受賞 天野遊

お好み焼きごはん

一話 津田藤次郎さん、女と出会う

 注意

 自殺などの悲しくなる表現があります。

 辛くなったら手を止めて、休んでから読んでください






 蝉の鳴き声が絶えず聞こえ、キメ細やかな海綿状の白が視界を歪ませ瞳が熱気を吸い込む。肌が皺けるような瑞々しい青葉の水気をせせらぎから吸いとる。体内が少し涼しくなる。


 窓から大きな青が差し込む。莫大な黄色に青いレースが覆いかぶさって混じりあって、それでも青かった。

 それを見る度、津田藤次郎は両親のセックスを思い出す。女が泣いて、男が喘ぐあの様を。片方が死んでもう片方しか残らない。身体は溶けているのに混ざり合わない。


 キイと甲高い音が、子どもの声の裏に流れた。畳の上では西洋から到来した物はなんでも相性が悪い。

 津田藤次郎は安物のパイプ椅子のクッションを犠牲に椅子の上に立っていた。


 津田藤次郎は、これから首を吊る。


 目を閉じれば鮮明に切実に求め怖がるその情景が目に浮かんだ


 まず、丸い太縄にのっぽな首を乗せる。麻縄のささくれが首の皮膚少しばかりにささって抜けないのを耳の下少し先まで感じて、心臓が鳴る音が鼓膜の裏で響く。椅子を蹴る。パイプ椅子のパイプの冷たさを一瞬足の指の中指と薬指で感じる。足が軽やかになる。縄が喉に食い込む。縄は気道を塞いで強烈な味を感じさせる。それを苦味だと表現して喋ることが出来なくなる。一気に苦しみがやってくる。足を動かす。なにもない。逃れられない。息が吸えず喉の窮屈さが浮き彫りになる。味が無くなる。気持ちよさを感じて安らぎを感じ始める。咳き込む。咳き込む。逃れようとする。悲鳴が出せない。足がない。死にたくないと思って涙が出る。その間、視界は暗くなる。チカチカする。苦しむ。苦しむ。死にたくない。


 死ぬ。苦しんで死ぬ。何も得ず、持っていない物を失って、他人からの評価であるものを、他人の価値であるものをどうしても得たかった。それが幸せでないとしても。

 意識が無くなる。他界する。魂が抜ける。息が絶える。没する。永眠する。敢え無くなる。あの世へ行く。儚くなる。息が切れる。仏になる。身罷る。露と消える。息を引き取る。臨終。不帰の客となる。昇天する。長逝。この世からいなくなる。お隠れになられる。くたばる。おめでたくなる。帰らぬ人となる。空しくなる。天に召される。息を引き取る。往く。いけなくなる。亡くなる。落屑となる。死ぬ。苦しんで死ぬ。

 何も得ず、持っていない物を失って、他人からの評価であるものを、他人の価値であるものをどうしても得たかった。それが幸せでないとしても。認められたかった。愛を感じていたかった。


 畳はじゅくじゅく膿んでいる。細いイ草の隙間に産み付けられた卵が黄色く熟して、撫でられ埃と混ざっていた。膿んだ傷口みたいな油色が他のイ草に滲んで乾いて、音を立ててかさついている。


 風が乾いていると感じた。肌がヒリヒリ痛んでいると思い込んだ。

 口内に唾液が薄まって薄まってカラカラになって、飲み込む度に喉が痛い。痛い。

 いじめっ子が撫で付けたように痛い。


 丸い太縄にのっぽな首を乗せて、椅子を蹴った。想像が現実にやってくる。

 薄い椅子のクッションを爪が引っ掻いてガリッと音が立つ。

 突如として苦しみがやってきた。ギュウと喉が閉まって閉塞感で窒息する。足が逃げ場を探して暴れる。

 どうして逃げることがあるのか、ここでも僕は逃げるのか。そう思っても、脳は言うことを聞かない。

 視界が霞んでく、滲んで白くなる。涙が溢れて、頬を伝って、開きっぱなしの口の中に入る。


 滲む視界で部屋を見た。

 安物の三畳一間、破れて木枠の腐った障子と埃まみれの照明器具、汚い壁。照明器具から垂れた紐がブランブラン揺れている。それだけ。


 その筈だった。


 女が居る。

 長い黒髪を床にべっとりくっ付けて、真っ白な服を着た女。

 顔は見えない。滲んでいるからだ。滲んでいるが、確かに顔を上げていた。


「こんにちわ、先生」


 耳鳴りがする。殆ど聞こえない。だというのに女の声はくっきりと、はっきりの津田藤次郎の脳に入ってきた。


「私に先生のお手伝いをさせてはいただけませんか」


 誰だ、出ていけ。


「あ゛、ぉ゛」


 そう言おうとして出てきたのは汚い喘ぎ声のような声だった。男色だってまだマシだと思い涙が出てくる。惨めだった。


「ありがとうございます。」


 突然体が楽になる。目の前の白が消えた時には、津田藤次郎は床に這い蹲っていた。

 記憶が無いのは酸素が無くなったからか。震える指先で首元に触る。縄の鮫肌が指の腹を撫でて、生皮に付いた微かな窪みが首を一周している事に気がついた。死に手放され、現実に拘束されたのだ。


