第8話 一通の手紙

 高木明子の証言はその場にいた人全員に少なからずのショックを与えた。もしこの男が高木明子のいうように、詐欺師であったのなら、一緒になぜ房江がしななければいけないのだろう?

 房江は殺されたのだから、房江には殺されるだけの理由があったことになる。今まで漠然として見えていなかった殺人の動機が、もう一人の男が詐欺師であるということを考えれば、絞られてくるかも知れないという思いである。

 しかし、文芸サークルの人たちにとっては、他人ごとではなかった。何しろいつも一緒に行動している人が殺されて、その動機に詐欺が絡んでいるとすれば、一歩間違えれば、自分たちが殺される運命にあったのか、それとも、詐欺の片棒を担がされるという運命が待ち受けていたのかと思うと、ゾッとしてくるのであった。

 文芸サークルの中で、房江はいつも端の方にいて、何を考えているのか分からないところがあった。しかし、真面目なところに好感が持たれ、比較的真面目な人の多いこのサークルの中では目立たない彼女に、誰も知らない過去があったとすれば、恐ろしい思いであった。

「高木さん、ところでその男を詐欺師だというには、それなりの信憑性のある根拠があってのことですよね? これは殺人事件ですので、そのあたりをしっかりと考えたうえでの発言でお願いしますよ」

 と、門倉刑事は念を押した。

「ええ、分かっています。私もここでお話をしようと思った時から腹をくくっていましたからね。この期に及んでウソやハッタリを言ったりはしませんよ」

 と、高木明子も挑戦的だった。

 彼女はここまで、ほとんどずっと怯えていたのに、話を始める前に吹っ切れてからというもの、完全に開き直っていて、それまでの彼女とはまさに別人だった。そんな彼女を見て、サークルの皆も別に驚いた様子はない。皆分かっていることのようだった。

 そういう意味では、この高木明子という女性は、分かりやすい性格なのかも知れない。そんな女性が開き直って話をしているのだ。彼女の言う通り、いまさらウソをいうようなことはないだろう。

「この男の詐欺というのは、最終的にはお金を騙し取るのが目的なんでしょうが、基本的には結婚詐欺のようでした。見た目はチンピラ風で、本当は近づいてはいけない相手だと普通なら思うんでしょうが、それがパーティであったり、晴れやかな場面であると、この男は不気味な輝きを見せるようなんです。この男に騙されたという女性から話を訊いたことがあったんですが、実は私はかつて看護婦をしていたんですが、その時に見た患者さんで、この男に騙されたと言って、服毒したんです。それ以来、この男には気を付けるようにしていたんですが、だからといって、自分から近づくことなどはしませんでした。ただ、最近、房江さんが知り合ったという男について話を訊いていると、どうもこの男のような気がしたんです。でも、房江さんという人は、こちらが善意で注意をしたとしても、相手が一人なら聞く耳を持たないんです。数人で諭せば分かってくれるんでしょうが、さすがにこういう話を他の人にして何人かで行くわけにもいきませんからね。もし、そんなことをすれば、彼女の秘密を公開したようで、彼女のプライドを傷つけることになってしまい、結局頑なな状態を生んでしまって、空に閉じこもってしまうでしょうね。そうなったら、もう私ではどうすることもできない。それを思うと、何もできなくなってしまったんですよ」

 と高木明子はそう言った。

「なるほど、じゃあ、今回横溝さんが行方不明になった時、高木さんの頭にはこの男のことが浮かんできたんでしょうね」

 と辰巳刑事がいうと、

「ええ、だから、無性に怖かったんです。でも、横溝さんに限って心中などということはありえないような気がするんです。もし騙されたとしても、一緒に死のうなんて、普通は考えないでしょう? 相手を殺して自分がどこかに隠れるというのであれば分からなくもないけど、一緒に死ぬというのは、お互いに好き合っている同士が、どうにもならないまわりの環境に、この世に限界を感じ、自らの命を断つというのが当然じゃないですか。それに、彼女にその気があっても、詐欺師のあの男にはそんな気はありませんよ。そんなことをするくらいなら、さっさとそんなややこしい女の前から姿を晦まして。新しい女を探すに決まっていますからね。何と言っても相手は詐欺師なんです。そんなに大人しく殺されるようなタマじゃないですよ」

