第15話 少女達の疑念

 その日の朝、槇志はひさしぶりに悪夢を見た。

 いや、生まれて初めて本当の悪夢を見たと言うべきかもしれない。

 どこか薄暗い小さな部屋で、夏生と空色がこともあろうか裸で抱き合っているのだ。

 槇志はなぜか鉄格子の中から、その光景を見せつけられており、必死に声をあげるのだが、ふたりは彼を完全に無視し、ただひたすらに熱い抱擁をつづける。

 こんな夢を見るくらいなら、世界が滅びる夢を見ていたほうが、はるかに幸せだった。あの夢ならば空色は他ならぬ槇志だけを、ずっと見つめつづけてくれるのだから。


「もういっそのこと、こんな世界なんて滅んじまえばいいんだ」


 開店前の〈喫茶そるな〉で朝のコーヒーを飲んでいた槇志は、自棄になったように口走っていた。


「物騒な子ね。たかが失恋したくらいで」


 テーブルにふきんをかけていた月子が呆れたように言う。失恋の話など一度たりとも聞かせていないのに、なぜか見透かされている。

 なんだか誤魔化すのも面倒くさくなり、槇志は否定するのはやめて、不機嫌さを丸出しにして言い返す。


「そういう月子はどうなんだよ。その歳で初恋もまだなんてことはないだろ。そのくせ彼氏のひとりもいないのはどういうわけだ?」

「嬉しいでしょ、槇志」

「何が?」

「わたしもまだ攻略可能ってことなんだから」


 ウインクしてくる沢木南月子、二十二才。


「学校の女子全員に振られても攻略なんてしねえよ!」


 槇志は憤慨したように言った。


「ちゃらららりん。好感度が三ポイント下がった」


 月子はどこかで聞いたような下がり調子の鐘の音色を口頭で再現する。


「ゲームじゃねえんだよ恋愛は!」


 これがゲームだったら、槇志はとっくの昔にロードして、空色と夏生がつきあう前に戻っているだろう。都合のいいセーブデータが無ければニューゲームで、すべてやり直してもいいくらいだ。


「でも、そろそろ若すぎる従姉と同居している男子高校生として、世間体が気になってもよさそうなのにねえ」

「しょーもないこと期待するなっ」


 槇志は思いっきり不愉快な顔をすると、ホットサンドをかじりながら、傍らに置いてあったカバンを手にして、出口へと向かった。当然ながら学校に行くためだ。そうそうサボってばかりもいられない。


「行ってきます」


 ぶっきらぼうに言い残すと、月子とともにカウンターの奥からもうひとりの従姉が「行ってらっしゃい」とやさしげな声をかけてくる。少しだけ後ろめたい気持ちになりながら、槇志は朝の街中へと飛び出していった。

 今日はあいにくの曇り空ではあるが、暑さを苦手とする槇志にはかえって都合が良い。もっとも天気予報によれば、午後からは晴れ間が広がるとのことで、結局は蒸し暑くなりそうな気配だった。

 入学以来頻繁に歩きつづけ、いつの間にかすっかり通い慣れてしまった道を進むと、ほどなくして児童公園が見えてくる。

 ここ最近のデフォルトとなっている冴えない表情で公園を抜けていくと、ちょうど土手へとつづく階段の先に、仲良く肩を寄せ合って歩く空色と夏生の姿があった。いったいなにを話しているのか、夏生は実に楽しそうに笑っている。空色ばかりが愛想笑いに見えるのは、槇志のひがみ根性がもたらす錯覚だろうか。

 我知らず足を止めていた槇志は、ふたりの背中が見えなくなると、ゆっくりと踵を返した。


「学校はこっちじゃないわよ」

「うわっ!?」


 いきなり目の前に人影が立っていて、槇志は思わず仰け反っていた。


「おはよう」


 彩河綾子がにこりともせずに言った。


「お、おはよう」


引きつった笑みで、槇志は挨拶を返す。

 綾子は無言で彼の腕をつかむと、そのまま強引に階段を上りはじめた。


「お、おい……」


 槇志が迷惑そうな声をあげても、綾子は気にする様子がない。しかたなく引きずられるような格好で土手に上がると、当然ながら空色と夏生の姿が視界に入る。それが嫌で槇志は下を向いてしまった。


「わたし、笠間くんは、もう少し男らしい人だと思ってたんだけど」


 綾子の言葉が胸を抉る。


「……わかってるさ、俺だって」


 槇志は苦々しげな表情を浮かべた。


「本当なら俺は親友の恋の成就を喜んでやらないといけないんだ。天咲にしたって嫌々夏生とつき合ってるわけじゃない。彼女が幸せなら、それを祝福するのが男ってもんなんだ」

