夢現
ああ、またあの夢だ。
夢の中で俺は辟易としていた。
俺の名前は宿木吐夢。中肉中背で顔も普通。4年制の大学を卒業後にそれなりに大きな企業に就職し、10年間会社のために全てを捧げた、名前以外至って普通の男だ。
そんなザ・普通の俺が訳あって32歳で無職になり、この春から夜染という山奥にある村のホテルで生活することになるなんて、人生はわからないものだ。
季節は初冬。夜染で過ごす初めての冬だ。
村はすっかり雪化粧をして、当たり前だが外の気温は常に氷点下だ。部屋にエアコンが完備されているとはいえ、都会育ちの俺にここの冬は寒すぎて、布団に包まる日々だった。
それにしても、二度寝というのは何と抗い難い誘惑だろう。あと5分、まだ5分と寝ては起きてを繰り返しているうちに、いつの間にか熟睡してしまう。社会人時代には決して味わうことが出来なかった、微睡の中で夢と現実を行き来する時間が俺は堪らなく好きだった。
だが、それが失敗だった。同じ夢を何度も見たり、前見た夢の続きを見たりした経験はあるかい?俺はある。それもほぼ毎日のように。
自損事故で生死の境を彷徨った俺には、突然激しい頭痛に襲われて不思議な光景を見るという困った後遺症があるのだが、もう一つある悩みがこの奇妙な夢だった。悩みと言っても起きたら綺麗さっぱり忘れてしまうので、毎日ここに来てから思い出すのだが。
「ちょっと聞いてるの?」
怖い女の夢だ。怖いといっても、霊的なやつではない。むしろ容姿は整っていると言っていいだろう。ぱっちりとした二重の大きな目に、西洋人の様に高く尖った鼻。それに少し厚みのある唇…。おそらく女性なら誰もが羨む様な、可愛さも色気も併せ持った顔。
更に顔も小さく背も高い、俗に言う八頭身だ。長い黒髪はシャンプーのCMのように艶やかで、着ている服もブランド物で統一されている。客観的に見て、街ですれ違えば誰もが振り返るであろう美人だった。
そんな女と夢で毎日のように会えるなんて、羨ましいって?
「何で勝手に居なくなったの?」
「まず言う事があるんじゃない?」
「優先するのは私」
「あなたの事情なんて関係ない」
そら始まった。どうやら夢で俺とこの女は付き合っているらしいのだが…。
とにかく女の方が我儘というか束縛タイプというか。目が覚めるまで延々と夢の中で説教を聞かされ続けるのは地獄だった。
いつだったか、夢は潜在意識の現れだと聞いた事がある。
「わかったなら態度で示しなさい」
だとしたら、心の奥底で俺はこういうのを求めてるんだろうか。
「今すぐ買ってきて。私が欲しいのは、今なの!」
…いや、そんな訳ないな。断じて違う。
というか、毎日ここまで言われるくらい何をやらかしたんだ、夢の中の俺よ。
いい加減俺もうんざりしてきた所で、頭上を何か黒いものが横切った。
「ちょっと、どこ見てるの!私がまだ話してるでしょ!」
ああ、また見逃した。俺は目の前で顔を真っ赤にして怒鳴る女の事など忘れてその影を目で追った。
「いい加減にして!早くもどっ」
「いいーっあ。ぎゅういいい!」
甲高い鳥の鳴き声が、俺を一気に現実世界に連れ戻した。気持ちよく二度寝したはずなのに、とてつもない疲労感だ。
きっとまた何か嫌な夢でも見たんだろう。それなのにどんな夢かわからないのがもどかしい。不思議な事に、微睡んでごろごろしている時はぼんやりと覚えているのに、さあ起きようという時にはもうすっかり忘れている。
この思い出せない悪夢も事故の後遺症のようなものだが、別に不眠になる訳でもないので特に主治医にも相談しなかった。
「んーっ…。起きるかあ」
変な夢のことはさっさと忘れて、今日も一日頑張ろう。今日はもうそろそろ仕事に行かないと。
俺は手早く身支度を済ませると、一階のロビーまで降りていった。ここでは時間がゆっくり流れていて、高々32階のエレベーターを待つくらい訳ないものだ。
「おはようございます、トムさん」
ロビーに着くなり30階の108号室に住む#山中鈴__ヤマナカ リイン__#が笑顔で俺に声を掛けてきた。
鈴さんはカチューシャつきの黒いメイド服に金髪ボブヘアという出立ちで、大きな茶色の瞳が服装と相まって印象的だった。
「おはよう鈴さん。今日も早いね」
只今の時刻は朝8時30分。会社員時代なら完全な遅刻だが、無職の今は寧ろいつもより早起きした方だった。
「ええ、私は語り手ですから。トムさんも狼には気をつけてくださいね」
「狼。えっと…そう、そうだ。ちゃんとレンガの家を作るから大丈夫」
鈴さんは他人を昔話の登場人物に例えて話すので、俺もそれに合わせて会話する。
「え、家の扉を開けないようにするのでは…?」
「ん…?ああ、そっちね!勿論開けないよ。毛むくじゃらの手を見逃さないようにしてね」