 首吊り輪っかを床に着くほど長くは作っていない。千切れたのだ。だが、縄だ。紐ではない。ちゃんと頑丈で、太い物を選んだ。


 顔を上げると女がジッと見つめていた。上から目線で、津田藤次郎を見下している。目からしてそうだ。

 哀れな男を見る目。馬鹿な畜生を見る目だ。見えない目がそういっている。


「先生、落ち着きましたか?」

「………」

「血が止まっていたのですね。落ち着くまで待ちます。いくらでも、待ちますよ。」


 頭の打ち付けるような頭痛が引いて行く。そもそも頭が痛い事にも気づけないほど、自然で当たり前な痛みだった。


「出ていけ…」

「そんな訳には行きません。落ち着くまで、お部屋を片付けておきますね。」


 女が視界から離れる。軽やかなで一定の足音が耳に入ってきた。


 もうどうにでもなれ。動く気力もない。そう思って目を瞑れば、意外なほど早く津田藤次郎の意識は闇へと落ちていった。


 津田藤次郎が夢を見ない事は殆ど無い。睡眠の四分の三がでっぷり太った夢である。

 何故ならば、現実が困窮して窮屈で、脳の隙間の隙間までギチギチに食い尽くしているからだ。

 津田藤次郎は夢ばかりを見る。

 夢のない津田藤次郎の見る夢は、過激な色合いと褪せた白黒で構成されている。常に悪夢ばかりを見る。


 この夢の中で、津田藤次郎は机に向かっていた。

 麗かな春の風が入ってくる窓辺で、暖かな陽気が津田藤次郎の背中にかかる。猫背な頭の影が机の上にのさばって暗くして、原稿用紙のシミになる。インクの色が濃くなる。乾ききった文字は死んでいる。

 万年筆を手に取り、マス目に向かい合わせた。手は鉛のように動かず、額に汗が滲んできた。だが、止めるとこはできない。


 津田藤次郎は作家である。

 細々とした生活を続けることしかできない作家である。

 書店に並ぶのは多くて二冊程度で、少ない時は影も無い。若いが故に期待の新人等と呼ばれていたのもとうの昔で、今や書ける肩書きもない。

 そもそも紙の束になるというだけでも有難いものだとは思うが、それでも、才能溢れる自分以外の全てとの差に落胆するばかりだった。


 辞めた方が良い等と薄ら笑いと三日月のように曲がった目で言われるのを、愛想笑いの後ろで同意しているような作家生活だ。

 本当に、辞めた方が良い。そう思う。


 だけれども、津田藤次郎にはこれしか無かった。

 喋るのも、動くのも下手くそな津田藤次郎には書くことしか出来ない。

 幼い頃から、書き物とは生産性のある逃げ道だったのだ。

 仲の悪い両親、こちらを見て顔が歪むクラスメイトと馬鹿にした目の先生。ありとあらゆる津田藤次郎を蔑む者から離れられるのが執筆だった。


 額に汗が滲む。一度目を閉じ、上を向いて眉間を揉んだ。

 ミミズのような文字に薄暗さが出てしまう。重くて、ヘドロのような執念が見え隠れする。そんな気がしてやまない。自身の内側が、嫌な方法で出てしまっている。


 目を開けて下を見る。最初っから読み返えそうと、タイトルを見た。

 読めない。なんと書いたのだったか。


 そこで津田藤次郎の意識は戻された。

 真っ暗だったからすぐ様目を開ける。開けても暗く、夜が来たのだと分かった。青黒い視界に暗い黄緑の輪郭が浮かぶ。吸う息は粘ついていて、清涼だ。冷たい夏の夜の空気だ。


「落ち着きましたか?」


 女に声をかけられて、漸く津田藤次郎は布団に寝かされている事に気がついた。

 女は真横で正座して覗き込んでいた。女の顔は分からない。暗いからだ。それでも笑みをたたえていることは分かった。そして髪色が黒い事と目鼻立ちがぼやけている事もわかる。


