第6話 たった一人の神様?
神殿から食堂に戻ったヒラクたちは、長テーブルの上に用意された夕食を口にした。
パンと野菜のスープだけという質素なものだったが、お腹がすいていたヒラクは喜んで食べた。硬いパンはスープに浸して食べることで少し食べやすくなった。スープは野菜の風味が感じられて、ヒラクにとってはおいしかった。
パンを食べ終わったヒラクは、両手で器を持ってスープを啜った。その音が耳につくほど、神殿は静寂に包まれている。ヒラクは、一番にぎやかに音を立てているが、それさえも静けさを強調していた。
「なんか静かだね」
ヒラクはスープを飲み干すと、隣に座るユピに言った。
「夜の町はあんなににぎやかでまるで昼のように明るかったのに」
「偽りの光に惑わされ、太陽神との絆を断った愚か者の町の姿です」
食後のお茶を運んできた老神官が言った。空色の修道着の少年が空いた皿を片付けていく。
「夜は太陽神が死んだ世界です。復活の朝を祈りながら静かに過ごすもの。そして迎える朝に感謝して新しい一日をまた生きるのです」
老神官が言うことにヒラクも何となく共感した。
ヒラクが生まれ育ったアノイの村では、夜は暗く、闇は深く、人は沈黙して朝を待った。狼の遠吠えが危険を告げ、暗闇には人を払う不気味な気配が漂っていた。各家々では炉の火を常に絶やすことはなく、火の祖母神には常に感謝を捧げていた。
「おれが住んでいた村でも、火の神にはいつも感謝していたよ」
「火の神?」老神官はヒラクに聞き返した。「それは太陽神のことですか?」
「火の神は火の神さ。水の神は水の神だし、川の神とか山の神とかいっぱいいるんだ」
「いっぱいいる? それはおかしい」
「何で?」
ヒラクは不思議そうな顔をした。老神官はどこか不快そうだ。
「神はただ一人、この世界を生み出す太陽神のみです。あなたが言っているのは神でもなんでもない」
「じゃあ何?」
「神ならざるものということでしょう」
「それは
「真実の神ではないのなら、偽りの神ということになるでしょうね」
「神さまって、にせものか本物かってそれしかないの? どうして一つの神さまだけが正しいって決めつけるの?」
ヒラクの胸にはもやもやとしたすっきりしない思いがあった。
「神は唯一絶対なる存在だからです。この世界を生み出した偉大なるお方であられる。それを否定することは、自分が生きているこの世界さえ否定することになるのです」
老神官の言葉にヒラクはよけい混乱した。
何も言えなくなってしまったヒラクを諭すように、老神官は声をやわらげて言う。
「あなたはまだ何もわかっていないようですね。ですが勾玉主であるならば、いずれは私の言うことも理解されることでしょう。太陽神にたどりつくことができれば、あなたにも真実の神が何たるかがわかるはずです」
「……じゃあ、なんでおれは勾玉主なの? 真実の神を知るのが勾玉主で、太陽神がそうだっていうなら、そのことをすでにわかっているあんたが勾玉主だっていいじゃないか」
ヒラクの言葉に老神官は言葉をつまらせた。
ハンスはにやにやと笑う。
「こりゃあ一本取られましたねぇ」
「ハンス」
ジークはハンスを一にらみしてから、戸惑う老神官を見た。
「いずれにしてもこの方が勾玉主である以上、いずれ真実は導き出される。ここで議論するまでもないことです。この辺で話をやめて、勾玉主様を休ませてさしあげたいのですが」
「ああ、そうですな……」
老神官は平静を装うと、修道着の少年に目配せし、寝室へと案内させた。
宿坊は閑散として、人の気配はまるでない。
ヒラクは高貴な客のための離れの宿舎に案内された。
貴人のための部屋とはいっても、ただ広く、真ん中にベッドが二つ並んでいるだけの石壁に囲まれた薄暗い部屋だった。
ヒラクの強い希望により、その部屋はユピと一緒に使うことになった。
その晩、ヒラクはなかなか寝つけずにいた。
隣のベッドでユピが声を掛ける。
「ヒラク、眠れないの?」
「うん……。なんか広くて落ち着かない」
「……おいで」
ユピはヒラクの方に体を向け、片手で掛け布を持ち上げた。ヒラクは隙間に滑り込む。
「あったかい」
ヒラクにとってそのぬくもりは、いなくなった母の愛情に代わるものだった。
ある日、ヒラクが目を覚ますと隣にあったぬくもりは冷え切って、母は姿を消していた。眠れない夜は、そのときのことが思い出されて、ヒラクはよけいに眠れなくなった。そんなヒラクを寝かしつけるのがユピの役目だった。ユピもまた、ヒラクを胸に抱いて眠ることで自分の居場所を確認できる気がした。
「ユピ、いつもの怖い夢まだ見る?」
ヒラクはユピに尋ねた。
怖い夢とは、ユピがどこか広い城の中にいて、赤いカーペットの敷かれた長い廊下を一人、突き当たりの部屋を目指して歩いているというものだ。その部屋で待つものを思い出しかけると、ユピはいつも発作的に苦しむ。