危ない危ない、どうやら七匹の子やぎの方だったようだ。まったく…鬼や狼は昔話の節操がなさすぎる。今まで童話なんて桃太郎とか有名どころを何となく掻い摘んでしか知らなかったし興味もなかったけど、鈴さんと話すようになってから俺も昔話に少し詳しくなった。鈴さんとの会話は楽しいから、自然と覚えたいと思えたのだ。
俺の返答に満足したのか、鈴さんは笑顔でロビーの椅子に戻ると、再び絵本を読み始めた。
「おはよー、トムさん。今日は早いじゃん」
丁度エレベーターから出てきた声も顔も中世的なこの男の子は2階の107号室に住む角谷詠人だ。
「おはよう詠人。実は今日仕事なんだよなあ」
「マジ?あそこで?それはご愁傷様」
いつも不機嫌で毒舌な詠人ですら、この時ばかりは俺に憐れみの目を向ける。
「はは、はっきり言うね。まあ、体を慣らす為にも時々仕事はしないとね」
「だからってあんな所で慣らす必要ある?やっぱりトムさん染まりきってるよ。会社員嫌なんだよね、俺。時間に縛られて格好や意識まで強要されて。宗教と一緒だよ」
鈍色の丸メガネから覗く詠人の目が、険しい表情でより一層鋭くなる。
「宗教かあ。そんな事思ったことなかったな。そういえば、もうすぐ文学賞の選考があるんだっけ?」
「なんだ、覚えてたんだ。トムさんもきっと、半年後には俺のこと先生って呼んでるよ」
詠人は不敵に笑うと、奥の方の椅子に座ってパソコンで作業を始めた。小説家志望だという詠人は、こうして毎日のように朝から晩までロビーで小説を書いている。まだ読ませてもらった事はないが、詠人の性格からしてきっと小難しくて入り組んだ内容のものに違いない。それでも今は時間も気持ちも余裕があるし、いつかは読んであげたいと思っている。
ホテルの外に出ると、ひょおおおと強い風が吹いて降り積もった雪がきらきらと舞い上がる。
「綺麗だけど…寒いなあ」
腐葉土の散歩道は雪に埋もれ、歩くたびにぎゅっぎゅっと気持ち良い音がする。きっともう根雪になる。春まではこの白い絨毯が俺の歩く道になるのだ。
今日仕事に行く夜染役場は村の中心部にあり、ホテルからこの散歩道を降りて山の下までいかなければならない。
緩やかな坂とはいえ、積もった雪に足が取られるし、暖かいと凍ってつるつるになる。おまけに左右は傾斜のある藪なので、道だと思って踏み抜いたらそのまま腰まで埋まることもザラだった。ヘブンズロードとはよく言ったもので、油断すると本当に天国に行きかねない。
俺は転ばないよう道の真ん中を慎重に歩く。そこには既に誰かが踏み抜いた足跡があって、俺は影のようにそれに追従する。
足跡だけ見て歩いていると、いつの間にか藪の方に誘われる事があった。どう見ても埋まってしまう場所なのに、綺麗に藪の奥まで足跡が続いているのだ。一度だけ気付かずに踏み抜いてしまって死にかけた事がある。あの時は赤ら顔のゲンさんがロープで助けてくれたっけ。毎日飲んだくれているけど相当な力持ちで、いざという時に頼りになるんだよな。
それからは、どれだけ吹雪の日でも時々顔を上げるようにしている。
「ふう、ふう…先は長いなあ」
ようやく半分は超えた頃か。俺はその場に立ち止まると、鉛色の空を見上げた。吐く息は白い雲となって空へと登っていく。
以前の俺なら詠人の言葉なんて笑って一蹴していただろう。仕事から離れて初めて、仕事を宗教だという詠人の考えもわかる気がした。体が壊れるまで会社のために尽くして、それが当然だと思って疑わない。なぜ?周りも自分と同じだから。無職は恥ずかしい事だから。会社や社会を神と崇め、盲信的に付き従う様はまさに信仰そのものだった。
「つめたっ」
大粒の雪が俺の頬に当たる。山の天気は変わりやすく、あっという間に吹雪になったりする。周りには目印がないので、吹雪くと簡単にホワイトアウトしてしまう。実際、ここに越してきた住民でも慣れない内に遭難して行方不明になった人もいると聞く。本降りになる前に山を降りなければ。俺は役場へと急いだ。
しばらくして、ようやく村のど真ん中に役場の建物が見えてきた。何とか吹雪になる前に辿り着く事が出来て、俺は心底安堵した。
さすが自然との調和がテーマのリゾートだけあって、関連する建物は全て主張しない色で曲線を取り入れた造形になっている。それに対し、役場だけは何故か周囲に溶け込ませる気が全くない黒く箱型の造りになっていた。遠くから見てもそれと気づくほどの圧倒的な存在感。どう見ても巨大な棺桶にしか見えないんだよな。リゾート計画が頓挫した今も彼らは無言の訴えを続けているのかもしれない。
俺は全身についた雪のかけらを緑色のマットの上で丁寧に落としてから役場へと出棺した。降り続く雪と大量にかいた汗のせいで、もう身体の外だけでなく、パンツの中までべちゃべちゃだった。
「はああ…。生き返るなあ」
新しい役場は暖かく、新築特有の木のいい匂いがした。薄暗く少しカビ臭いホテルとは大違いだ。
