ヒロくん、さようなら

レネ

 1



 朝。

 目が覚めると、坂田浩二は、うらぶれた、カビ臭い、半島で最も古い民宿の一室にいた。

 寝返りを打つと床が軋む。天井はヤニでくすんでいて、畳には枕元にタバコの焦げ跡がある。

 狭い部屋の片隅に古ぼけた膳が寄せてあり、その上方の窓から、早朝の淡い光が射し込んでいる。

 やっとの思いで布団から起き出し、膳の上の煎餅をつまみ、お茶を淹れすすっていると、少し頭がすっきりとしてきた。

『俺はなぜここにいるのか』

 浩二は昨夜の記憶を辿り始めた。


 昨夜妻と喧嘩して、家を飛び出したのを思い出した。そしてタクシーに乗り、この近くに着いたら防波堤で缶ビールを5本空け、その後急に寒くなって朦朧としながらこの民宿へ飛び込んだのだった。

 それ以降は何も記憶にない。

 ただ、割れるような頭の痛みが、この記憶の正しさを物語っている。


 妻とは特に最近よく喧嘩をする。大抵は、金がないことから来る互いの不満が原因だ。それ以外に特段高尚な理由はない。

 1人娘で高校生の乃絵美は、またか、と呆れているだろう。


 風呂に入ってサッパリしたいところだが、こんな早朝に民宿の風呂が沸いているわけがない。


 窓から外を見ると、一面の霧で、殆ど何も見えない。射し込む光を淡いと感じたのはこの霧のせいだ。

 腕時計を見ると朝の8時を過ぎたところ。

 まだぼんやりとした頭で勘定を済ませ、余計な金を使ってしまったことに後悔を覚えながら外に出た。が、少し歩いても、霧のせいでふわふわと空中を漂うように自分がどの辺りにいるのかよく分からない。この港自体はよく知っているはずなのに、初めて来たような、妙な錯覚を覚えた。

 それでも海の方角へ向かって歩いて行くと、辺りは寂れた小路で、両脇に古い民家が並んでいる。魚の生臭い匂いと、釣り人たちが使うコマセの匂いが一帯に漂っていて、それは古ぼけた家々や路面にこびりついているのだった。

 どこからか、読経の声が聞こえる。木魚の音に、チ〜ン、チ〜ンという鈴の響きが混じる。

 それらが遠ざかると防波堤に出た。少し視界が良くなり、目の前の、鉛色の海面が小さく波打っている。すぐ足下に小魚の群れが見えた。小さな漁船がいくつも岸に繋がれている。

 浩二の隣には、いとこの博行が立っていて、そうだ、俺はヒロくんに会いにやって来たのかもしれないと思った。


「久しぶり」

浩二が言うと、

「うん」

と博行が応じ、互いに微笑んだ。

 浩二と博行は、あてもなく防波堤を一緒に歩く。

 浩二は、長身で目が細く、ほっそりした印象の博行を、やはり自分と似ていると感じた。

 霧は少しずつ晴れ、海も次第に青くなってきた。視界も開け、段々海と背後の街に、明るい光が届き始める。

「どう? 皆元気?」

と博行が尋ねる。

「まあ、一応ね」

「喧嘩したのか? ダメだろう」

「まあな」

「これからどこか行くのか?」

博行が浩二に尋ねた。

「いや、なんとなくブラブラしていただけなんだ」

浩二が言うと、

「めし、まだだろ?」

「うん」

「どっかで軽い朝食でもとって、久しぶりに明治やへ来ないか?」

明治やというのは、自殺した博行が生前経営していて、博行の死後は残された妻の梢さんと、高校を卒業したばかりの娘さんが切り盛りしている民宿のことだ

「そうだな、うん、いいよ。久しぶりに行ってみようか」

浩二はそう応じた。

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