キリンになりなかった妹

ウタノヤロク

キリンになりたかった妹

 カーナビに従いながら車を走らせていると、ふと思い出したことがあった。私の妹はキリンになりたがっていた。なんでキリン? と思うけど妹はそれが夢なんだと話していた。


 私には二歳下の妹がいた。妹は昔から病弱で、いつも体の調子を崩していた。その反面、私は一度も病気で学校を休んだことがなく、皆勤賞をもらうくらい丈夫だった。親にアンタのその元気を少しでいいからあの子に分けて欲しいと言われたくらいだった。


 そんな関係だったが、妹と仲が悪いわけではなかった。むしろ妹は体が弱いが勉強が出来て、私は運動が出来たが勉強は全くダメだった。その為私がわからない問題があると妹に協力してもらって解決してもらっていたなんて姉として恥ずかしいこともままあった。


 と、そんなことを考えていると思わずカーナビの案内を見逃すところだった。後ろの車に申し訳ないと思いながら慌てて進行方向へとハンドルを切った。


 目的地の動物園まではまだ少し距離があったので、途中のコンビニでアイスコーヒーを買った。エアコンをこれでもかと風量を上げているはずなのに外の気温がそれを大きく上回ってるせいで車内にいても暑く感じてしまう。買ったばかりのアイスコーヒーもみるみるうちに飲み干してしまった。


 カーナビから流れるFMからはまだ気温が上がるという予報があって、それを聞いてさらに車内の温度が上がった気がした。私が子供の頃はこんなに暑かったっけ? と振り返る。子供の頃は色んなことがあまり気にならなかったけど、些細なことでも気になるようになったのは大人になったからだろうか。


 しばらく車を走らせているとようやく動物園を案内する看板が見えてきた。そこでようやく妹がキリンになりたいといった理由を思い出した。確か私があげたキリンのぬいぐるみがきっかけだったっけ。


 あれは私が小学五年生くらいの頃に学校の遠足で動物園に行ったことがあった。そこにはたくさんの動物たちがいて、園内にはウサギやモルモットといった小さな動物からライオンやフラミンゴといったテレビや本でしか見たことのない動物なんかもたくさんいた。どれも実物を見るとテレビなんかで見るよりも大きくて、迫力があった。その中でもとりわけ人気のあったのがキリンだった。


 キリンが人気だったのはその大きさや子供でも触れ合えるおとなしさもあったけど、なにより子供達を惹きつけたのがエサやり体験が出来たことだろう。ウサギのような小動物にもエサやりをすることは出来たけど、やっぱりキリンのような大きな動物にエサやりを出来るのは大人ももちろんだけど子供にとってもとても貴重な体験だった。だからということもあってキリンのいるスペースにはたくさんの人だかりが出来ていた。柵の向こう側には何頭かキリンがいたけど、子供達がエサを持ってはしゃいでいるからかそのほとんどが柵のそばまで寄ってきてくれていた。


 キリンはその長い首をグイーっと伸ばして私たちの手からエサを食べていた。遠目から見ても大きなキリンだったけど、間近で見ると想像以上に大きかった。それに加え、長いのは首だけじゃなくて舌まで長く、その長い舌を器用に使って私たちからエサを奪い取っていく姿はちょっと怖かった。ついでにちょっと手を舐められたりした。


 そんなキリンとの触れ合いを過ごした後、お弁当の時間になってからはみんなキリンの話で持ちきりだった。もちろんライオンやペンギンといった他の動物の話もあったけど、やっぱりキリンの人気は高かった。子供の心を全てかっさらっていったキリン恐るべしと思ったくらいだ。


 陽が暮れて家族へのお土産としてお母さんとお父さんには動物園のキーホルダーとクッキーを妹には何をあげようかと悩んだ末、キリンのぬいぐるみを贈ることにした。


 家に帰ってからベッドで寝ている妹に遠足に行った話とお土産のキリンのぬいるぐるみをあげるとものすごく喜んでくれて、なぜかわたしもとても嬉しくなった。


 妹はわたしがあげたキリンのぬいぐるみを抱きしめながら私の話をとても楽しそうに聞いてくれた。特にキリンの話を聞きたがって、キリンは私たちが思っているよりも大きいこと、やっぱり首が長いこと、ついでに舌も長いこと、あとエサやりの時に手を舐められたことを話した。すると妹はまるで自分が体験したかのようにくすぐったがっていた。それと自分もキリンを見てみたいと言っていた。ただ妹は病弱でちょっと動いただけで身体の調子を崩してしまう。だからそれが難しいことくらいまだ小学生だった私にもわかった。


