第5話 心中死体
「じゃあ、この方もこちらの宿で宿泊されていた方だということでしょうか?」
と桜井刑事に訊かれて、女中は無言で頷いた。
「予約されていたんですか?」
と、さっきの主婦の話では、確か主婦が予約した時は、他に宿泊客はいないということだったはずなので、桜井刑事はそこが気になったのだ。
「いいえ、昨日いきなり来られて、宿泊できるかを訊ねられたんです。それで女将が許可したというわけなんですが」
「じゃあ、他の宿を何軒か尋ねて、それでこちらに寄られたということでしょうか?」
と桜井刑事に訊かれて、
「それはないと思います。もし、そうであったとすれば、時間的にもっと遅い時間に来られているはずだからですね。あのお方が来られたのは、三時を少し回った時間で、ほとんどの宿では、チェックインの時間が三時なので、何軒もまわってこられたわけではないと思います、時間的に考えても、うちが一番最初だったと思われますね」
と女中はいい、
「飛び込みでの宿泊というのは、そんなに珍しくもないんですか?」
と聞かれ、
「そうですね、繁忙期にはまずありえませんけど、この時期であれば、珍しいことは珍しいですが、まったくいないというわけではないですね。もっとも、これが女性のお一人様だということであれば、話は別ですけども」
と女中は言った。
「なるほど、女性の一人というのは、昔から予約なしでは泊めてくれないことが多いですからね」
と、そのあたりの事情は警察も分かっているようだった
それを訊いて二人の主婦も頷いていたので、彼女たちにもそのあたりの事情は分かっているようだった。
「ひょっとすると、以前、宿に一人旅をしていて飛び込みで泊まろうとしたことがあったのかも知れない」
と、まで考えたが、これも事件に直接関係のないことなので、敢えて触れる必要もないだろう。
「この人の職業は何なんでしょうね?」
という桜井刑事に、
「宿帳にはフリーライターのようなことが書かれていました。そういえば、お部屋にカメラ機材のようなものを持ち込んでいたのを見ましたね」
と女中は言った。
「フリーライターですか。おい、鑑識さんの方で、そのような機材がどこかで見つかっていないか?」
と聞かれると、
「いいえ、機材が見つかったとは聞いていませんね」
ということだったが、それを訊いた女中は、
「そのお客様は、今日お早めにお出かけになりましたが、その時には間違いなく機材を持って車に乗り込んでおられましたよ」
ということだった。
「この男の車はどこかにあったかい?」
と辰巳刑事に聞かれた鑑識は、
「はい、ここから少し離れたところに停車していました。四つ辻のこのあたりに車を止めると、他の車の邪魔になりますからね。少し行ったところに駐車スペースのようなところがあって、そこに停めていました。彼のポケットに車のキーがあって、車の扉を開けると開いたので、この男性の車に違いないと思われます。おっしゃっていたカメラ機材などは、トランクの中に入っていましたよ」
という報告だった。
「この清水という男が出かけたのは何時頃だったんですか?」
と聞かれた女中は、
「まだ、こちらの文芸サークルの方々が起きてこられる前でしたから、六時半くらいじゃなかったかと思います。元々前の日から、今朝は早く出かけるということはお聞きしていたので、ビックリはしませんでしたけどね」
と答えた。
「この男性はいつまでの滞在予定だったんですか?」
と桜井刑事が訊いた。
「予定としては、ハッキリとは聞いていません。お一人でしかもお仕事で来られる方は、宿泊日数が未定の方もおられますので、私どもも、繁忙期でもなければ気にしません。もっともお仕事でご利用されるお客様は、繁忙期にご利用されることはないので、そういう意味では、うまく回っていると言えるんじゃないでしょうか?」
「その、お仕事で宿泊される方というのは、そんなにいるのか?」
と訊かれて、
「他の旅館との比較になるとよくは分かりませんが、小説家の先生や、絵をお描きになる先生など、数人はおられます。小説家の先生などは、引きこもって想像力を豊かにするために訪れているので、期間は決まっていません。出来上がってからも、宿泊を続けられたりもしますよ。今度は一般人として、温泉や自然を味わうのだと言ってですね。皆さん、生き返ると言われていますよ」
と女中は言った。
「作家や絵画などの芸術家の先生と呼ばれる人はそうなのかも知れませんね。でも、この男性はフリーライターなんでしょう? そういう芸術家の先生方とは違った赴きを持っておられたんじゃないですか?」
という桜井刑事い対して、
