第8話 湖上の城
それから更に数日が過ぎ、ヒラクたちを乗せた帆船は、東へ向かう川に合流する運河に入り込んだ。運河の両岸には装飾が豪華な石造りの物見塔が等間隔に並び、それぞれの尖塔が空高くそびえ立っていた。
ヒラクが船の甲板から周囲を見渡すと、運河の先には巨大な石造りの水門が姿を現した。それは開閉式の水門で、物見塔をひとつひとつ通りすぎるたびに段階的に開いていった。
通行門を通ると、その先にはさらに同じような水門があった。
後方で今通ってきた門がゆっくりと閉ざされる。
後方の水門が完全に閉まると前方の水門がゆっくりと開いた。
門の隙間から水が流れ込んでくる。
船は水位の上がった水面を進み、前方の水門を通り抜けた。
水門を抜けると大きな湖に出た。向こう岸からせり出すような石壁に囲まれた都市が見える。それはまるで湖に浮かんでいるかのようだった。
「あんなところに町がある!」
ヒラクは船から身を乗り出して興奮した様子でジークに言った。
「あれがルミネスキの王都です」
「ここら一帯は湖沼地帯で、王都は森と湖に囲まれているんでさぁ」
ジークに続いてハンスが言った。
やがて船は石壁に近づき、槍を手にもつ門衛を両脇に配置した門の前に接岸した。
すでに日も暮れかけている。そこで船は一晩停泊することとなった。
昨夜、ジークはエルオーロの老神官に渡された文書を門衛に見せ、自分たちは神殿の使者であると説明したが、城へ伝達がなされたのは翌朝で、ヒラクたちは午前に船を見送った後も、しばらく門の前で待たされた。
湖から吹きつける風は冷たく、外で待つのはつらいものだった。
朝から待たされたまま、日もとうに高くなり、ヒラクがしびれを切らした頃、ゆっくりと重たげにやっと表門が開いた。
ヒラクはさんざん待たされていたことも忘れ、門の向こうにどのような世界が広がるのか目を輝かせながら、わくわくした様子で待ち構えていた。
そんなヒラクの背後でユピは影のようにひっそりと立っていた。
門から中に入ると、ちょうど雪がちらつき始めた。外界とは切り離された雪の町が突然現われたようだった。
城からの迎えの馬車に乗り、ヒラクたちは城に向かった。
車両の両側についた小窓に景色が流れる。
ヒラクは食い入るような目で町の様子を眺めていた。石畳の街路に沿って建ち並ぶ木骨れんが造りの家の間柱は幾何学模様のようで、それぞれの家屋の三角屋根も格子窓も美しい統一感があり、活気はあるが雑然としたエルオーロとはちがい、町全体が整然として手入れが行き届いていた。
まもなく馬車は広場にある噴水を横切った。
「プレーナ!」
噴水の中心にある大きな乙女の石像を見てヒラクが叫んだ。
「あの噴水にある石の像は何?」
ヒラクは向かい側の席に座るハンスに尋ねた。
「月の女神の像のことですかい?」
「月の女神って……」
「今はお静かに願います」
いかめしい顔つきでジークが言う。
ハンスは口を引き結んで肩をそびやかし、目まで閉じてみせた。
ヒラクもしかたなくそのまま黙りこんだ。
やがて家並みが途切れ、森が広がり、木々の隙間から湖が見えた。
しばらくすると木々が開け、湖が目の前に迫った。ちらちらと舞う雪が湖面に吸い込まれて消えていく。
湖の中島にはまるで雪と氷で作られたかのような美しい城がそそり立っていた。白亜の壁の建物に円すい型の屋根を持つ大小様々な塔が林立している。中島の岸からは湖に突き出すように桟橋がのびていた。城門の前の跳ね橋が降ろされ桟橋と結びついている。ヒラクたちを乗せた馬車は城を目指して湖上の橋をひた走る。
「すごい、何これ? 水の上?」
小窓から湖面を眺めながらヒラクは興奮した様子で叫んだ。