「まだ、頭痛くなる?」
ヒラクは心配そうにユピを見るが、暗がりで、その表情はよく見えない。
「……長い夢を見ている気がする」
ユピは小さくつぶやいた。
「砂漠に放り出されたとき、神帝国の皇子として暮らした日々は幻だったのではないかと思った。アノイの地にいるときも、知らない世界に迷い込んだ感じだった。そしてまた僕はこうして見知らぬ世界にいる。悪夢と思っているのは僕の現実で、そこから逃れるための場所を僕は夢に見続けているだけなのだろうか……」
ヒラクは心細げにつぶやくユピを元気づけるように言う。
「ユピの怖い夢の中に行けたらいいのにな。そしたらおれがユピをそこから助け出すよ」
「……助けられるよ、すぐにでも」
ユピは低くつぶやいた。
「どうすればいいの?」
ヒラクは声を弾ませた。
「本当の神さまをみつければいいんだ」
「本当の神さま?」
「勾玉主の君ならばそれができるはず」
ユピの口調はいつもと変わらず静かで穏やかなものだった。冷たい微笑は暗闇に紛れてヒラクには見えない。
「でもおれ、わからないよ。本当の神さまってたった一人しかいないっていうのだって、まだよくわからない」
「あの神官が言ったことを気にしているの?」
「うん……」
結局ヒラクが寝つけない理由はそれだった。アノイの自然の中で多くの神々の存在を感じてきたヒラクにとって、そのすべてを否定することはどうしてもできない。そのくせ母が信じたプレーナのような唯一絶対の神を求める気持ちもある。相反する気持ちをどう整理していいのかヒラクにはわからなかった。
「にせものをどんどん排除していけば、やがて本物に行き着くんじゃないかな」
ユピはさらりと言った。
「排除って、消してしまうってこと? だけど、それがいいことなのかどうかおれにはわからない。他のものを消し去っていかなければ本当の神さまに行き着けないの? それしか方法はないの?」
ヒラクはプレーナ教徒たちのことを思い出していた。彼らの魂が行き着いた安住の地である聖地を、結果的にヒラクは消滅させてしまった。自ら作り上げた幻想の世界で自分をだますようにして生き続ける人々を見て、ヒラクは救いようのない絶望を感じた。しかし、そこにいた人々は幸福そうに見えた。その幸福を奪う権利が果たして自分にあったのかと思うと、何とも言えない後味の悪さが残る。
「おれは神さまが知りたいだけなんだ。他の人の神さまを消し去りたいわけじゃない」
ヒラクは胸にある思いを自分なりの言葉で吐きだした。
そんなヒラクにユピは優しく尋ねる。
「プレーナを消し去ったことを気にしているの?」
「プレーナ教徒たちにとっては本当の神さまだった。聖地プレーナも彼らの中には確かに存在した。その聖地をおれが壊した。そこにいた人たちは一体どこに行ったんだろう……」
ヒラクはユピの答えから安心を得たい気持ちでいた。
ユピは少し黙ってから、息をもらすように笑った。
「そんなこと考える必要ないよ」
「ユピ?」
その冷たい口調にヒラクはユピの様子がいつもとはちがうことに初めて気がついた。
「本物の神が創る世界が真実の世界。それ以外はまやかし。ありもしないものが消え去ることに、なぜそこまで感傷的になるの?」
「だけど、彼らは確かにそこにいた。おれの母さんだって、確かに存在していたんだ!」
ヒラクは聖地プレーナで確かに母に会ったと思った。あれは水に宿った過去の記録などではない、自分は過去の存在と交流したわけではない、聖地プレーナから抜け出す出口を与えたのは母だと、ヒラクは信じて疑わない。
「そう、君は確かにお母さんに会ったんだね。君がそういうならそれが真実だ」
ユピはヒラクの背中に手をまわし、ゆっくりリズムをとるように優しく叩いた。それはヒラクを落ち着かせるときにユピがいつもすることだ。
「君が認める世界が真実の世界となる。君が信じた神が本物の神だ」
ユピがささやく声でヒラクはうとうとし始めた。
「真実とか……本物とか……どうやったらわかるのかな……」
ヒラクはもうすでに半分眠りかけていた。
「君の勾玉が導くよ。真実の神が君臨する世界を創るために勾玉主は必要なんだ」
「……よく……わからない……」
ヒラクは寝息をたてて眠り始めた。
優しく背中を叩くユピの手が止まった。
「……ヒラク、君は僕の大切な『勾玉』だよ」
ユピは暗闇の中で微笑んだ。
そして漆黒の夜は深まり、黎明の朝がやってくる。
「ヒラク、起きて」
ヒラクはユピの声で目を覚ました。
「あれ、おれ、寝てた?」
ヒラクはほんの一瞬まぶたを閉じただけだと思っていた。
ユピはすでにベッドから起きだしている。
部屋の中は薄明るく、入り口の扉の近くにはランプを手に持つジークとハンスが立っている。
「そろそろ出発します」ジークはヒラクに言った。
「……ジークの国へ行くの?」