 それから妹は私のあげたキリンのぬいぐるみをいつも持ち歩くようになった。寝る時はもちろんご飯を食べる時も家の中を移動する時も(さすがにお風呂の中にまで持っていきそうになった時は母が止めた)いつも一緒だった。それくらい大事にしてくれていた。


 私が六年生になって妹が四年生になった頃、妹がふとこんなことを言い出した。「おねえちゃん。わたしね大きくなったらキリンになりたい」と。キリンに? どうして? と聞くと理由は私があげたぬいぐるみがきっかけだった。私があげたあのぬいぐるみは妹がいつも持ち歩いていたせいで私があげた時よりちょっと色褪せていた。さすがにその頃には一日中持ち歩くことはなくなったけど、毎晩一緒に寝ているところを見たことがある。あげた身としては嬉しい反面くすぐったい限りだ。


 妹が言うには私があげたぬいぐるみを大事にしているうちにキリンに興味が湧いて色々調べたらしく、キリンの首が長くなった理由やキリンの生態なんかを知って、いつか自分もキリンのように強く逞しくなりたいと思うようになったそうだ。


 私は喉の渇きを覚えてドリンクホルダーに差しっぱなしにしてたカップを手に取ってその中身をすっかり飲み干してしまっていたことを思い出した。それまで意識していなかったのに、一旦喉の渇きを意識するようになってしまうとそれが気になって仕方がない。ただあと少しで動物園に到着することを思うと、この際喉の渇きは諦めることにした。少しだけエアコンの室温を下げる。少し汗ばんだ体から汗が引くのを感じた。


「おねえちゃん。わたしもキリン見たい」


 ……そういえばあの時もこんな日だったっけ。


 あの時というのは妹が初めて家族にワガママを言った日だった。その日も当時にしてはとても暑い日で子供なのに外で遊ぶよりも家の中で涼んでいる方がよっぽどマシと思うくらいの気温だった。そんな中妹は動物園に行きたいと言い出した。ちょうど私たちは夏休みに入っており、両親も珍しく家にいた。それもあったのかもしれない。妹がそう言い出したのは。


 最初私たちはそんなの無理だと妹に言い聞かせた。この頃、妹の体調は安定していてそれでも気をつけないといけないところはあったが、少しくらいなら外に出ても問題ないと言われていた。だからこの日がそれほど暑くない日だったら私も両親も何も言わなかっただろう。ただこの日は特別暑かった。普通の人間ですら体調を崩してしまいそうになる状況で、元々身体の弱い妹が外に出たらすぐに倒れてしまう。そう思ったから反対した。でも妹は引かなかった。どうしてもキリンが見たいと言って聞かなかった。


 普段から妹は聞き分けのいい子で、むしろ自分の意見なんてないんじゃないかと思うくらいだった。そんな子がこんな風にワガママを言うなんて。だから最初は反対していた私もその内妹の味方をするようになって、終いには姉妹揃って泣きながら両親にお願いした。そんな私たちにとうとう両親も折れてくれた。ただ条件としてある程度日が沈んでから、そして一時間だけならということで妹の念願は叶った。


 私たちが動物園に行く頃には他の家族は帰るところだった。夕方といってもこの時期は日が長く、まだ少し昼間の暑さが残っていた。妹は少し調子を崩し気味だったけど、私は出来るだけ妹に陽の光が当たらないよう日傘を手に寄り添っていた。


 妹の目的はキリンだったのでライオンやペンギンには目もくれず一直線にキリンのいるスペースへ向かった。この時間に動物園に来たことなんてなかったから、ほとんどの動物はもう宿舎に戻ってしまってると思っていた。でもキリンのスペースではたくさんのキリンが私たちを出迎えてくれた。それに喜んだのはもちろん妹だ。妹は私の日傘の影から抜け出すと大はしゃぎでキリンたちの元へと駆け寄った。妹は今まで見たことのないくらいのはしゃぎようで普段はとても大人しい子なのにまるで子供のように(実際子供だったけど)ぴょんぴょんと跳ねていた。手に持ったいつも大事にしているキリンのぬいぐるみを目の前にいる本物のキリンに見せびらかせていた。そんな妹の姿に私はとっても嬉しくて泣いてしまった。でもそれは私だけじゃなかったみたいで両親も特にお父さんが一番泣いていた。