役場は総務課、観光課、建設課、住民課、福祉保険課の5つからなる。それぞれさらに細かく担当分けされている訳だが、俺が今から行くのは観光課だ。中の雰囲気は特段普通の役場と変わらない。だが、夜染の住民は少ないのに、特に新たな事業を始めたりするでもない。観光課はホテルに住民を誘致している以外、全くと言っていいほど何もしていない。強引に立ち退きをさせたにも関わらず事業は失敗し、それにより村には国から多額の賠償金が入ったと詠人から聞いた。
彼らはきっと、戻ってきた本当の村民の生活の維持管理だけで満足なんだろう。その証拠に夜染には教育機関や保育所の運営や整備をする部署は存在しない。現在の村民は中年や老人ばかりで、子どもは一人もいないらしい。村を存続させて発展させようという気がないのは一目瞭然だ。この村は、ゆっくりと死に向かっている。
観光課は入り口から一番奥にあるため、途中様々な部署の前を横切らなければいけないのだが、少し気が重かった。何せ職員は談笑するでもなくみな俯いて自席でただじっとしていて、人が通っても顔も上げない。職員はそれなりにいるのに、役場の中は酷く静まり返っていて、俺の足跡だけがこだまする。
役場の内装や照明が明るいだけに、職員の影がより一層濃く見えた。
観光課の窓口に着くと、一応彼らに挨拶をする。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
けれど、誰一人返事をしない。それどころかこっちを見向きもしない。もう毎度のことでわかってはいるけど、やっぱりこの扱いら慣れないな。
俺が高校生の頃、自分のクラスにイジメはなかった。良いクラスだと周りから言われていた。でも、実際は違った。例え悪気がなかったとしても、空気にされるということは存在を消される事に等しい。上手く輪に溶け込めない人間は、勇気を出して自分から声をかけるしか道はないのか?
まあ、その時間に沢山勉強する事が出来たお陰で大学受験も成功したし、彼らを特に恨んでもないけどね。
もう過去を振り返るつもりはない。俺は苦い思い出を振り払うと、観光課のカウンターの脇にある掲示板を確認する。
「ドローン宅配ルート一覧」
「第13回鎮魂祭のお知らせ」
「雪崩にご注意を」
「影鳥の駆除について」
掲示板には様々な情報が貼られていて、その中に俺の求めている情報もあった。端っこに「ヘブンズロード夜染関連」と印字されたA4の紙が貼られている。
今週の仕事は下記のとおりです。興味がある方はご自由にどうぞ。
・地下倉庫の棚卸し
ホテルの住民に斡旋される仕事は誰でも出来る雑用程度のものだったが、人の扱いまで雑なのは何とかしてほしいものだ。
とはいえ強制されてるわけでもなく、俺がやりたくてやっている事だ。詠人然り、大抵は一度やればもう誰もやりたがらない。俺みたいに何度も繰り返しやる者は稀らしい。それでも俺が止めないのは働かずにこの村に住んでいることへの俺なりのけじめのようなものだった。
俺は書かれている地図を頭に入れると、地下倉庫へ向かった。その間に再び様々な課を横切ったが、勿論誰も見向きもしなかった。こんな市民対応で苦情は来ないのだろうか?
ああ、そういえば、一人だけいるか。実は夜染にはヘブンズロード夜染担当の職員がいる。それが目の前にいる住民課の#上寺御仏__かみでらみほと__#その人だった。
毎週金曜日の仕事斡旋日は、業務場所の前でパイプ椅子に座りながら手持ち無沙汰に俯いている。もうお馴染みの光景だ。今や俺以外誰も利用しないのだから、実際暇なんだろう。
「おはようございます」
「おっ。ざいまうっ」
彼女は俺を見るなり顔を歪める。一応挨拶は返してくれるのだが、吐くのを懸命に堪えているのか全く言葉になっていない。さっきまで血色の良かった顔が一瞬で顔面蒼白になり、口をへの字に歪ませて額に脂汗までかいている。
「すみません、作業させて貰います」
彼女は無言で地下倉庫の扉を開けると、すぐにその場から走り去った。
「おうえええええええええ!」
遠くで盛大に嘔吐する声が聞こえる。
彼女は誰と会ってもそうなるらしい。これが俺だけなら立ち直れないくらい凹むのだが、誰にでもとなると、もしかしたら対人恐怖症でも抱えているのかもしれない。だとしたら人事の配置が酷すぎると思うのだが…。
俺は心の中で彼女に謝罪しつつ、今日の作業に取り掛かった。
地下倉庫は10畳ほどの広さで、壁を取り囲むように3段の棚が配置されている。棚には底の深い形のダンボールがぎっしりと積まれていて、各棚の端に「あ」~「わ」の紙が貼理つけられていた。よく見ると入りきらなかったのか下に無造作に置かれているものもあった。
「よし。数えるついでにスペースの確保といきますか」
俺は気合いを入れて腕まくりをすると、乱雑なダンボールを一つ一つ移動させていった。