 と、最後はほとんど呼吸困難になってしまいそうなくらいに興奮していた高木明子だった。

 となると、ここで気になってくるのは、

「この場合の高木明子の存在」

 であった。

 今までは、高木明子を中心に考えていた。それはどうだろう。高木明子がそもそも彼女たちの知り合いで、行方不明になったので探していると、そこに思わぬ男性の死体まで見つかったというわけで、

「この人は一体誰?」

 ということになったわけで、この人が一体誰なのかということが分かり、その人が詐欺師だということなので、初めてこの男がクローズアップされた。そして、その時点で、殺された二人の存在感が、この事件の中で逆転してしまったのだ。

 今までは、正体不明なのが男であり、一緒に死んでいた房江は、みんなの友達で、少なくとも仲間であった時の彼女のことは分かっているつもりだった。

 だが、実際には殺されたということが判明した時点で、

「なぜ彼女は殺されなければいけなかったのか?」

 ということになる。

 事情聴取の中で、誰一人として彼女が殺されなければいけないほど、誰かに恨まれていたり、殺されるだけの理由を知っている人は誰もいなかった。それなのに、殺されているということは、彼女の本当の姿を誰も知らなかったということになるのであろう。

 ということになると、高木明子の証言通り、この男が詐欺師であるならば、房江の役割は何だったのかが、気になるところであった。

 高木明子の話では、男は結婚詐欺だという。しかも、彼女が知っている被害者は自殺未遂まで起こしているということは、それだけショックが大きかったのか、この男が、詐欺にあって自殺未遂を起こすほど、デリケートな女性をターゲットにしていたということになると、被害者の中で、他にも自殺行為を行った人もいるだろう。実際には本当に死んでしまった人もいるかも知れない。

 そうなると、この男に対しては、調べれば調べるほど、容疑者は限りなく出てくる可能性もある。

 ただ、今の時点では何も分かっていない。この男が詐欺を行い始めたのはいつ頃からなのか、そして、この男による単独犯なのか、それともバックに組織のようなものが存在しているのか。もし、組織のようなものが存在しているのだとすれば、容疑者はその組織の中にもいるかも知れない。何かのトラブルがあって、組織に消されたという考え方である。

 そして、単独犯でないとして、バックに組織がいないとするならば、彼が騙しやすいような手助けになる人物。例えばターゲットを探してくる役であったり、彼が女性から騙しやすいほどの信頼を持たれるような存在になるための、何らかの手助けである。

 手はかなり古いが、サクラに襲わせて、それを危機一髪のところで助けると言った、いかにも、

「ベタな昭和のやり方」

 である。

 詐欺事件というのは、どうしても、警察が関与できる問題ではない。被害届を受け付けることはできても、実際に個人の騙し取られたお金を取り戻すということはほぼ困難であり、証拠が整って逮捕することができても、金銭的なことは、また別問題である。

 そうなると、この男に対して、警察の方で、どれだけの情報があるのか、今照会してもらってはいるが、

「残念だが、まず期待するほどの情報はないかも知れない」

 と感じていた。

 だが、今のところ、問題は本当に彼は自殺なのかどうかである。見た目は自殺ではあるが、自殺にしては、怪しい点が現状証拠からも判断できる。しかも、この男が結婚詐欺師で、自殺をするだけの理由がもし見つからなければ、誰に殺されたのかということになる。そうなると、微妙になるのが、房江の存在だ、

 ここまで考えてくると、門倉警部補の頭の中に二つ疑惑があった。

 一つは。

「横溝房江は、詐欺に関しての共犯者である」

 という考え方、そしてもう一つは。

「彼女は詐欺には関係ないのだが、彼の詐欺師としての秘密を垣間見たために、殺されてしまった」

 という考え。ただ、この考えから派生させた考えとして、

「彼女の知り合いが彼の被害者であり、密かに彼を調査していると、その尻尾を掴まれてしまった。そして、彼のバックの組織がそのことを知り、すでにこの男の詐欺師としての能力に陰りが見えてきたと思っていたとすれば、これ幸いにと、二人を心中に見せかけて殺したのではないか?」