 キリンとの触れ合いを終えると、妹は電池が切れたみたいに大人しくなった。というよりやっぱり無理をしていたみたいで、その日から三日間ほど熱を出していた。それでも私が妹の顔を見に行くとあの日のことを思い出して嬉しそうにまた行きたいねって話していた。


 妹が小学校を卒業して間もなくの頃。妹は大病を患い入院することになった。ここしばらく調子が良かったから私も両親も安心していた。もちろん妹も。だからもう少し体調が安定したらもう一度動物園へキリンを見に行こうと考えていた。でもそれは叶わなかった。


 私は中学を卒業すると県内でも有数の高校へ入学した。そこはある程度の成績をおさめると学費が免除される特待生制度を設けていて、私はそれを目標に勉学に励んだ。小学生の頃は勉強はからっきしだった私からすれば結構な進歩だったと思う。それもこれも妹の影響があったからだろう。そして高校を卒業するとそのまま県外の大学へと通うことになった。地元の大学に通うという選択肢もあった。でも両親がせっかくだから県外の大学へ行ってこいと背中を押してくれた。妹にもちゃんと報告した。お姉ちゃん頑張ってくるね、と。


 そして数年経って私はここへ帰ってきた。


 動物園の入り口は私の思い出の中にあるものとすっかり変わっていた。あの頃はシンプルな入り口だったものが、今では門全体に描かれた可愛らしい動物のイラストが来園者を迎え入れていた。


 入場券売り場で大人一人分のチケットを購入する。中の方はまだ私の記憶のままで、一歩踏み入れるとあの頃来た動物園の姿がそこにあった。


 自然と胸が高鳴るのを感じた。一歩踏み出すたびに遠足の記憶や家族で来た時のことを思い出す。ライオン、ペンギンのエリアを抜けて奥にあるキリンのエリアにやってくる。柵の向こうにいる何頭かのキリンがたくさんのお客さんに愛想を振りまいていた。


 そのキリンの中に私がよく知る子がいた。その子は私の姿を見ると一目散に駆け寄ってくる。


「久しぶりお姉ちゃん! 迷わず来られた?」

「今どきはカーナビっていう便利なものがあるから大丈夫よ」

「そう? なら良かった。お姉ちゃんてば昔っから方向音痴なところあるからなぁ」


 そう私の妹はキリンの飼育員になった。


 中学に上がる頃大病を患った妹はこのままだと長生きでないと医者に言われていた。しかしどうしてももう一度キリンが見たい、キリンになりたい! と強く願った妹はどういうわけかそこから驚異的な快復を見せ、それどころか今までより健康になった。それから今まで自分が出来なかったことを取り戻すように勉強に体づくりにと取り組んでいた。そのせいでもう一度動物園に行くという約束は果たされることはなかった。代わりに私まで妹の勉強に参加させられ、そのおかげというか私の成績も急上昇したというわけだ。


 それにしても……。


「またアンタ大きくなったんじゃない?」

「えー、そうかな?」


あの頃色白だった妹は今じゃすっかり焼けた肌色をしていて、ちょっと動くだけで身体を壊していた姿からは想像できないくらい逞しくなっていた。子供の頃は私どころか同じ学年の女の子よりも背が低かったのに今じゃ私を追い抜かしてしまったし、体つきもところどころ締まっていて、健康的になったのはいいことだけど、姉としてはもう少し女の子らしい体つきになってほしいと思わなくもない。


 ま、でも。


「どうキリンにはなれそう?」

「まだまだ無理かな。もっと鍛えなきゃ」


 そういって妹は腕まくりした作業着から伸びる右腕で力こぶを作っていた。それ以上デカくなるとキリンじゃなくてゴリラになるよ。


 私は呆れたように鼻で笑った。


 一頭のキリンが私たちに向かって首を伸ばしてきた。あの頃は大きく見えたキリンだったけど、今見てもやっぱりデカい。妹はそのキリンを優しく撫でていた。


 妹はキリンになりたかった。


 でもキリンにはなれなかった。


 代わりにキリンをお世話する人になった。


 大きくなった今でもキリンになることを諦めていないみたいだ。


 だからキリンになりたいと思った妹の夢を私は今でもずっと応援している。

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