前職が庶務だったから、こういった雑用はある意味ではお手の物だ。ただの雑用の為に時間内は勿論、時間外や休日だって当たり前のように出勤してたっけ。それを普通と思っていたあの頃の俺からしたら、今の生活は耳を疑うことだろう。
「ふー…結構重いな。何が入ってるんだろ」
てっきり書類が入っているものだと思っていたが、動かすと中からかちゃかちゃと陶器のような音がする。段ボールも普通より高さがある所を見ると、何らかの備品が入っているのかもしれない。
しばらく作業していると、いくら頭では機械のように正確に同じ動きを繰り返していても、段々と体の方が追いつかなくなってきた。久々の力仕事だったので、俺の腕がもう限界を迎えていた。全身汗だくで背中がぐっしょりと濡れている。だが、手を休めると途端に身体中に鳥肌が立ってしまう。
ここが地下だからなのか、暖かい執務室と比べてこの場所はやけに寒かった。蛍光灯も青っぽく、倉庫の中は全体的に薄暗い。
「よし、大体並べ終わったな。あとは…」
床に置きっぱなしのものを棚に詰め込んだら終わりだ。改めて腕時計を見ると、もう作業開始から1時間が経っていた。
「昼までに何とか終わらせるか」
俺は敢えてそう口に出すと、ギアを上げて下の段から順番にダンボールを空きスペースに押し込んでいく。
最後のダンボールを担ぐように持ち上げた時、腕に思うように力が入らずバランスを崩して思わずそれを落としてしまった。
「しまった!」
がちゃがちゃと陶器が何度もぶつかり合い、最後はがしゅああんと派手な音を立てて床に激突した。
「うっ」
結構な高さから落ちたのだ、割れてないといいのだが。落下音以外にも何か声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
俺は段ボールの中身を急いで確認した。開けてみると、中には木の小箱が2個入っていた。
「しっかりとした箱だな」
俺は中身が割れてないことを祈りながら木箱を開けた。
果たして木箱の中に入っていたのは白い筒状の陶器だった。上にはドーム型の蓋が付いている。もしかして、この形は…。
何だろう、目の前の陶器は開けない方がいい。そんな予感がする。幸い陶器は割れていなかった訳だし、わざわざ蓋を開ける必要はないだろう。何せここはやけに寒い。でも中身を確認して、割れていたなら謝らないと。俺は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。そっとしておいた方がいい。だって、中から声が。もう過去は振り返らないはずだ。でもあの声、何処かで。
開けろ、開けるな、開けろ、開けるな。俺の中の蓑虫人間が右へ左へふらふらと。そうだ、蓑虫人間だ。枯れ枝の誰かの声。あの落下した後の嬌声。頭の中の蓑虫人間が一気に右へ振り切れる。その瞬間、俺は取り憑かれたように陶器の蓋に手をかけて…。
「終わりましたか?」
「うっ」
驚いて手を止めて振り返ると、いつも死にそうな顔の彼女が、無表情でこちらをじっと見つめていた。
「あ…はい、この箱で、終わりです」
全て、見られていたのか。普段はこっちを直視できない筈なのに。
「そうですか。では後はこちらでやっておきます。お疲れ様でした」
彼女は俺に退室を促すと、少しだけ中身を確認して何事もなかったように開けられた段ボールに封をした。彼女がまともに日本語を話しているのを俺は今初めて聞いている。
「えっと…。お疲れ様でした」
何も言われないという事は、とりあえず中身は大丈夫だったんだろう。俺はそう言い聞かせて足早に地下倉庫を後にした。
「残念でしたね」
後ろから彼女の声が聞こえてきたような気がした。
ホテルへの帰り道は、登り始める前から雪が降りつけていて視界が悪かった。俺が朝付けた足跡も既に雪に埋もれて見えなくなっている。まだ昼間なのに外は真夜中のように暗く重い。
山登り用のトレッキングブーツを履いているとはいえ、雪が積もると登りは特にキツかった。
「嫌でも鍛えられるね」
一歩登るごとにべた雪に足を取られ、俺の体が悲鳴をあげる。まだまだ先は長いと言うのに、こんなんで大丈夫か、俺。
それにしてもあの重い荷物…。中に入っていたのが何なのかは結局分からずじまいだったな。形状はどう見ても骨壷だったが、よくよく考えたら明らかにそれの重さではない。おまけに倉庫が満杯になるほどの量だ。少なく見繕っても50体はあった。歴代の村民を祀るにしては地下倉庫の内装は簡素すぎる。かと言ってこの村が誰でも受け入れるような納骨堂を運営しているとは考えにくい。あの時感じた冷たい空気もきっと俺の思い違いな筈だ。ただ…。
「何が、残念だったんだろうな」
蓋を開けられなくて?仕事を終わらせられなくて?それとも、俺が無事に帰る事が?