 という考え方である。

 最後の考えは、バックの組織がどれほどのものかは分からないが、それぞれに信憑性が考えられる。

 どちらにしても、今のところ、ハッキリとした事件の全貌が分かっているわけではない。それを思うと、この場で解決できるわけもなく、このまま何も彼女たちから事情が聴けるわけでもなければ、そろそろ解放してあげないといけないような気もしていた。

「皆さん、何かここまでの中で、気になることや、言い忘れたこと。出てきた話の中で気が付いたことなどがおありでしたら、お話いただけでば幸いです。ないのであれば、本日はご協力ありがどうございましたということで、解散ということにしたいと思うのですが、また今後何か事件に進展があって、皆さんからのお話を伺うことになるかも知れませんが、その時はまたご協力お願いいたします」

 と言って、門倉警部補は、一旦解散を言い渡した。

 警察関係者は、長谷川巡査と一部の警官を残して、そのまま撤収していった。そして、二人の女中と、主婦四人組は、そのまま温泉旅館に帰っていった。

 温泉旅館に帰った六人は、正直、かなり疲れていた。まだ昼過ぎくらいであったが、この数時間の間に、まるで数日を過ごしたかのような、今まででは考えられないような濃密な時間を過ごしたような気がしていた。

 その中でも一番疲れ果てているのは、高木明子だったであろう。一番気を張っていたのも彼女だし、何よりも被害者の男性の正体を知っているのは、彼女だったのだ。

 最初は別の方を捜索していたので、直接死体を発券したわけではなかったので、そこまで直接的な大きなショックはなかったが、何か虫の知らせのようなものがあったのも事実で、明子は自分がなぜあの時、死んでいる人間に心当たりがあったのかが、誰も触れなかったが、実際には気になるところであった。

 考えてみれば、さっきの証言で、詐欺師と房江の関係を、

「他の人から聞いた」

 というだけであり、それが誰なのか、触れられることもなく、あの男が詐欺師だということが分かったことで、事件が急展開したという印象が強かったので、あの場面は完全にスルーしてしまったのだろう。

 そう思うと、警察が事件を少しずつ調査し始めると、いろいろと分かってくることもあるだろう。それがどういう状況になってくるのかが気になってきた。

「一周まわって、自分のところに戻ってくるかも知れない」

 と感じた高木明子だった。

 部屋に帰ってから、自分の荷物の確認をしていた高木明子だったが、これは看護婦時代からのくせで、何もなくても、自分の荷物を時々確認していた。意識的にすることもあるし、最近では無意識が多かった。今回は、かなり自分が疲れているということもあったし、何よりも事件の真相に一番近いところにいるという緊張感から、無意識な部分が多くなってしまうのも仕方のないことであろう。

 そう思って、彼女はいつものように自分の荷物をあさっていた。すると、いつもつけている日記。

 日記と言っても、そんなにたいそうなものではなく、その日にあったことをメモ程度に残している程度のものだったが、それを取った時に、何か一つの紙のようなものが零れ落ちるのを感じた。

「あれ? 何かしら?」

 と、明らかに自分の知らないところのものだった。

 確かに、日記の中に何か提出書類のようなものを挟んでおくことは結構あった。もちろん、意識してのことで、それを、

「あれ?」

 と言って、いまさら何事かと思うようなことはなかったのである、

 そして、それをよく見ると、それは便箋の入った封筒ようなもので、中に手書きでも入っているのか、封がされていた。明らかに自分の知らないものであった。

 封筒の前には、宛名はない。切手を貼っているわけではないので、どこかに出すものではなく、中の便箋を閉まっておくものである。そして、裏を見ると、厳重に封がされてあり、そこに署名がしてあった。その名前は、