「違うわよ」


 綾子の声は冷たかった。


「え?」


 怪訝な思いで綾子のクールな顔を覗き込む。笑みを浮かべているときはとことん柔らかな印象だというのに、こういう表情のときはまったく正反対だ。


「わたしはね、笠間くん」


 綾子は槇志の両の目を射抜くように見つめる。


「好きなら奪い取りなさいって言ってるの」

「はい?」

「いま一度断言するけど、空色はあなたのことが好きなの」

「いや、けど……」

「冷静に考えてみなさい。あんな変な男を空色が好きになるわけないでしょ」


 綾子は前を行く夏生を指差して、きっぱりと断言した。同時に夏生の大きなくしゃみが、お約束のように響いてくる。


「いや、あのさ彩河。いくらなんでも、そりゃ夏生に失礼ってもんじゃ……」

「失礼なわけないでしょっ。あの男はラップなんて聴いてるのよ! わたしラップって大嫌い! 頭が痛くなるもの!」


 なぜこんなところでラップが出てくるのかは不明だったが、槇志は慌てて反駁した。


「そ、それは、個人の感性に左右されるものだからさ、世の中にはラップが好きなヤツなんていくらでもいるし、べつに夏生がとりたてて変なわけじゃ無いと思うぞ」


 本音を言えば槇志もラップは苦手なほうだが、自分が苦手だからと言って、全否定するほど狭量ではない。

 だが綾子は自分が苦手なタイプの音楽は、とことんダメなタチらしく、さらにつづけて言ってくる。


「ラップだけじゃないわ。ユーロビートとかも聴くのよ! なによユーロビートって!? ユーロポートの親戚か何か!?」

「いや、それはオランダの貿易港で音楽とは何の関係もないだろ。つーか、俺にはなんで君が怒っているのか見当もつかん」


 最初は槇志のだらしなさに腹を立てているのかと思っていたが、どうやら八つ当たりのようだ。


「あの男ったら、超オススメとか言って、わざわざ家にまでCD持ってきて、大音量で再生するのよ! 迷惑ったらありゃしないわ!」

「な、なんで、君の家に?」

「わたしの家じゃなくて空色の家によ。わたしの部屋にまで響いてきて、発狂するかと思ったわよ!」


 どうやらふたりはご近所のようだ。


「そ、そりゃ災難だな」

「ええ、災難以外のなにものでもないわ。だから即刻彼から空色を奪い取って!」

「無茶言うな」


 呆れて肩を落とす槇志。その背後から新たな声が聞こえてくる。


「けど、怪しいよね、あのふたり」


 振り向けば、紫葉綺理華が疑念に満ちた視線を夏生の背中に送っていた。


「絶対、何か裏があるよ、あのカップリング」

「でしょ、あからさまに変よ」

「宇宙の摂理に反してるよね」


 綺理華が言うと、綾子もつづけた。


「ええ、ついでに言えば超常現象であっても、あり得ないわ」

「そこまで言われる夏生っていったい……」


 ふたりのあまりの言いぐさに、槇志は少しだけ恋敵に同情した。


「とにかくマキちゃん、空ちゃんに訊いてよ」

「何を?」

「もちろん、ハチとの仲は嘘なんでしょってことをよ」

「そ、そんな失礼なこと、できるわけないだろ!」


 否定されたら、そのときは槇志こそピエロだ。その後どんな顔をふたりに向ければいいのかわからなくなってしまう。


「だったら、八条くんを問い詰めましょ」


 今度は綾子が提案した。


「そうね、今日の放課後尋問よ。それでゲロしなかったら拷問してやるわ」


 綺理華の目は完全に本気だった。


「…………」


 絶句する槇志。


(けど、もしそれで空色と夏生の仲が嘘だってことになったら、そのときは……)


 考えかけて、槇志は思考を打ち切った。


(都合よく考えすぎだ。だいたい夏生に失礼だ。あんなヤツでも、中学の頃からの友だちなんだ)


 自分に言い聞かせる槇志。その隣では綾子と綺理華が、すでに放課後の打ち合わせをはじめている。

 視線を移せば空色と夏生は、すでに水道橋を半ば渡りきっていた。なんとなく楽しそうな雰囲気だけは、ここからでも伝わってくるような気がする。

 空色さえ幸せならば――そう考えてみても、やはり槇志にはふたりを祝福することなどできそうにもない。自分の嫉妬深さと狭量さに自己嫌悪を感じながら、槇志は学校に向かってゆっくりと歩きはじめた。

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