わからない。役場での仕事の後はいつもこうだ。すっきりとした気分で終えられた試しがない。
「はあ…」
もやもやした感情が、白い煙になって空に舞っていく。
わからないといえば、この散歩道は一体誰が管理しているのだろう。どれだけ雪が降っても、いつも寝て起きたら綺麗に除雪されていた。この道を利用するのはヘブンズロード夜染の住人だけだ。あの暗い役場の職員が他所者の為に行動するとはどうしても思えなかった。
ぎゅむぎゅむとまとわりつく雪を踏み潰しながら、俺はひたすらホテルを目指す。左右に聳え立つ木々は枝に思い思い雪の葉を纏い、芸術的なまでの作品に昇華されている。
「圧巻だよなあ」
まさか仕事以外特に趣味も楽しみもなかった俺が、道端の枯れ木に感動する日が来るなんて。
おっと、そうやって見惚れて道を踏み外すと、手痛い目に合うから気をつけないといけない。ほら、今も危うく散歩道から外れる所だった。降り積もる雪は散歩道とそれ以外との境界を曖昧にする。風が少し吹くだけで、地吹雪で忽ち前後不覚に陥ってしまう。
「ん?あれは…」
少し先の木の側に、何かの影が見えた。ほら、あそこに。目を凝らすと、辛うじて女性である事がわかった。顔は朧げだが、小顔で高身長、遠目ではかなりの美人のような気がした。この道にいるということは、新しく越してきた住民だろうか?俺の住むホテルは訳ありが多く入れ替わりが激しいので、新しい住民にいきなり遭遇するのもそう珍しい事ではない。誰もが源さんや鈴さんのように、社交的ではないのだ。そう、いつも毒を吐く詠人ですら、ここではフレンドリーな部類に入るだろう。大半はいつの間にか入居して、いつのまにか退去しているのだから。
女は枯れ木の影からじっとこちらを見つめている。よく見たらあの女、何処かで…。
「うっ」
突然後頭部に激痛が走る。なんでこのタイミングで頭痛が…。俺が頭痛になる時は、必ずトリガーとなる何かがある。今は寒くて吹雪いているが、何もおかしな事なんてないのに。
俺は脳を擦り潰される程の痛みで立っていられなくなって、その場に倒れ込んだ。ぼふりと雪の絨毯が俺を受け止めて、その衝撃で舞い上がった雪の結晶がきらきらと辺りに降り注ぐ。
俺の体は半分雪に埋もれていた。ひんやりとした感触が痛みを麻痺させて、代わりに眠気を誘う。
…いや、待てよ。俺は沈みゆく意識の中である事に気がついた。女の…立っている場所…。あそこは深い藪だ。踏み抜いたらそれこそ、腰まで埋もれてしまうような。行ける訳がない。何処かに俺の知らない獣道があるのか?時々、足跡だけ見つかるんだ。まっさらな雪の上に点々と。絶対に行けないような場所に。
びょおおおと辺りに強い風が吹き、俺の視界は完全に真っ白になった。
「はあはあ」
スーツ姿の男が冬の山道を駆け登っている。真冬なのに帽子や手袋はおろかコートすら着ていない。随分と場違いな格好だなと俺は思った。男は勝手に動いているが、どうやら意識だけは共有しているらしい。
男は時折怯えたように後ろを振り返るが、勿論そこには何もいない。
「リゾート建設反対!」
「余所者は今すぐ出て行け!」
荒々しい立て札が道の両脇を囲むように乱立している。山の上まで続いているとすれば、その数は千は下らないだろう。村民のすくなさを考えれば異常な数だ。
「うぐうっ」
重たい雪に足を取られたのか、男がその場に倒れ込む。早く起きないと。急がないと奴らに追いつかれてしまう。体は動かせないが、ざわざわと焦りのような感情が俺の中で蠢いていた。男は何とか起き上がると、凍える手足で再び山道をかけ登っていく。
『守り神の祟りを受けよ!』
『祠を壊した報いだ!』
上に行くにつれて立て札の内容がより過激になってきた。黒インクで手書きされていた文字も、段々と赤茶色に変わっている。
「いいいいい」
男の手足の指は真っ赤に腫れ上がり、見るからに酷い凍傷を負っていた。限界を超えた寒さのせいで、口から言葉にならない声が漏れ出ている。ここはきっとヘブンズロード夜染へ向かう道だ。俺は直感的にそう思った。だとすればもう少しでホテルに着くはずだ。後少し耐える事が出来れば、暖かい暖炉が男を迎え入れる事だろう。
だが男の体はもう限界だった。歯の根は合わずがたがたと音が鳴り続け、歩行もよろよろと覚束なくなってきていた。幸い雪は降っていないが、時折体中に吹き付ける地吹雪が男の芯まで凍らせた。夜染の寒さは相当なものだ。ただのスーツだけではこの氷点下の世界は生き残れないだろう。
男はそれでも懸命に足を前にだす。ホテルにさえ着けば暖を取れる。迫り来る何かから逃げることが出来る。男は何度も後ろを振り返る。辺りに人影はないのに、何度も何度も振り返る。大丈夫、まだ来ていない。だから早く。早く前へ。
雪の重みに耐えきれず、横にあった枯れ木の枝が唐突に大きな音を立てて折れた。突然のことにパニックになり、男は足がもつれてその場に倒れこんでしまった。すぐ立ちあがろうともがくが、体に力が入らない。男は最後の力を振り絞り、雪の中を這いずりながら何とか脇に生えている太い木に体をもたれ掛ける。
