第9話 エピローグ

〖二週間後、人間界 喫茶・天使の涙(ラルム・ダンジェ)〗


「こんにちはー!」

 カランカランと勢いよく、チャイムを鳴らして喫茶・天使の涙(ラルム・ダンジェ)の扉を開けて入って来たのは、鳴宮結香だった。

「いらっしゃい。さぁ、入って」

 店主の天野朔夜こと、モルペウスは今日も都内・お茶の水の喫茶店で美味しい珈琲とハーブティーを淹れて、営業に励んでいた。

「天野さん、これ。夏休みに高校で、室内楽のコンサートを開くの。無料だからよかったら見に来てください」

 結香の笑顔にもう陰りは無い。晴れ晴れとした、明るい笑顔で天野に手渡されたカラフルな楽器のイラストが入ったチラシの内容はこんなものだった。

八月八日 午前十時~

桜蘭(おうらん)学園高校 芸術コース・音楽科特進クラス 

室内楽演奏会

と、書かれていた。

「へぇ。すごいねぇ。うん、なんとか都合つけて、聴きに行かせてもらうよ」

「わぁ!ありがとうございます。私、がんばります」

 結香の笑顔はきらきらと弾けるように輝いて眩しいくらいだった。

「で、結香ちゃんは、何を弾くの?」

「実は……」

 あのあと、結香が喫茶店のソファーで目を覚ますと、モルペウスはすっかり元通りに「天野朔夜」に戻って、お茶を淹れてくれた。天野に、見た夢について訊かれたけれど、結香は殆ど何も覚えていない、というフリをしてしまった。泣いたり怒ったり、随分と感情的になってしまって恥ずかしかったこともあるし、それに、もう一つあらたな「秘密」が出来てしまったから。それは……。

「え?バイオリンに転向しても、チェロも弾き続けるの?それってかなり大変なんじゃ……」

結香は、ふふっと笑った。

「もちろん大変です。でもそれ以上に楽しくて。両方の音色を聴く練習にもなりますし、アンサンブルを理解する助けにもなりますから。もちろん、今年中にはどちらを専攻するか、はっきり決めないといけないですけど」

夏休みの室内楽大会でも、チェロはバッハの無伴奏チェロ組曲、バイオリンはバッハのバイオリン二重奏(ドッペルコンチェルト)、ほかにもいくつかアンサンブルに参加するらしい。短い期間でそれだけの曲を仕上げるのは大変だが、プロを目指すなら、それくらい朝飯前なのかもしれない。

「いやぁ、すっかり元気そうで安心したよ」

「え? 」

「あ、いやほら、お茶の水橋から飛び降りようとしていたあの時に比べたらってことさ……」

 天野は、結香が夢の世界で「精神の泉」の水を飲み、全てを忘れてしまったと思い込んでいるようだった。そのせいか、あれ以来、結香が何度か店を訪れても、その話には一向に触れようとしなかった。

「天野さん、わたしお話したいことがあるんです」

「うん」

「わたし、実はあの日の、夢の中での出来事を全部覚えているんです」

「ウソ!?」

 天野は驚いて、持っていたグラスを落としそうになった。

「そ、それってつまり……俺の正体も知ってるってこと?」

「夢の神様の『モルペウス』さんですよね?」

 天野は失神しそうなほど狼狽えた。

「シーー!ほかの人に聞こえるっ!!」

 天野は顔色を無くした。

「ちょちょ、ちょっと待って!君、『精神の泉』の水を飲んだんだよね? 」

「飲みました。でも何故か覚えてるんです。量が足りなかったのかしら? 」

「そんな馬鹿な! 」

天野は気持ちを落ち着けようと、深呼吸してコップに入れた水を飲んだ。

「あ、それから私、天野さんにお話ししたいことがもう一つあるんです」

「え、何? 」

結香は、ニコリと笑った。

「私、天野さんの事が好きです」

 天野は思わず、ぶほっと口にした水を吐き出しそうになり、ゴホゴホとむせてしまった。

「どういうこと? 」

「どうって、そういうことです」

結香はニコリと笑った。

「これから毎日ここに通いますね。あ、アルバイトとして雇ってくれないかなぁ? 」

 天野は動悸(どうき)と眩暈(めまい)で頭がくらくらしてきた。

(落ち着け、モルペウス。これしきの事で、夢魔が動揺してどうする? )

「俺、ちょっと気分が……。外で煙草吸ってくるわ」

「煙草は身体に悪いですよ。これは私が預かりますね 」

 言うが早いか、結香の手には、なぜかエプロンのポケットに入れていた電子タバコが握られていた。

「あ、返せ!コラーー!」

「いやです~~」

 二人のドタバタ劇場がこうして幕を開けたのだった。

 ここは千代田区神田駿河台。楽器店街奥の喫茶・天使の涙(ラルム・ダンジェ)。夢魔の天野朔夜(モルペウス)は今日も元気に営業しています。

                             

【夢魔(モルペウス)は今夜も眠らない 完】

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夢魔は今夜も眠らない 星宮林檎 @saeka_himuro99

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