる。おまけに追い討ちのように入院のおかげですっぽかした面接先やバイト先からのメールの山を思い出した。


しかし、もはや俺はそんなことすらどうでもよかった。あの日線路に落ちてから、いや、もしかしたらもっと前から、俺の中身は空っぽだ。


もし本当に神様がいるなら、これからどうすればいいのか、くらいは教えてくれればいいのに。


「いやね、つまり何が言いたいかというとさ」

「あ、はい」


どうでもいい雑念に半分思考を奪われていた所に切り出され、気の抜けた返事が口をついて出る。警官は人の良さそうな笑みを浮かべると、俺の背中をばしんと叩いた。


「まあ、とりあえず生きてりゃ何とかなるよ、ってことさ」


俺は胸の内を見透かされたかのような思いと、鈍く走る痛みに呆気に取られて、思わず警官の顔をまじまじと見つめた。


如何にもいいかげんな警官は、わはは、と笑いながら、アホみたいに口を開けたまま突っ立っている俺を叩き続ける。その時久しぶりに、誰かの目をまっすぐに見た気がした。


「…あの」

「なんだい?おじさんもたまにはいいこと言うだろ?」

「そこ、この前折ったばっかりで、まだ完全にくっついてないんで…」

「え!?ごめん!うわあ大丈夫!?」


俺はずきずき痛む肋を抱えながら、思わずへらりと笑ってしまった。


とくに何かが解決したわけでもないし、そもそもご利益と言うには微妙にずれてる気もするし。神がいたからって都合よく仕事が降ってくる訳でもないんだろうが。


まあ、それも神託なのか。


「はは。お巡りさん」「どうした、痛むかい?救急車?」

「いや。俺、大丈夫そうです」

「そ、そう?なら良かったよ」


帰ったら、久々にお気に入りの本でも読んでみようかな。


痛みに縮こまって固まっていた体から、喰い込んでいた何かが剥がれて落ちた。少しだけ呼吸が楽になった気がした。

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