少しだけ休憩しよう。そうすればまた動けるようになるはず。だが男は一向に立ち上がらない。張り詰めていた緊張の糸が切れ、遂に男はその場から動けなくなってしまったのだ。あと少し、あと少しなのに。もどかしくも男と同化している俺にはどうすることもできなかった。
ふと横を見ると、道の両端は血文字で書かれた立て札で埋め尽くされていた。
『愚かな人間を捧げよ』
『愚かな人間を捧げよ』
『愚かな人間を捧げよ』
ペンからインクが滴り落ちるように、辺りの雪が少しずつ赤く染まっていく。
生への執着がなくなったからか、男は穏やかな顔をしていた。例えそれが今際の際に見る幻だったとしても、男は今恐怖から解放されて安堵している事だろう。
なんだか俺まで意識がぼんやりとしてきた。寒空の下なのに、ここはなんて暖かいんだろう。きっと、この男はここで死んだんだろうなあ。俺は幸福に包まれてそのまま目を閉じた…。
ざくっ。どのくらい経っただろうか。暗闇の中で、足音が聞こえた。ザラついた雪を踏み抜く音だ。辺りの空気が途端に張り詰め、沈みかけていた男の意識が一気に現実へと押し上げられる。
「あ…あ…」
突然男の表情が恐怖で歪み出した。だって、誰もいないのに雪の上に足跡が。
ざくっ。ざくっ。ざくっ。
来た。来た。アイツだ。足跡は男を取り囲むようにしてゆっくりと近づいてくる。少しずつ、少しずつ狭まってくる。空気が粘りつくように重く、俺は息苦しくなって不恰好に喘ぐ。立て札の向こう側はもう足跡で埋まってしまった。これでは逃げられないじゃないか。
立て札を乗り越えて、遂に足跡が男の前で止まった。男の喉から不恰好な口笛のようにヒューヒューと乾いた音が鳴り、心臓が張り裂けんばかりに激しく脈を打つ。身体中のありとあらゆる箇所が痛みだすが、原因は寒さではない。死の間際に呼び起こされた生存本能が、死んでも逃げろと男に警鐘を鳴らしている。
目の前に、何かがいた。見えないけれど、確かにそこにいる。もういいだろう?俺は目の前の何かに語りかける。どうせこの男はもう助からない。ほら、裸足で山肌を駆け登ったせいで手足の指はこんなに真っ黒くなって取れかけているし、もう目だって見えてるんだかわからない。せっかく穏やかに最後を迎えるところだったのに、何も死の間際にこんな苦痛を与えなくたっていいだろう。なあ、どうか男を安寧のうちに死なさせてやってくれ。
俺の願いも虚しく、何かは男に#侵入した。__・__#
「おごお」
男の口が意思に反して開かれ、口の中に何かが溶け入ってくるのを感じた。どろっとした粘膜状のものが食道をゆっくりと落ちていく。
「んっ…かっ!ううあぁ…」
喉にべっとりと張り付くせいで息ができない。ずるりと這っていく度に、男は苦悶の表情で悶えている。
おや、何だか喉が暖かい。まるでホットココアでも飲んでるみたいだ。寒い日に飲むココアは最高だね。おっと、慌てずに。一気飲みすると火傷してしまう。あち、あちちっ。
喉が焼けるように熱い。ああ、熱い。熱い。熱い熱い熱いアツいいいいい!
それはじわじわと男の全身に広がっていった。熱さが臨界点を超えると、今度は段々くすぐったくなってきた。
「あひっ!あひひぃ…!かゆっ、かゆうううう」
脳内をごそごそと何かが這いずり回っている。っはははははははっ!こりゃあ堪らん。俺はシャンプー台に乗せられて美容師にかゆいところはないですか?と聞かれている。もっと右脳を掻いてくれ。ああそっちじゃない。そうそうそこそこ。もっと強く描いてくれ。もっともっともっと!うああキモチイイキモチイイ。あ、海馬も忘れずに。
俺の中に何かの感情が大量に流れ込んでくる。これは、この黒く渦巻くものは、怒りだ。途方もない怨嗟が男を絡め取る。こんなもの、1人の人間には受け止め切れない…!そう思った瞬間、男の中で何かが弾け飛んだ。
「うあー?」
男は涎を垂らしてびくびくと体を震わせていたが、しばらくするとぴたりと動きを止めた。男の両目が別々な景色を映し出し、それぞれが忙しなく動く。まるで試運転をしているようだ。男の体の感覚を掴むための予行練習。何度目かの回転運動の後、男の両目の焦点がしっかりと合わさった。その瞬間、男はさっきまで死にかけていたのが嘘のように勢いよく立ち上がると、ホテルまで全速力で駆け出した。走っている最中は赤子のように首が揺れ、俺は酔って吐き気を堪えるのが大変だった。ただでさえ頭の中が痒くて痒くて堪らないというのに。
さっきまでの苦労が嘘のように、男は瞬く間にホテルまでたどり着いた。ロビーに入るとすぐに大きなシャンデリアの柔らかい光が男を迎え入れる。辺りを見回すと、棚にある調度品はどれも見るからに高価そうで、床には全面ペルシャ絨毯が敷かれている。かつて華やかだった頃のホテルをもっと見ていたかったが、男はそれらには脇目も振らずにエレベーターまで向かって行った。