「出ていけ」

「でも、先生が良いと仰ったではありませんか。」

「何時。」

「首をお吊りなられている時に。」


 都合良く捉えられたのだと理解して、津田藤次郎はうんざりとした気持ちになった。


「精神異常者め。あんなもの返事のうちに入るわけないだろう。」

「でも私、役に立ちますわ。」


 ご覧下さいまし。そう言われて、部屋を見渡す。埃と砂、あと蜘蛛の巣だらけでゴミが散乱していた四角の中は、この家に引っ越してきた初日のように片付いていた。


 この女がやったのだと気づいて、津田藤次郎は嫌な気分になった。勝手に部屋を掃除しないで欲しかった。


 勝手に家に入られて、勝手に掃除されて、頭のおかしい奴だから、殺されるかもしれない。そう思う気持ちがあって、でもそれも悪くないと思えた。

 疲れきった無気力無関心が津田藤次郎を包み込んでいる。それに、自殺したのも大きな要因だった。


 一度死んだ。そう考える。

 だから生前との考えがまるで違う。近しいが、何かが違う。恐れる気持ちがあるし無い。


 向き直ると、女はニッコリと笑った。


「お前は、なんだ」

「今日から先生の『アシスタント』です。お気軽に、なんでもお申し付けくださいまし。」






 それから、女は津田藤次郎の家に住み着くようになった。

 洗濯掃除炊事を熟す家政婦のような行動を取って、その実の見返りを求めないものだから、津田藤次郎はすっかり不気味だと怯えるようになって、部屋の隅で縮こまっているのが常になっていった。


 それでも女は津田藤次郎に微笑んだ。

 子どもを慮る母のような慈愛を感じる笑みだと表現はできたが、津田藤次郎には慈愛も、慮る母も知らぬ。

 ただ気持ち悪さを感じて、心は曇天が如く灰色に湿っていくばかりだった。


 浅い色の草と新緑色の布の上に座りながら、腰骨辺りだけを砂壁に合わせている。

 浮かんでは沈んでいく思考。落命していく雲のような考えの塊達は底知れぬ海に沈んでいく。鼓舞せんとする言葉が太陽なら、津田藤次郎の心は溶けて消え失せる氷河だった。


 津田藤次郎はその時気がついた。

 ここ四日ほど津田藤次郎は言葉を紡いでいない。ほのかに茶色い原稿用紙に鉛筆の摩擦を与え、それが物語となる行為に及んでいない。


 心の分厚い膜が剥がれそうになって、津田藤次郎は慌てて筆を取った。


 暗い木の目が目に痛い。2Bの墨が蝋燭の火に当てられテラテラ輝いている。窓から入る風で火が揺らぐ。暗闇に近い深い青の中で唯一の橙色が踊って霞んで揺らめいて、生き物のように動いていた。


 六角形の柱の角が硬い机に置かれて軽い音を立てる。

 筆を取ってから数刻経った。津田藤次郎は簡潔な短編を1つ書いた。心の赴くままに書いたそれは、誤字脱字もあるありふれたとも言えぬ粗雑さを含み、平凡だ。そう思った。


「見せては頂けませんか?」


 津田藤次郎は肩を大きく跳ねさせたのち目を丸くした。

 振り返って見えたものは正座する女の姿で、その分かりずらい目は恐らくきっと津田藤次郎を見つめてはいるが、意識は津田藤次郎が手に持った紙切れに集約されている。


 視線を逸らしながら紙に力を込める。くしゃと音を立てた物語に今度こそ女は目を向けた。


「あー…その、これは見せられない。」

「何故でしょうか」

「…」


 津田藤次郎はこれでも、己を作家の端くれだと誇りを持っていた。人を気にし、すり潰した心と時間を費やした創作物ならまだしも、この程度。頬に熱が集まるのと同時に心が冷えていく。