「ええ。これから船に乗ります。私たちは神殿の使者として迎え入れられる手はずです」
「そんなわけなんで、これに着替えてください」
ハンスはヒラクに藍色の修道着を手渡した。それは、老神官に仕える少年が着ているものと同じものだ。ユピもそれを手に持っている。
「フードもちゃんとかぶって髪の毛をしっかり隠しておいてくださいよ」
ハンスに言われたとおりにヒラクは修道着についたフードを頭からすっぽりとかぶり全身をしっかりと覆い隠した。ユピも同じように藍色の修道着を身にまとった。
「ジークとハンスは着ないの?」
ヒラクは二人に尋ねた。
「俺たちは用心棒として雇われたってことになってるんでさあ」
ハンスがヒラクに答えた。
「準備ができたのならすぐ出ます」
ジークはヒラクたちを連れて寝室を出ると、まっすぐに黄金王の神像がある神殿に向かった。
外は薄明るく、濃紺の空は青へと変わりゆく途中で、うっすらと夜の気配を残した朝の冷気が辺り一帯に満ちている。
神殿には老神官がいた。
「これをお持ちになってください」
老神官は待ちかまえていたように、ヒラクに小さな布袋を渡した。
袋を受け取ると、ずっしりとした重みがヒラクの手にのしかかった。中には金貨が入っている。
「神官たる王の正式訪問の際には必要もないものですが、それでは納得しない者たちもおりますので。文書はどなたに?」
「私が持ちます」
ジークは前に進み出て、老神官から円筒形に丸めてひもでしばった羊皮紙を受け取った。
「通行証代わりにはなりましょう」
「すんなり入れますかねぇ。俺たちが国を出てからもう十五年だ。忘れられてるってぇことは……」
「滅多なことをいうものではありませんぞ」老神官はハンスに言う。「年に一度は陛下の代理の使者が私のもとを訪れます。陛下は黄金王への祈りを欠かされたことはありません」
「陛下って誰?」
ヒラクは老神官に尋ねた。先を急ぐジークは、老神官が答える前にヒラクに言う。
「直接お会いになってお確かめください。そのためにここから出発するのです」
「じゃあ、早く行こうよ」
そう言うや、ヒラクはすぐにその場を立ち去ろうとした。
そんなヒラクを老神官が引き止める。
「お待ちください。黄金王へ祈りを」
「祈り? なんでそんなことしなきゃないんだよ」
ヒラクはめんどくさそうに言った。
「かつて黄金王はこの地より太陽神を求めて旅立たれた。あなたもそれに続くものとして王にお導きいただけるように……」
「おれはおれの旅をするだけだ。黄金王なんて関係ない」
ヒラクは老神官の言葉を遮った。
ヒラクは黄金王の神像をじっと見た。
(あなたはどうだったの?)
ヒラクは祭壇前の階段をかけ上がり、神像の前に回り込んだ。
それを見た老神官は血相を変えて、祭壇から降りるよう言うが、ヒラクの耳には届かない。
ヒラクはただじっと神像の顔を見上げ、心で話しかけ続ける。
(あなたも自ら知りたいって思ったんでしょう?)
神像は何も語ることはない。
それでもすでにヒラクの心は決まっていた。
(真実がどういうものかなんて、おれにはちっともわからない。それでも前に進んでいく。おれの心が向かう方へと突き進んでいく)
そのとき、ヒラクの右手から強い光が放たれた。
手のひらに現れた勾玉の光を抑えるように、ヒラクは上から左手を重ねた。勾玉を挟んだ両手は自然と胸の前で合わされた。手の中の光は全身に広がり、ヒラクは体全体から強い光を放った。
「おお、これはまさに黄金王のご加護を得たしるし……。まさにこの方こそ真の後継者たる勾玉主……」
老神官は祭壇の前でひれ伏した。
ハンスは呆気にとられている。
ユピは祭壇に上がり、神像の前に立つヒラクのそばに近づいた。
ジークはとっさに腰の剣に手を伸ばした。
「ヒラク……」
ユピがヒラクの肩に触れた瞬間、放たれていた光が消えた。
ユピは戸惑うヒラクの手をとった。すでに勾玉は消えていた。
ユピはうつむき黙り込む。
「ユピ?」
ヒラクはユピの顔をのぞきこむ。
ユピは顔を上げて微笑んだ。
「手、熱くない?」
「うん、だいじょうぶ」
ヒラクは笑いかけるが、ユピの表情はどこか暗い。
「おい、ジーク」
ハンスは、柄に手をかけ剣を抜こうと構えるジークを見てぎょっとした。
「何する気だよ、勾玉主を斬りつける気か?」
「そんなわけないだろう」
ジークは手を下ろし、ヒラクに声をかけた。
「問題ないようでしたら早々にここを立ち去りましょう」
ヒラクはうなずき、ジークとハンスの後に続いてユピと一緒に神殿を後にした。
残された老神官は、黄金王の神像の前でいつまでも祈りを捧げていた。
神殿を出立したヒラクは、いよいよ勾玉主として約束の地で迎えられることになる。
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