男はこの場所では存在自体が異物だった。あちこち擦り切れたスーツを引き摺りながら、赤黒く変色した手足をものともせずに進んで行く。途中静止してきたドアマンには男と同じ目に遭ってもらった。男の中身は今やもう別な何かに変わってしまっていて、そしてどうやら俺もそうなりつつあるらしい。仲間が増えることは不思議と喜ばしかったのだ。
男は33階で降りると一際豪華な金の意匠が施された扉に手をかけた。握りしめた手は黄色い液体にまみれ、ぐじゅりと嫌な音がした。扉の外からでもわかるほどの重低音で地面が揺れている。僅かな隙間からダンスミュージックが漏れ聞こえてくる。男が勢いよく扉を開けると、ドアノブには男の手の皮が一緒になってへばりついた。
フロアの中は混沌としていた。暗闇の中で照明やレーザー光線が激しく明滅し、人々は音楽に合わせて狂ったように踊っている。招かれざる男が来たというのに、誰一人見向きもしない。群れ全体で楽しんでいるようで、その実自分が楽しむ事しか考えていない。その間に男はゆっくりと勢力を拡大し、遂にフロアに居る全員が何かを飲み干した。同じようにぴたりと動きを止めると、全員が眼球体操の後で一斉に動き出す。彼らは嬉々として天井部分にあるライトの梁に適当な紐をかけると、次々と蓑虫人間へと変態した。紐に全体重がかけられて首の骨が折れ、気道が塞がれても彼らは苦しむそぶりすら見せずに笑っている。わかるよ。とっても痒くて気持ちいいからなあ。自然と顔が笑ってしまうんだ。
音楽に合わせてフロア全体にギシギシと軋む音が響く。それはもちろん俺自身も例外ではなく、朝起きたら顔を洗うように自然な動作で紐に首をかける。両手はもう使い物にならない筈なのに、その動作に少しの澱みもない。体の中から何かが男を支えている。今手を離せば、晴れて俺も蓑虫人間の仲間入りだ。それはとても魅力的な事に思えて、俺は躊躇うことなく手を離した。
「うわあああ!」
「大丈夫、大丈夫ですよ、ここはお家ですトムさん」
飛び起きた時、目の前に居たのは鈴さんだった。ふわりとした柔らかな感触と、包み込むような甘い匂いが俺を落ち着かせた。
「はあ、はあ…鈴さん?俺は…」
どうやらここはホテルらしい。ロビーの長椅子で、俺は鈴さんに膝枕されて頭を撫でられていた。夢の世界に浸り過ぎて、現実に戻ってきてもどこか違和感がある。
それはそうと、俺がさっき見た映像は、本当にただの幻覚なんだろうか。以前詠人から聞いた話では、夜染のリゾート計画はある時点までは順調だったらしい。村民達の反対に合いながらも、国をバックにつけた豊富な資金力で強引に立ち退きや取り壊しを進め、遂にリゾート施設は完成された。施設は自然との融和をメインテーマとして、村の中心部の広大な土地を余す事なく活用している。夏は雲海にゴンドラ、ゴルフ、プール、アスレチック、サイクリングが楽しめ、理想的な雪質と降雪量から冬は山肌がスキー場に早変わりする。豪華なホテル(今は埃まみれで見る影もないが…)やレストランも完備され、夜染村は多くの観光客で賑わう筈だった。
ところが、全て完成された直後に住民達の激しい抵抗にあって計画の中止を余儀無くされたという。巨額の資金が投じられて、何故そんなタイミングで…。
その答えが、あの幻覚だったとしたら。もしかして、#完成するまで待たされた__・__#のか?恨みを溜に溜めて、人が大量に集まるお披露目パーティーを狙った…。そうだとすると、このヘブンズロード夜染は大量の人柱によって維持されている事になる。だが、何のためにそんな事を。そうだ、あの役場の地下倉庫にあった骨壷は、もしかして…。わからない。まだ後遺症が治っていないせいか、上手く考えがまとまらない。俺の考えなんて結局は陰謀論に過ぎない。この村に祠なんてないし、道祖神の話なんて聞いた事もない。
「おいトムう、そんな難しい顔して大丈夫かあ?俺らの事も忘れんなよお」
半ば放心状態だった俺は、声をかけられて初めて鈴さんの両脇にも誰かが居る事に気づいた。それは赤ら顔の源さんと、相変わらず不機嫌そうな詠人だった。
「ご、ごめん鈴さん!」
落ち着いたらこの状況が急に恥ずかしくなって、俺はその場から慌てて飛び起きた。
「いえいえ。落ち着いたなら良かったです。慌てない事が狼を見抜く鍵ですよ」
「全く、ぼーっとしてないでさ、みんなに助けてもらったんだから、まずお礼くらい言ったらどう?」
ああ、なんかみんなの顔を見ていると相変わらずで安心するなあ。そんな気が緩んだ俺の様子を見てか、詠人の顔がますます不機嫌になる。
状況を整理しないと。俺は確か、仕事を終えて雪が降る中ホテルに帰っていた。その途中で急に副作用の頭痛が出て…。そこで倒れたのか。
「またみんなに迷惑かけちゃったのか…。源さん、詠人、鈴さん、いつも助けてくれてありがとう」
いつだったか今回みたいに後遺症の頭痛でロビーで倒れた事があって、その時もみんなが助けてくれたんだっけ。ここの住人は訳ありかもしれないが、みんな暖かくて優しい人たちばかりだ。
「なーに、礼ならあそこにいる坊主に行ってくれや。俺はただ担いできただけだからよ」
冬の山道を大の大人一人を担いで登ってこれる時点で十分すごいと思うのだが。
「坊主?」