「ええ、そうですね。芸術家の先生は、自分のうちに秘めた感性を、なるべく控えめに見せようとしていましたが、昨日の男性は、自分自身をオブラートにでも包もうとしておられたかのような気がします。何がしたいのか、目的がまったく見えてこないという感じでしたね」
と女中がいうと、
「じゃあ、どこか胡散臭さが見え隠れしていたと?」
「そうですね。何かを隠そうとしているのを、私たちに対して隠そうとはせずに、敢えて見せているという雰囲気はありました。フリーライターなどという職業の人はそういうものなのだろうって、私は解釈したんですけど」
と女中は言った。
それを聞いていた鑑識が、
「辰巳刑事。ちょっといいですか」
と言って、話の中に割り込んできた。
「死亡推定時刻なんですが、死後三時間というところだと思うので、午前七時前後ではないかと思われます。死因は見た通り、胸に刺さったナイフですね。一突きというところでしょうか。声を出す暇もなかったと推測できます」
という報告をした。
そこへ、ちょうど鑑識官のケイタイが鳴っていた。
「はい、もしもし」
と言って、電話に出ていたが、どうやら、相手はもう一組の鑑識部隊からの報告のようで、
「そうか、分かった。そちらの死亡推定時刻は、こちらよりも遅いということになるな、こっちのガイシャも、どうやら、旅館『新風荘』のお客さんだということだ。そっちの方も引き続き、鑑識の方を頼みます」
という話をしていた。
それを訊いて、三人の女性は急に震えが止まらなくなったようで、それを見た辰巳刑事が三人に声をかけた。
「どうされたんですか?」
ということを聞くと、
「ええ、いえ、今の話が気になったんですが、まるで、他でも死体が発見されて、それがうちの旅館の宿泊客ででもあるかのような言い方だったので、ビックリしたんですが」
というではないか。
「ああ、そうか、皆さんは先にこちらを発見して、通報されただけですので、知らないんですね? 実はあなた方の別動隊とでもいいましょうか、滝のある祠に行かれた人たちがいるということでしたよね。そちらでも、先ほど死体が発見されたという報告を受けたんですよ」
と、辰巳刑事は言った。
「ええ、元々私たちが探していたのは、この男性ではなく、一緒に来ていた行方不明になった友達を探していたんです。それなのに、想定外に他人の死体を見つけることになってしまって……」
と言いながら、主婦の一人は、頭を下げて忌々しそうにしていた。
「実は、そのお友達ですね。横溝房江さんですか? 彼女の死体があちらで発見されたということなんですよ」
という桜井刑事の報告に、
「えっ、何ですって?」
と三人は同時に声を挙げた。
三人三様で驚き方が違っていたのだが、声を挙げる瞬間が同じだったため。警察の方としても、その違いに気づかなかった。
「一体、どういうことなの?」
と、女中が桜井刑事に聞くと、
「我々もまだそちらに向かっているわけではないので、何とも言えないんですが、どうやら、男女二人の死体が発見されたということです」
というのを訊いて、主婦の一人が、
「それって心中?」
と声を挙げた。
それを訊いて、桜井刑事はふいに、
「どうしてそう思われるんですか?」
と聞くと、彼女は少し戸惑うような表情で、まわりを見渡して、少しして意を決したように話し始めた。
「私は彼女と結構仲がいいつもりなんですが、最近の房江さんは、自分が不倫をしていて、それを悩んでいるように話していたんです。元々の不倫は、旦那が不倫をしていると思い込んだことから始まったそうなんですが、どうやらそれが勘違いだったようで、だからと言っていまさら不倫相手に、旦那の不倫がウソで、自分も不倫をやめたいなどと言えないと言って、苦しんでいたようです。特に最近は表情が暗かったんですよ」
という、
「じゃ、この旅行の最中も上の空だった李したこともあるんじゃないですか?」
「ええ、最近の房江さんはずっとそんな感じだったので、まわりの皆も慣れっこになっていて、そんなに余計な心配はしていないと思います。でも、不倫を知っているのはたぶん私だけだと思うので、彼女が行方不明になったのを知って、単純に何かに悩んでいると思っていた人は、訳もなく心配していたんだと思います。だから、殺されたと知ると、皆ビックリなんだと思いますよ」
と主婦の一人が言った。
「あなたは、その不倫の相手というのがどんな男性なのかって知っていますか?」
と訊かれて、
「いいえ、ハッキリとは知りません。でも一度房江さんは旦那以外の男性と仲良く歩いているのを見たことがあったんですが、遠くから、それも後ろからだったので、どんな男性なのかまでは分かりませんでした。でも、それを見た時、彼女の言っていることが本当のことだって確信したんです」