「横溝房江」

 と書かれているではないか。

 もし、表の宛名に自分の名前が書かれていれば、その場で開けてみようと思ったが、無記名だったことで、

「ここで私が開けるわけにはいかない」

 と開けることを思いとどまった。

 開けてみたいという衝動には十分に駆られていた。しかし、ここで開けてしまうと。あとで警察からおしかりをうけることは分かっていた。そして、事件が佳境に入ってきた時、この時の行動が決め手となって、自分が容疑者として浮かんだ場合に、自分にとって不利な状況になるということも考えられなくもない。

 そう思うと、明子はまず警察に知らせなければならないと思った。

 そしてもう一つ気になったのが、

「宛名が書かれていない」

 ということであった。

 ということは、彼女はそれを渡す相手が誰でもよかったということになり、まずは警察に見せる前に、そんな手紙があったということを、他の人にも示してから警察に知らせるべきなのかを悩んだのだった。

 別にいきなり警察に見せたとしても、それは間違っているわけではないのだが、死んでいった、そして殺されてしまったであろう差出人である房江の気持ちを考えると、どうしていいのか、彼女は悩むのであった。

 警察の目に触れるのは最終的には当然のことだが、その内容を、他の皆にも知っておくべきことなのか、それを思うと、悩むところであった。

 だが、やはりここは、差出人の気持ちを汲むのが一番だと思った高木明子は、他の皆にも教えておこうということで、一旦、宿のロビーに集まってもらうことにした。

 現場から帰ってきてからの皆は、それぞれ印象がまったく変わっていた。

 仲居さんは、従来の業務に完全に戻っていて、女将も凛々しい姿だった。

 それよりも一緒に来た他の三人の奥さんは、それぞれに、先ほどの事件がまだ尾を引いていて、顔色もあまり優れない人もいるかと思うと、先ほどのことなどまったく関係ないとばかりに、自分の時間を謳歌しようと心がけている人もいれば、次はどこに行こうかと、先しか見えていない人もいた。それは高木明子にとって、想像もしていなかった光景であり、あれからまだ少ししか経ってない中で、ここまで一人一人が違っているのかと思わせるに十分であったのだ。

 ただ、基本的に仲間が死んだとはいえ、どこまで彼女と親しかったのかと言われると、考えてしまう。

「房江さんが殺された」

 というよりも、

「同行者の一人から、殺害された人が出てしまった」

 という方が強く、これが何らかの連続殺人事件であれば、

「次に狙われるのは自分ではないか?」

 と考えてしまうこともありえるが、この場合はその可能性は限りなく低い、

 なぜなら、一緒にいた男の正体が詐欺師と分かっていて、自分とは何ら関係のない男だということが分かったからだ。

 房江はその男と何らかの関係を持っていて、そのために殺されたのだと思えば、自分たちはまったく関係ないことになる。それならば、せっかく温泉に来たのだから、楽しまないという手はないということである。

 捜査は警察が行うことであって、そのうちに協力することもあるだろうが、それはその時のことだからである。

 だが、それはあくまでも、これからのことであって、実に不確定要素であった。あと二日ここで滞在することになっているので、その間に何もなければ、このまま帰宅することになるはずであったが、もし、この房江からの手紙が出てきたことで、事件の様相がまったく変わってしまったとすれば、一体どういうことになるというのであろうか。

 高木明子が皆に集まってもらうと。

「一体どういうことなの? もう事件のことはなるべく忘れたいのに」

 と言って、愚痴をこぼしている人がいた。

 この人はポジティブに先だけを考えている人で、一言言いたいと思ってお無理もないことであった。

 だが、もう一人の、本当に事件のことを忘れようと思っている人は、何も言わない。言っても仕方がないと思っているのか、自分の中ではある程度割り切っているからなのか、別にどうでもいいと思っているようだった。