やがて、二つの円塔に挟まれた二階建ての建物になっている城の正門を抜けて馬車が停まると、ヒラクは勢いよく地面に飛び降りた。
門の両脇に列をなす甲冑に身を包む兵士たちが、馬車から飛び出してきたヒラクを見て槍を構えた。
かばうようにジークがヒラクの前に出る。
そして両脇の兵士たちの列の中央を杖をついて歩いてくる人物を見てジークはハッとした。アッシュブロンドの長い髪を揺らしながら、白いローブを身にまとった青年が、片手で杖をつき少し足をひきずりながら近づいてくる。なつかしそうにジークをみつめる青年の水色の瞳は、二人が旧知の間柄であることを物語っていた。
「遠いところをはるばるようこそいらっしゃいました」
青年はジークから目をそらし、ヒラクとユピに恭しく挨拶した。
ユピもそれに応えるように一礼するが、ヒラクは口を大きく開けて目の前にそそり立つ主塔を見上げたままだ。
円形の大きな塔の頂上部には環状のバルコニーがあり、その上がどうなっているのか、はるか下からは到底うかがい知ることはできない。
隣でハンスが修道着のそでをひっぱるが、ヒラクは圧倒されたまま、その場に立ち尽くしていた。
ジークは白いローブ姿の青年をみつめながら、昔の面影を重ねていた。
(……生きていたのか)
ジークは安堵と混乱の入り混じる複雑な心境だった。
降り注ぐ雪の中、水を含んだ冷気が漂う。美しくもどこか陰鬱な雰囲気をかもし出す白亜の城にヒラクはひっそりと迎えられた。
ヒラクたちはまず城門を抜けて右側にある建物に案内された。城の兵士たちが居住する場所だ。
ジークとハンスはそこで衣服を着替えた。ハイカラーのチュニックの上に肩マント、長手袋、ブーツといった姿のジークは、誇り高き騎士といった風情があり、よく似合っていたが、羽根のついたつば広の帽子をかぶったハンスはどこか滑稽だった。
兵士たちの住む建物の二階は長い通路になっていて、ヒラクはジークとハンスを従えて、ユピと共に奥の城館へと向かう。
白のローブ姿の青年が先を案内した。青年は城の神官で、名前をロイといった。
「ねえ、ロイ。神官ってことはエルオーロのじいさんと同じように黄金王に祈ったりしてるの?」
ヒラクは自分の母語であり、メーザでは「神語」と呼ばれる言語で話した。一般的ではないとはいえ、神官ならば当然話せる言語だ。
ロイは流暢な神語で答える。
「はい。黄金王の血を引く陛下に仕えながら神事を代行するのが私の務めです」
「陛下ってどんな人?」
「お会いになればわかります」
その言葉でヒラクは一刻も早く「陛下」に会ってみたくなったが、城は思った以上に広く、なかなか謁見の場所までたどりつかない。
兵舎の先の建物には城の使用人たちが住んでいる。パン焼き職人や料理人たちの私室もあり、同じ棟には城の台所があり、地下にはブドウ酒の貯蔵庫や食糧庫がある。使用人の住む建物の向かいには、広大な中庭を挟んで来客をもてなすための館があり、三階建ての建物には浮き彫り装飾で縁取られた小窓が並んでいる。中庭の奥には一際大きな城館がある。切り妻の屋根は円すい型の頂を持つ小塔で飾られていて、張り出し窓や側塔も装飾のようについていた。
ヒラクたちは、奥の城館に行くために、広大な中庭の回廊から別棟の建物に入り、片側にアーチ窓が連なる廊下を歩き続けた。
その広さに驚きながら、ヒラクは前を行くロイに言う。
「こんなに広いところならたくさん人が住んでいるんだろうね」
「そうですね、下働きの者たちや兵士たちは多数おります。ただし、陛下の身近にお仕えできる者は限られています。ですからこの辺りは人少なになっているのです」
「でもさっきから何人かすれちがっているよね?」
「え?」