というのだった。
「ひょっとすると、一緒に死んでいた男性が彼女の不倫相手カモ知れませんね」
と桜井刑事がいうと、
「そうですね、でも、まだ何とも言えませんよ。彼女が不倫をしていたという話は、今ここで聴いただけのことであり、完全に信用できるものではないと思いますからね」
と、辰巳刑事は皆がいる前で言い放った。
それを訊いた、不倫の話をした主婦は、辰巳刑事に対して少し挑戦的な視線を浴びせたが、辰巳刑事もその視線に気づいて、彼女を見返してくる。その表情は挑戦的でもなく、やたらと余裕が感じられ、それがどうにも彼女には気に食わない思いをさせた。
辰巳刑事は彼女に何か違和感を覚えたのか、少し気になっているのは間違いないようだった。
「ところであちらには誰が行っているんですか?」
と桜井刑事は辰巳刑事に聞いた。
「向こうには、まず長谷川巡査と、鑑識が先に到着していて、後から門倉警部補と松阪刑事が向かうとのことだよ」
と辰巳刑事は答えた。
「そうですか。こちらの事件とあちらの事件、何か関係があるんでしょうかね?」
と訊かれて、
「どうだろう? 同じ宿に泊まった別々のまったく面識のない人間が、偶然翌日に、別の場所で死体となって発見される。これって偶然にしては出来すぎている気はするんだけどね」
と辰巳刑事は言った。
さて、同じ頃に心中と思しき現場に、先ほど話題になった門倉警部補と、松阪刑事がやってきていた。
門倉警部補は、すでにK警察刑事課において、刑事として数々の事件を解決してきた手腕は、他の署にもいきわたっているくらいで、
「まだ警部補というのはおかしいんじゃないか?」
と言われていたが、本人が昇進にはほとんど興味を示さず、昇進試験の勉強をするくらいなら、事件を追いかけた方がいいと言っていたようだが、実際には、影で勉強をしていて、
「試しに受けてみれば」
と言われた昇進試験に余裕で合格したということだった。
ただ、門倉刑事は昇進のために勉強していたというよりも、そもそも勉強自体が好きだったので、教養は身についていたということであった。
だから、試験を受ける前の俄か勉強は、最後の総仕上げ程度で見ていただけだったので、余裕での合格も分からなくもないというところであろう。
だが、警部補になっても、やっていることに変わりはない。最前線に出ることもいとわずに、部下にその背中を見せることで、教育もできていて、役職は彼にとって、さほど重要なものではないということであろう。
ただ、警察組織において、階級によってできることできないことがハッキリと別れているので、警部補になったことでできるようになったことも結構ある。それはありがたいと思ったが、そもそも刑事の頃でも、まわりを引っ張っていくことに長けていたので、警部補としても、その力はいかんなく発揮されていた。問題は、責任も大きくなったということで、ちょっとしたことでも、追い落とされないとも限らない。そこだけは本人も自覚した行動をとるようにしていたのだ。
今回、門倉警部補と行動をともにしているのは、若い松阪刑事であった。
彼は警察学校を平均的な成績で卒業し、その他大勢の刑事の中の一人だと思われていたが、K警察への赴任が決まったのは、どうやら門倉警部補が、
「松阪刑事をぜひともうちに」
という強い推薦があったからだという。
その話を伝え聞いた松坂刑事は、一度直接門倉警部補に、
「どうして私のような、そんなに目立たない警察官を引っ張ってくださったんですか?」
と聞いたという。
「君が書いたという試験の作文を読ませてもらったんだけど、君の考えは私の考えと似たところがあるので、そこがちょっと気になってね」
と言われ、
「どういうところですか?」
「君は作文の中で、『警察の仕事というのは、犯人を逮捕することも大切だし、犯罪を未然に防ぐのも大切だけど、そのどちらも中途半端な気がする、だから、それを一気に解決するために必要なのは、研究と検証だと思う』と書いていただろう? 私はその意見に感動したというか、私と似たような意見を持った人が新人として入ってくるのを頼もしいと思ったので、そういう部下を目の前で見てみたいと思ったんだよ。その新人がどのように育って行ってくれるかね。警察というところは、まあ警察に限ったことではないが、慣れてくると、長いものに巻かれる傾向にある。君のような意見を持っている人は、比較的そんな巻かれるようなところはないんだろうと私は思いたいんだ。そういう意味でも、君をそばにおいてその成長を見守っていきたいとも思っているんだ。君のような人は、私が指導するまでもなく、成長するのは間違いない。ただ、基本的なノウハウや考え方だけは、教えないと分からないだろうと思ったので、私の手元に置きたくなったんだ」