 集まった人は。女将を含め、今回事件に関係のあった人だけで、残っているのは、他の仲居さんなどで、彼女たちが通常の業務を遂行していたのだった。

「すみません。わざわざ集まってもらう必要はなかったのかとも思ったんですが、少し気になることがあったので」

 というと、

「そうよ、別に必要ないわ」

 と、ポジティブな人はそう言った。

 それはまるで自分に言い聞かせているかのようで、皆そこは分かっていた。

 しかし、全体を仕切っているつもりでいる女将は違い、

「あなたの思いを訊いてみましょう」

 と、促してくれた。

「実は、先ほど帰ってきてから、少しして、いつものように荷物を確認していると、私のメモノートの中から、一通の手紙が出てきたんです。封がされていて、、宛名はないんです。そして裏書には、房江さんの署名。つまりは、相手は誰になるか最後まで決めていなかったけど、誰かに伝えたいことが封筒の中に入っている。そして、これは当然のことだけど、警察に届けなければいけない。でも、私はそれを皆さんに了承してもらう必要があると思ったんです」

 というと、

「そんなのどうでもいいわよ。さっさと警察に持っていけばいいのよ」

 と、やはり、ポジティブな主婦が吐き捨てるように言った。

 これに対して、誰も反論はなかったが、

「じゃあ、ここで開けずに警察に持っていくというの?」

「ええ、そうです。で、警察には私が持って行こうかと思っているんですが、そのことを皆さんにお知らせしたうえで、一緒についてきてくださる方がいれば、それはそれで私には心強いと思うんです。どうでしょう? 一緒に行ってくれる方はいますか?」

 というと、誰もそれぞれ顔を見合わせて、明確な返事をしなかった。

 それを見ていた女将さんが、

「じゃあ、あなたがそれを警察に届けるのに出かける時、その時一緒に行く人は玄関に集合すればいいんじゃない? それが意志表示になるんだから」

 と言ったのは女将さんだった。

「そうね。その通りだと思うわ」

 と、高木希子がいうと、皆返事はなかったが、それは了承したということだと言っても差し支えないだろう。

 ということで、今から三十分後に、警察に同行する人はロビー集合ということになった。

 一応車を出すのは、この店のマイクロバスということになったので、乗ろうと思えば全員乗れる。ただ、今回は旅館からは、運転手だけで、それ以外の仲居さんは警察に行くことはなかった。

 運転手が、その時々の事情を把握して、何かあれば逐一、女将に連絡を入れるということにしておいたのだ。

 それから三十分後、ロビーに来たのは、もう一人の奥さんだけだった。

 その奥さんは、最年長の人で、

「本当は私が行くべきかどうか悩んだんだけど、自分が最年長ということと、他の誰も来ないというのは私の中で感じたことだったので、私が一緒だと、あなたも気が楽かと思って同行することにしました」

 と、普段なら、何か言い訳っぽい感じであったが、話には十分な説得力がある。

 それを思うと、二人でも十分ではないかと思った高木明子は、さっそく警察に赴くことにした。

 警察には、三十分前の集まりの痕になって報告した。

「私どもが伺いましょうか?」

 と言われたが、

「いいえ、私の方で、K警察署に伺います。誰が行くことになるかはまだ決まっていませんけども」

 ということであった、

 それを訊いた警察側は、

「分かりました。お待ちしております」

 と言って、それ以上の余計なことはいわなかった。

 何も分かっていないのに、変に触れてもしょうがないのは分かっているからであった。

 それから三十分後に車に乗り込んだわけだが、時間的にはすでに夕方近くになっていた。本当であれば、夕飯が近い時間なので、お腹が空いても仕方ないのだろうが、ここはそれどころではないという自覚があるので、減るであろうお腹が、思ったよりも減っていないことを自覚していた。それだけ、緊張感はピークになっているのではないであろうか。

 警察に向かう車の中で、西の山の方に沈みかけている夕日を見ると、時間的にはまだ昼間と言ってもいいくらいであったが、夕方に近い身体のだるさがあった。

 車の心地よい揺れとともに、どこか睡魔に誘われているのは、それまでの緊張感が少しずつだが車の揺れのおかげで解消されているのではないかと思うと、余計に気になってしまい、そのまま眠ってしまうのではないかと思うのだった。

「確か到着したのは、昨日のこれくらいの時間だったかしら?」

 と、高木明子はぼんやりと考えていた。

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