時を戻す

村崎愁

第1話 旧友と

残業が予想を上回り、長引き、終電に間に合わせる為に素山政春は線路沿いを走っていた。

すっかり薄くなった頭皮に汗が伝い、Yシャツは背中に張り付き気持ちが悪い。

真夏のような素山とは違い秋の空気は冷ややかでふと立ち止まってみる。

そのような時間はないのだが思い切り空気を吸い込むと金木犀の香りが鼻腔をついた。

かつての郷愁を感じさせる。

妻、博美と知り合ったのは大学時代のラグビー部でだ。博美はマネージャーが3人いるうちの、いちばん器量が悪い娘であった。

しかし自分とはつり合っていると思ったし(素山も昔から器量がいいとは言えない)よく金木犀の木の下で逢瀬を重ねた。告白もそこでした。

あの時の優しい気遣いができる博美はもういない。今では立派に尻に敷かれている。


胸ポケットに入れている携帯電話が生き物のようにけたたましく鳴り出した。

驚いて落としそうになる。会社からか、妻から買い忘れた物の催促か。


名前を見るとおっと声が出た。

大学時代の親友、辻恭介からだ。辻と最後に交流したのは娘の美智が産まれた時だけだ。となると、もう三年は経っている。

辻は器量が大変良く、勉学もでき、優しい、大学のエース的な存在であった。

少しキザな辻らしく美智が産まれた翌日に病院へ薔薇の花束を持ってきてくれた。

妻、博美はその時の薔薇にいたく感動したようで、今でも玄関にドライフラワーが飾ってある。もしかしたら博美は辻のことが好きだったのかもしれない。

良き相談相手ではあったが、女のこととなると自分目線で話すので恋愛関係に関しては参考に足るものではなかった。

女全てが自分を好きでいると思っている節がある。

だがそれでも親友には違いなくフォローも沢山してくれた。


ピッと電話に出るとダンディズムを感じる声が聞こえてきた。

「政春元気か?久しぶりだな。今、大丈夫か?」

「恭介から電話とは珍しいじゃないか。変わった事でもあったか?」

電車はもう諦めた。一呼吸置いて、辻は続けた。

「いや特に何もないんだ。ただ政春と話がしたかった。おい、あのBARへ行かないか?」

あのBARとは大学時代に良く行っていたBARで地下に位置する。

素山は疲れていたし、明日は休みだ。久しぶりにマスターにも会いたい。生きていれば、だが。当時七十歳近かったはずだ。

今はもう八十近くなっているのではないか。

「わかった、すぐ向かう。」それだけを伝え電話を切った。

今日は何となく家に帰りたくなかったし、酒が呑みたい気分だった。

辻がどのような変貌を遂げているのかも気になるし、久しぶりの誘いを断る手立ては無く、全てがちょうどいい日であった。


博美に電話をかけ、辻と呑みに行くことを告げた。

少し不満気ではあったものの、辻という名前を聞いて幾分喜んだような声の弾みが見て取れた。すぐにタクシーに乗り込み 住所を告げる。

BARには20分で着いた。約2500円程だ。楽な商売ではない。


そのBARの重厚な扉を開けるといちばん奥の席に辻が座ってこちらに手を振った。

その席がいつもの特等席だ。

マスターは代替えなどしておらずグラスを氷で冷やしている。なおさらに渋い雰囲気をまとっている。

この店の凄い所は、来た客にあわせてレコードを変えるのだ。

大きな音でレコーダーをかけているためか、来ている客もやましい雰囲気をまとった客が大半である。見るからにヤクザ風の人たちや、明らかな不倫。

このBARの特徴でもあるのか。

隣に座る辻にも大きな声で話さなければならない。


「政春、みんなは元気か?」

「あぁ、博美も美智も元気だ」

と何気ない会話をした。

歳をとっても辻は男前で、若い頃よりも大人の魅力が備わったようだ。

雑誌の一面に飾られるような溢れるいい男だ。

何も言わずに丸氷の入ったバーボンが運ばれてきた。

昔から飲み物はこれと決めていて、理由は話すことがなくなった時に指で氷を回せるからだ。

味が好きなわけではない。ただ、無言になった時のためだけの飲み物として中身はウイスキーでもブランデーでもいい。


客がパラパラと減りだした。

時刻を見るともう0時を回っていた。密やかな客が減り、客は素山と辻だけになった。

マスターは音楽の音量を二段階落とした。

「恭介、結婚はしたか?」

辻は首を横に振った。

「お前みたいないい男がもったいないな」

酒を見つめる辻の横顔は雑誌に載っていてもおかしくはない。

男でも見惚れてしまう。







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