ヒラクの言葉にロイだけではなく、後方を歩くジークやハンスも驚いた。
「何のことです?」
そう言うロイの言葉を今度はヒラクが不思議に受け止めた。
「黒い布をかぶった人たちが歩いているじゃないか」
ヒラクは先ほどからそれが気になっていた。どこから現れるのか、頭から布をかぶった髪の長い女が薄暗い廊下の先から影が形を成すように現れては、顔も上げずに無言でヒラクたちとすれ違っていく。
「あの人たちは一体……」
そう言いかけて、ヒラクはハッとした。
先ほどから一人ずつすれちがっていると思った黒衣の女は、身長も歩き方もまるで同じで、頭巾からはみだして見える黒髪の長さも同じだ。別人と判断するよりも、同じ人物が同じ場所を何度も通っていると考えるべきだ。
だが、黒髪の女がヒラクたちとすれ違って歩き去る姿が見えなくなるとすぐ、廊下の先から再び現れるのはどういうわけか……。
ヒラクは次にやってくる女を待ち構え、そのわけを知ろうとした。
ところが、女の姿に注目すると、急にその形が歪んで目で捉えづらくなる。
ヒラクは目をこすって瞬きしたが、次の瞬間には女の姿は消えていた。
「あれ? なんで?」
ヒラクは廊下の前後を交互に見た。女の姿はどこにもない。
「もしかして……」
ヒラクは廊下の片側のアーチ窓に駆け寄って外を見た。そこからは中庭が見える。ヒラクは焦点をずらすようにして庭全体をぼんやり眺めた。意識が城の周囲の空間に広がって溶け込んでいく。
人の気配が漂う。
今、この場所にはいない人々が、時間を越えて、存在を色濃く残す。
ヒラクの目には中庭の木を刈る男や家畜を追う使用人たちや兵士と落ち合う侍女などがあちらこちらにいるのが見える。けれども実際はそこに同時に存在していたわけではない。過去の映像が折り重なるようにしていっせいに甦っているのだ。
ヒラクは石材を運ぶ男の一人に意識を向ける。
すると他の男たちの姿は消え、焦点を合わせた男の姿だけが濃くなる。
その男に声を掛け近づく仲間の姿も同時に見える。
それはこの城の建設時の記録だろうか。近づけば、会話も聞き取れるだろう。
「そうか……。この城は湖に囲まれているんだ。この場所全体が過去の記録を宿しているっていうことか……」
ヒラクが見た黒髪の女は、この廊下を過去に歩いた女の記録で、ヒラクが何度もすれ違ったと思ったのは、女の姿を同じ場所で繰り返し読み取ったためだ。
「見えたの?」
ユピがヒラクに近づき小声で尋ねた。
ヒラクはうなずき、自分が水に記録されたことを読み取る力があることをその場にいる全員に説明しようとした。
だがユピがそれを止める。
「ヒラク、それは今ここで言うべきことではない。誤解や混乱を招きかねないよ」
「でも……」
「君は自分でそのことについてしっかりと説明できるの?」
そう言われると、ヒラクはぐっと言葉につまる。自分が見ているのは水に宿る過去の記録であるらしいということを、同じ能力を持つヴェルダの御使いから聞いて知ったのはつい最近のことだ。
それに、過去の記録とだけは言い切れないものもヒラクは同時に見ることができる。それが何であるのかは、ヒラク自身にもわからない。
「自分でも把握しきれない力は秘めておく方が賢明だよ」
ユピは青い瞳を細めて微笑した。
「勾玉主様、いかがされたのですか」
ジークが近づいてきた。
「……何でもない。それより、先へ進もう」
ヒラクはジークに背を向け、ロイに案内を促して再び廊下を歩きはじめた。
この水の記録を読む能力がこのルミネスキにおいて大きな意味を持つことをヒラクは気づいていなかった。
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