と、門倉警部補は話した。
松阪刑事は、門倉警部補にとっての、
「秘蔵っ子」
という意味で見ている人が多いかも知れないが、ニュアンスとしては少し違っている。
そんな松阪刑事を加えたところでの刑事課は、今の刑事としては、辰巳刑事、桜井刑事を始めとして、数人刑事がいるが、その中でも微妙な異色的な存在なのが、松阪刑事であった。
松阪刑事にとって、K警察刑事課は、きっと自分の才能を十分に生かしうることができる場所だと自分でも思っていた。
「刑事という商売は、自分で自分を信じることができなければ、務まらない仕事なんだ」
と、門倉警部補は、よく部下に話をしていた。
辰巳刑事のように、どちらかというと昭和の刑事のイメージを漂わせているのは、
「勧善懲悪」
という考え方が前面に出ているからだろう。
さすがに行き過ぎた捜査をすることはなかったが、たまに思い込みで突っ走ることがあり、
「怪我をする」
ということもあった。
そういう意味で、いつも生傷が絶えないと呼ばれていたが、それは実際のことではなく、精神的に怪我をしたり、生傷が絶えないということだ。いい悪いは別にして、辰巳刑事はその考えが表に出すぎることがある。上司としては危なっかしいと思うのだが、彼の勧善懲悪の考えが、他の誰も想像もできないような発想を生み出し、事件解決に導いたことも幾度もあったのだ。
やはり辰巳刑事いとって昭和レトロは、
「古き良き時代」
という言葉を、そのままの意味で受け取ってもいい世界を形成できる無二の人物なのだろう。
桜井刑事というのは、辰巳刑事とはまた違ったイメージであった。
彼は冷静さでは、門倉警部補の右に出るくらいのものがあり、冷静になってからの彼の判断力は、まわりの皆が感心するほどのものであった。しかも、彼は勘が鋭い。もちろん、それは経験に裏付けられたものなのであろうが、昔であれば、
「勘に頼る捜査は、誤った道を歩ませる」
と言われる時代もあったが、
「判断力も一種の勘のようなものではないですか?」
と言われてしまうと、判断力に一目置いている人が多いだけに、言い返すことができなかった。
「つまりは、実績のある判断力に裏付けられた勘は、それだけで十分な武器になりえるのだ」
ということである。
今は辰巳刑事に桜井刑事をコンビとしてつけているが、これこそ、門倉警部補の満塁ホームランと言ってもいいのではないかと、言われるようになっていた。
門倉警部補は松坂刑事に、
「辰巳刑事と桜井刑事のいいところを、受け継いだような刑事になれるんじゃないかな?」
という期待をかけていたのだ。
そんな松阪刑事を引き連れて、門倉警部補はやってきたのだが、二人を見た長谷川巡査は恐縮していた。
長谷川巡査は門倉警部補に対して並々ならぬ尊敬の念を抱いていた。
これは長谷川巡査本人は知らないことだが、彼のちょっとしたミスを、門倉刑事の機転でうまく処理し、そのミスが表に出なかったことがあったが、その時に自分が助けてもらったという意識ではなく、門倉刑事のことを単純に尊敬し始めていたのだった。
長谷川巡査も、どちらかというと頭に血が上りやすい方で、巡査という職業柄、大人しくまわりに従っているが、もし彼が刑事となっていれば、誰に似ているかといえば、明らかに辰巳刑事であった。
下手をすると、辰巳刑事が足元にも及ばないくらいに勧善懲悪の気持ちが強く、さらに彼は少数意見を取り入れるという意味で、警察の考え方には疑問を持っていた。
警察の伝統的な縦社会や忖度であったり、公務員気質に嫌気がさしてくるのも時間の問題かも知れない。それをうまくコントロールできているのも、門倉警部補の力である。
もちろん、巡査と刑事課では命令系統が違うので、直接的な命令や責任等はないが、気持ちの上で慕うことは別に問題ではない。そう思うと、長谷川巡査も、門倉警部補の捜査課という意味ではその一員だと言ってもいいだろう。
今回の事件のあらましを簡単ではあるが(もっとも、まだ何も分かっていない段階なので)、長谷川巡査は、門倉警部補に説明していた。
「じゃあ、ここだけではなく、今辰巳君が向かっている現場の事件も、この事件と何か関係があるのかな?」
と訊かれて、
「何とも言えませんが、このような温泉旅館が立ち並ぶ場所での殺人事件自体が珍しいのに、一日に二件もあるなんて、本当にどうしたことなんでしょうね? しかも、こっちは身元不明の男が服毒している。そこに何の意味があるというんでしょうね」
と長谷川巡査は答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます