悪魔の保育園
森本 晃次
第1話 緊急電話犯罪
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年12月時点のものです。かつて起こった事件は、あくまでもフィクションで、元になる事件はありましたが、フィクションとして書いています。
「緊急通報電話」
と呼ばれるものは、警察だけでも、相当あるのかも知れない。
消防にでも、いわゆる、
「119番」
と呼ばれるものに、消防もあれば救急もある。
火事が起こった場合の火災と、けが人を見つけたり、した時の通報である。
けが人といっても、交通事故、行き倒れ、さらには、何かの事件に巻き込まれたと思われる場合である。
一緒に警察に連絡することが多かったりする。交通事故などの場合はもちろん、原因不明の行き倒れなども、連絡する必要があるだろう。
もし、倒れている人や、ひき逃げにあった人がいるのに、何もせずにそこを通り過ぎると、その人も、
「救護義務違反」
ということで、罪に問われることもある。
「誰も見ていないからいいや」
などと思っていると大間違いで、どこに棒はカメラが設置してあるか分からないし、止まっている車のドライブレコーダーに映っている可能性だってあるのだ。
今の時代は、基本的に、
「逃げることはできない」
と思っておいた方が正解だろう。
もし、
「そこで救急車を呼んでいれば助かったのに」
ということになれば、その責任はさらに重くなってくる。
ただの過失などでは済まされないだろう。
家族とすれば、溜まったものではない。
「ちょっと連絡をしてくれるだけでよかったのに」
と、恨んでも恨みきれない思いだろうう。
「こんなやつ、死んで当然」
と思ったことで、その男に対して、恨みから殺意を持つかも知れない。
その思いが高じて、本当に仇討を行ったとすれば、今度は、殺された男に家族がいて、
「逆恨みだ」
といって、法で訴えようとしても、結局、情状酌量からか、大した罪にならず、結局、
「報復するしか手はない」
ということで、復讐をすることになるかも知れない。
そうなると、もうどうしようもなくなるだろう。
復讐の連鎖が止まらなくなれば、
「お互いに全滅するまで行う」
ということになり、
中には、家族だというだけで、まったく復讐の意志のない人を勝手に、
「仇敵だと思い込み、殺害に至る」
などということになれば、
「復讐の応酬は、何も生まない」
ということで、
「本当はどこでやめればよかったのか?」
ということになり、この問題は、
「収拾がつかないまま、殺し合うまで終わらない」
などという、無法地帯になることだってあるかも知れない。
これが一般市民であれば、なかなかここまではないのだが、反政府主義の団体などであれば、お互いの意地と組織のメンツにかけて、簡単にやめないだろう。
「つまり、最初に仕掛けたやつが一番悪いのであって、後は、惰性のようなものである」
ということになるのだがら、一番悪いのは、そのタイミングで企んでいるやつということになる。
さすがに、
「復讐の応酬」
などということになると、まるで、
「昭和の任侠映画の世界」
ということになるだろう。
今の時代は、地域によっては、
「組の抗争」
などというものがあり、今も、
「昼間でも、民間人が立ち入ってはいけないところ」
というものが存在したりしている。
ただ、今の時代は犯罪もいろいろ変わってきている。
昔の、
「組同士の抗争に巻き込まれる」
などということはほどんどなくなってきたが、逆に犯罪が民間人が起こすものに変わってきている。
いや、民間人というのは少し違う。
「プロの集団という意味では、今も昔も変わりない」
といえるだろう。
しかし、今の時代の方が陰湿で、知能犯だったりすることから、
「今の犯罪の方がたちが悪い」
ということになるだろう。
昭和から平成になると、今も残っている問題が、どんどん生まれてくることになる。
例えば、苛め問題、子供への虐待問題ということで、親としても、
「自分たちの子供の頃にはなかったタイプ」
ということになる。
確かに、苛めというのは、昭和の頃からあった。
ただ、今ほど陰湿なものはなく、理由としても、今よりもハッキリしているものが多かったことだろう。
昔の苛めは、
「苛められる側にも問題があった」
ということで、お互いに腹を割って話をすれば、結構解決し、そこから友情が生まれたりすることもあったが、今の苛めではそんなことはほとんどない。
前の苛めがなくなるパターンとしては。
「お互いに誤解が解けて、苛めを行う理由がなくなった」
というものであったり、
「苛めの対象が他のやつに移った」
などと、根本的な解決にはなっていないが、苛められていた本人にとっては、大いなる解決ということになるだろう。
ただ、元々苛めていたやつとは、結構ここで和解し、
「お互いに腹を割った仲になる」
ということが多かった。
昭和30年代から40年代と、それ以降とでは、同じ、
「苛めの対象が他に移って、苛めていた相手と和解した」
ということが、若干違っているということも正直なところであろう。
やはり、
「苛めの原因がハッキリしている」
ということは大きなことで、それが解消できれば、ある程度は何とかなるものだった。
しかし、それが平成になると、苛めている側が、
「どうして苛めるのか?」
ということを分からないために、解決できない事態に陥ることも多かった。
苛めっこ側にも、いろいろあるようで、家庭の事情であったり、親からの迫害などということもあったりして、
「苛めの原因は一つではない」
ということになるだろう。
そんな苛めっこ側の事情だけではなく、苛められる側の対応も、それまでと微妙に違っていて、さらに深刻になってきているということであった。
「苛めが昭和の頃より陰湿になってきた」
ということであった。
そんな苛めで、
「使われる言葉」
も、時代とともに変わってきている。
同じ意味の場合もあれば、
「意味が違うから言葉も違う」
というものもあるだろう。
一番よく言われたこととして、昭和の時代では、
「登校拒否」
といい、平成以降では、
「不登校」
というようになったのだ。
登校拒否とは、
「身体が健康であるにも関わらず、気分が乗らない、学校に行きたくないという理由で登校しない」
ということをいう。
しかし、不登校というのは、登校の意志はあっても、苛めなどの問題で、学校にいけなくなり、出席日数が足らなくなってしまったりすることをいうのだという。
つまりは、不登校の場合は、登校の意志がある場合で、登校拒否は、学校に行くこと自体が嫌だという感覚である。
要するに、
「不登校と登校拒否は根本が違っているので、それぞれの時代だからあったというわけではなく、今も両方とも存在している」
ということだ。
登校拒否は理由だけを見ると、
「不良だ、怠けている」
という風に見られがちだが、実はそうではない。
特に昭和の時代における、
「詰め込み教育」
の時代にはよく起こったことではないだろうか。
というのも、
「学校にいきたくない」
という理由に、
「勉強についていけないから」
あるいは、
「成績が悪く、先生や親からやかましく言われるから」
などという理由もあるだろう。
先生側も、
「成績のいい生徒に合わせて、落ちこぼれを放っておくか?」
あるいは、
「落ち溺れをなくすために、成績のいい生徒を待たせておくという態度を取るか?」
ということで、詰め込み教育をする限り、
「できる生徒とできない生徒の溝」
というのは必ずできるもので、それを埋めるのは至難の業であろう。
同じ教室で授業をやっている限りは不可能だといってもいい。だから、登校拒否が多かったのは、昭和時代ということで、昭和には、登校拒否という言葉しか聞かなかったのだ。
苛めもあるにはあったが、実際に学校に来なくなるほどのひどい苛めがとれほどあったのか分からない。実際に苛めの中には、
「苛められる方にも原因がある」
ということで、苛められる側も苛めくらいで学校を休むということは、いうほどなかったのではないだろうか?(ちなみに作者も昭和の苛めを受けていた経験者なので、このような書き方になりました)
だが、これが平成になり、途中から、
「ゆとり教育」
ということが言われ出すと、学校での落ちこぼれというのは、少なくなってきたのかも知れない。
逆に、ついていけなければ、学校を休んで家に引きこもることで、
「引きこもり」
ということで、
「登校拒否」
との境が見えなくなったのではないだろうか。
何でもかんでも、引きこもりということになり、実際にはその中には、登校拒否もかなり含まれているのではないだろうか?
大人でもこの時代は、バブルがはじけて、会社をリストラされたことで、家にもいえず、表で彷徨っている大人もいたりした。
そのせいで、
「大人の引きこもり」
というのも出てきて、引きこもりという言葉で、何でも表現してしまう時代になっていたのかも知れない。
ただ、不登校と、引きこもりとの因果関係は結構あるのではないだろうか?
不登校になり、家の中にいてもすることがないと、暗い部屋で布団をかぶって、自分だけの世界に入りながら、ゲームばかりしているような、そんな状況が、子供だけではなく、大人にも現れてきたのだった。
確かにバブルが弾けたことでのリストラの嵐は大きな社会問題となり、
「大人であっても、トラウマや精神状態が崩壊し、子供に戻ったかのようになってしまうのだ」
ということであった。
そんな苛め関係は、
「昭和の時代にもあったが、平成以降では、まったく違ったものになってしまった」
というものである。
しかし、平成になってから、現れた新種の問題がいくつか散見されるようになった。
このどちらも、結構深刻な問題で、それぞれの時代で、大きな問題となっていた。
まず最初に出てきたのは、時代的には、1990年代前半くらいからであろうか、
「ストーカー問題」
というものであった。
ただ、昭和の頃であっても、
「付きまとう」
ということは、まったくなかったわけではないだろう。
ただ、一般市民という意味では数としても問題としても、それほど昭和の頃に多かったわけではないだろう。あっとするれば、チンピラや紐、あるいは金づるなどと言った、
「裏の世界」
にはあったといってもいいだろう。
ただ、一般的な庶民の中にはなかったこともあってか、世間的にも認知されていなかったが、1990年代に入ると、急に、
「ストーカー」
という言葉が叫ばれるようになった。
「恋人同士だったのに、別れ話が拗れて、別れたくないと思っている方が粘着体質だったありすると、その人をどこまでも追いまわしたりする」
などというところから始まるのだろうが、
「マンションの玄関先の前に、ゴミや汚物をわざと投棄」
「注文もしていないのに、デリバリー(当時は出前)を電話でいろいろなところにかけまくり届けさせる」
さらには、
「無言電話」
などというのが、パターンだっただろうが、ひどいものになると、
「お互いの性行為のシーンを、自分だけ顔を隠して、相手の会社にメールで送りつける」
などというのもあった。
「会社の前で待ち伏せ」
などというのは、前からあったことかも知れないが、とにかく、最初は規制する法律もなく、やっと途中で、
「ストーカー規制法」
なるものができてきた。
しかし、これだって、完全に被害者を守れるものではない。
「帰宅時間ちかくになると、家の周りのパトロールを増やす」
などという、幼稚なことしかできないのだ。
要するに警察というところは、今も昔も、
「事件が起こらなければ、動かない」
ということになるだろう。
私立探偵が、
「依頼がなければ動かない」
ということと、わけが違う。
「障害事件や殺人事件が起こらないと、警察は動けない」
ということであり、中には、
「こんなことにならないように、警察に事前に相談したのに」
といっても、動かなくて、結局最悪な形になったのは事実であろう。
ただ、警察としても、
「疑わしいというだけで、相手を監視したり、束縛はできない」
というのも、当然であろう。
しかし、実際に犯罪が起きてしまって、
「警察には相談した」
と言われてしまうと、誰かが責任を取ることになるのだろう。
直属の上司が懲戒処分ということで決着ということで、解決してしまうなど、
「まるで、トカゲの尻尾切のようだ」
ということであったのだ。
昭和の頃にも、
「ストーカー」
という言葉ではないだけで、同じようなことがなかったわけではない、
学生時代に、好きな女の子がいたら、どこに住んでいるか、追いかけてみようという衝動は、昭和の人であれば、あったのではないか。
そして、一度くらいは追いかけてみたりしたこと、あったのではないだろうか>
今やったら、もちろん、アウトである。
人の後をつけたり、個人の家を調べたり、別の意味の法律でもアウトだ。
昔は、別にそこまでなかったのは、それほど陰湿なストーキングが、目立たなかったからかも知れない。
いや、もっと言えば、ストーカー行為をされても、証拠がなかったり、ストーカー行為に対しての認識がなかったので、
「被害者が、泣き寝入り」
というのが多かっただろう。
なぜなら、ストーカー行為という認識がないので、
「後を追いかけられた」
ということになる。
ほとんどの場合が女性ということもあって、下手をすれば、
「気のせいじゃないですか? 自意識過剰すぎますよ」
と言われてしまうのがオチである。
特に、男尊女卑の昭和の時代。こちらも、別の意味で、問題になる認識であった。
だが、1990年代中盤くらいだったと思うが、ストーカー関係のドラマがあったのだ。
それも、男がストーカーの場合と、女が主人公の2本のドラマが平行してあったのだった。
どちらにしても、被害者側が擁護されるように作ってあるだろうから、女性が被害者の時は、まるで、痴漢犯罪や盗撮のような女性への性犯罪の認識が強い。しかし、男性が被害者の場合は、どちらかというと、
「自業自得」
として描かれるのが多いのではないのだろうか>
というのも、
「男が複数の女性と交際していて、お互いがそのことを知らないのであれば、見た目は、まるで一夫多妻制のような、ハーレム状態に見える」
というものだ。
ということは、
「男のロマン」
とでもいうべきか、女としては、
「最低の男だ」
という目で見て、男性の方も、
「嫉妬心」
から見ているパターンと、さらに、
「女性の敵」
という目で見る人もいるだろう。
今と昔で、どちらがフェミニストが多いのか分からないが、
「複数の女性を相手に不倫をしている」
など、男女両方から嫌われて当然ではないだろうか?
「女性の気持ちを分からない男は、法で裁かれて当然」
とばかりの時代になってきたのではないだろうか?
今であれば、このような不倫は、
「ゲス不倫」
と言われるのかも知れない。
ただ、昔の男尊女卑であれば、男が表で不倫をするくらいは別に悪いことではないと、「法律が認めていた」
といってもいいだろう。
ただ、これは、戦前の話であるが、不倫に関しての法律、
「姦通罪」
というのがあったのだが、それは、女性が不倫をした時だけ罪になり、男性が不倫をしても、罪に問われないという理不尽な法律であった。
だから、日本国憲法の、
「法の下の平等」
という精神から、姦通罪はなくなったのだ。
逆にいえば、平等な法律であれば、日本国憲法になっても続いていたかも知れない。今はどこの国にもなくなってきたが、2000年近くまで、韓国ではあったようだ。
しかし、そんな姦通罪も、日本では、
「男女差別を平気でやっていた法律」
だったのだ。
つまり、
「男は不倫しても構わないが、女はダメだ」
ということである。
たぶんであるが、昔の感覚として、
「男は表で、仕事して金を稼ぐが、女は家にいて、生産性がないので、甲斐性がない」
ということなのかも知れない。
今では、女性も表で働く。それは、最初は、
「家計を助ける」
という意味だったのかも知れないが、そのうちに、バブルが弾けてからは、
「旦那の稼ぎだけでは、家族を養っていけない」
ということと、会社側の都合で、
「非正規雇用」
というものを、雇わないと、正社員ばかりだと、会社が給料を払いきれない。さらに、会社側は、
「非正規雇用だと、いつでも解雇できる」
という便宜性から、非正規としての社員を求め始めた。
今では、男子の非正規雇用も多くなってきたのだが、それは今度は、また別の意味で、男性の日誠意が増えてきたのかも知れない。
というのも、2000年に入ってから、
「男女雇用均等法」
なるものが生まれてきた。
女性側が、
「男性と同じような雇用機会を」
ということで考えられたものだが、その発想は、少し大げさなところまで来ているような気がする。
「特に、女性特有の名称を男性と同じに」
というようなバカなことも言っているのだ。
「看護婦を看護師」
「スチュワーデスを、キャビンアテンダント」
などというように、
「男女平等だから」
ということで、形から入るというのは、どうなのだろう?
また、このような
「男女雇用均等法」
に絡むところで、意識の中に置いて、女性に対しての犯罪が、過剰に判断されるという懸念がないかということである。
たとえば、痴漢、盗撮などの犯罪を、
「女性が今までは絶対的に弱い立場だった」
ということで、それを逆手にとった、
「嫌いな男性を罠に嵌めるという意味で、まったく関係のない人をサクラのように使って。見てもいないのに、
「この人痴漢です」
などということだ」
まわりの人は、絶対に、女性側の味方をするだろう。
男の肩をもって、女性陣から、男女雇用均等を盾に迫られたら、どうすることもできないのではないだろうか?
それを考えると、どうしても、男を悪者にしないといけない。多数決でいけば、絶対に負けるのだ。
しかも下手をすると、
「あんた、この男の仲間なんじゃない?」
と言われて突き詰められれば、本当に同僚などであれば、
「ほらね」
といわれてしまうことだろう。
この力関係は苛めにも似ていて、相手が美人局のようなグルであれば、最初から計算ずくなので、逃れることなどできないだろう。
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