「お前にとって面白くないからだ。これは…これは俺の願望と欲目と絶望感で出来ている。それをどうして見せることが出来ようか。」


 たどたどしい語り口になってしまったのは惜しむ気持ちとそれを後ろめたく思う気持ちがあったからだ。

 まるで猫のようだ。津田藤次郎の気持ちは猫だった。前を向いてはそっぽ向く。己を見つめていたのに、心はそれを無かったことのように扱うのだ。


「大丈夫です」


 女は真っ直ぐに見つめてきた。津田藤次郎の瞳を覗き込むことなく目を合わせるだけで、目の奥に何らかが注ぎ込まれているような感覚がした。


「大丈夫ですよ。人とはそのようなものです。それに、私は先生の書かれるそのままのそれを読みたいですわ」


 部屋は藍色だった。その藍色の薄いベールを被った女の顔は見えない。ただやさしげな表情なのだと、津田藤次郎は思った。


 体の緊張を解す。蚊の針で出来た針が心に刺さって何らかを注入された。むず痒くなる。


 津田藤次郎は机に向き直って丁寧に紙を伸ばしたあと、女に手渡した。

 指先の硬い皮膚に、存外丈夫な紙の薄さを感じた。


 白魚のような手がすっと伸びて、関節をゆったりと曲げて人差し指の第二関節と親指で挟んだ。


 女がマス目に目を向ける。津田藤次郎は女が今題名を頭の声が読み上げたのを感じ取った。原稿用紙は四枚ある。読み終わるまで少しばかりの時間がかかるはずだと、居ずらさを肯定するかのように立ち上がろうとして辺りは暗いことを思い出した。慌てて蝋燭の皿を持って近くに掲げる。


 炎がぼんやりと女と津田藤次郎の間を明るくする。する事も無し、ただ女を見つめているのも気が引けた。

 仕方なしに窓に目をやる。夕日が沈んだ直後の、夜のもどきが空間にいる。昼間の煩わしさが溶け込んで水蒸気になったようだ。冷たさが肌に気持ちよく、脳は冴え渡る。その代わり、心ばかりはどうしようも無かった。水を吸い込んで重たくなったようだった。


「蝋燭、落ちそうですよ」

「え、あぁ」


 見れば今にも畳に垂れそうになっている。窓の外に注視するばかりに、蝋燭の皿を傾けてしまっていたのだ。津田藤次郎は皿を水平にした。


 津田藤次郎は女を見た。

 恐る恐るといった期待が隠せぬものを見たからか、女は微笑ましげに微笑んだ。きっと。


「読み切らせていただきました。素敵でしたわ。とても。」


 突然褒められたものだから、津田藤次郎はまた蝋燭を落としそうになってしまった。

 津田藤次郎の口からあ、だとか、う、だとか、とにかく声が漏れ出た。動物の鳴き声みたいに意味なさげで、その実たくさんの伝えたい感情がある声だ。


「先生はいつも不思議な世界観の作品をお作りになりますね。この短編は、先生の良い所がたくさん出ていると思いますよ。」


 喉が窮屈に締まって、唾を嚥下させよう動き唾が流されるままにその隙間を通ろうとしてやる気なさげに留まり戻った。ごほごほ。唾混じりの咳が出た。


「この主人公、前作の弟ですか?変わった人間だったから覚えています。先生らしいなと思ったんですよ。気に入ってました。可愛らしい人で。でも、弟には嫌われているのですね」


 ああ、でも私が一番好ましく思ったのは探偵さんですね。四年前の。


 女が緩やかにそう言いきった時、津田藤次郎の目が少しばかり見開かれて、そこに光が宿る。

 光は滑らかなガラス球の黒に乗っている訳では無い。感情という目に見えない体を調節するそれが、体の周りを漂って目に触れ曇を研磨した、その結果だ。


「お前、俺のファンなのか?」

「ええ、言っていませんでしたか?」


 津田藤次郎は今一瞬、世界が鮮やかだった。一瞬だ。たった一瞬。自身がその言葉を理解すればするほど瞬きの度に増す彩度を後頭葉が語る。

 嬉しいのか。刺激した食虫植物がゆったり口を開くように、津田藤次郎は時間をかけて気がついた。

 嬉しいのか、俺は。


 感謝の言葉を言わなくてはならない。それは人として当たり前だと言われるもので、不可逆の愛が籠っている。その愛とは感謝である。その愛があるならば、感謝の言葉とは言うべきなのだ。


 津田藤次郎は口を開いた。


 開いただけだった。


 また直ぐに閉じて顔を下げる。仕草ではない。仕方の無い事だった。津田藤次郎は目を固く閉じなくてはならなかった。目を閉じ口を閉じ下を向く。そして目元を手で覆う。カサつく手だった。ささくれだった指先の消えかけの指紋が目尻に触れ、ざらつく感触がする。痛みのまた違った形だった。それが津田藤次郎に静かに伝わる。震える息を吐いた。何度も震える息で深呼吸をした。手がぬるい温度に変わっていく。


 女が津田藤次郎の左手に触れた。ただ重ねるだけのそれが津田藤次郎には何よりも暖かかった。

 温度が伝わる。混ざり合う。冷たい。手とは言えない氷のような体温が硬い皮膚の上に乗っかって徐々に染み込んでいく。温もりだった。


 何も言わず何を伝えるでもない。それに救われる気持ちがあまりに甘く、か弱く、津田藤次郎はこの時だけそれを愛した。


 深く。









 読んでくださり誠に感謝 俺は初心者

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