源さんの指差す方を見ると、ロビーの奥に置かれた卓球台で、若い母親と小さな男の子が楽しく卓球をして遊んでいた。あれは…ササキ親子だ。普段滅多に会うことがないので、一瞬誰だかわからなかった。
「まさか、あの親子が…?」
「ああ、坊主の方が外に人が倒れてる!って叫びながら勢いよくホテルに入って来てよ。それから母親が事細かに場所を伝えてくれたお陰で俺が吹雪の中でも無事トムを見つけられたってわけだ」
俺は思いがけない人物の登場に少々面食らった。彼らには人助けをするイメージが全くない。偶に見かけてもロビーにいる住民とは決して打ち解けようとせず、声をかけても無視して避けて通るような母親だ。男の子の方もいつも俯きながら黙って母親のあとをついていくだけ。そうした普段の行動からは猛吹雪の中で人命救助する姿が想像できないが、源さんが言うことだから間違いはないだろう。
自分に余裕がない時ほど人間の本性は剥き出しになるものだ。
会社員時代は思いやりある社員は皆無だった。自分も含めてね。誰もが仕事に追われ、栄養ドリンクを握りしめながら今日は会社の何処で寝るのかを考えていた。許容量を超えるストレスを受け続けると、普段優しい人間ですら自分を優先してしまうものだ。酷い者は下の人間を虐げたりもする。
だから見るからに余裕のなさそうなササキ親子が猛吹雪の中で子連れながら俺を見つけ、更に助けまで呼んでくれたというのは頭の上がらない思いだった。
「ならあの親子は命の恩人だ。俺、ちょっとお礼しに行ってくるよ。とにかく源さんもみんなもありがとう!」
俺は源さんたちに礼を言うと、ササキ親子の元へ向かった。
「ねえねえ、こっちに来るよ。今回もダメだったのかな」
「さあ、どうかしら。こればかりは自分で自覚しないと」
二人は卓球をしながら何やら楽しそうに会話している。あんなに笑顔のササキ親子を見たのはこれが初めてな気がする。
「…あの、あなた達二人が俺を助けてくれたって聞きました。本当にありがとうございました」
「僕が呼んできたんだよ!ね、偉いでしょ!」
俺が謝意を伝えると、恐竜がプリントされたトレーナーを着た活発そうな男の子が、目をキラキラさせながら俺に駆け寄ってきた。よく見ると腰には何かの変身ベルトらしきものを着けている。
「ああ、君は僕のヒーローだよ」
「やったあ、ヒーロー!僕ヒーローだ!シャキーン!」
男の子はヒーローに憧れているようでら興奮して当たりを飛び跳ねている。
「とんでもない、あなたには感謝してもしきれない恩がありますから。これで返せたとは思いませんが、少しでも力になれて良かったです」
そう言ってササキ母は優しく笑った。この母親は、いつもこんなに明るかっただろうか。
「いえ、こちらこそ…。それに恩だなんて大袈裟ですよ。あの時は雨が降りそうだったから、ただ」
ササキ母は俺の話を遮って矢継ぎ早に喋り出した。
「あの時あなたが追いかけて来てくれなかったら、私たちは今頃深い藪の中の暗闇に埋もれていました。あの時掴んでくれた手、かけてくれた言葉、私たちは一生忘れません!」
「あ、いや、そんな…」
ササキ母は会話の熱量そのままに距離をぐいと縮めてきて、俺はその勢いにたじろいだ。初めてササキ母の顔を間近で見たが、黒目が大きく瞳は驚くほど濁っていた。感謝の言葉とは裏腹に、目は全く笑っていない。どうもセリフと顔の表情が合っていない気がする。
そもそも俺はこの親子を死の淵から助けたことなんてあっただろうか。いつだったかササキ親子の思い詰めた様子が心配になって後を追ったことがあったけど、その時は結局俺の勘違いで終わったはずだ。いや待てよ、あの時2人が深い藪に入るのを俺が止めたんだったか…?後遺症が見せる夢があまりにもリアルなせいで、俺にとって夢と現実の境界は曖昧だった。過去を思い返した時に実際の体験だと思っていた事でも、後からあれは夢だったと気づくことが良くあった。俺はなんとなく居心地が悪くなって話題を変える。
「そう言えば、よく倒れている俺を見つけられましたね。さっきはかなり吹雪いていた気がしましたが」
吹雪の雪山で埋もれている人間を発見するなんて、余程注意深く周りを見ていなければ無理だろう。まして子連れでなんて。
「女の人がすれ違いざまに教えてくれたんです。もうすぐ地面に宿木吐夢が埋まっているから、掘り出してあげてって」
「女の人…?」
ー優先するのは私。
不意に眠っていた記憶が呼び起こされる。
「あら、ご存知じゃないんですか?呼び方がすごく親しそうな感じだったので…」
ーちょっと聞いてるの?
懐かしいようで酷くうんざりする声。
「身長が高くて髪の長い…」
頭の中にぼんやりと女の姿形が浮かんでくる。
「そうそう、その方です。すごく綺麗で目立っていました。やはりお知り合いだったんですね」
どうだろう、俺にそんな知り合いはいない筈なのだが。
「新しく越してきた方でしょうか」
「もしかしてモデルさんや女優さんの卵ですか?」
「そう言われてみればどこかオーラがありましたね」
目の前のササキ母は相変わらず死んだ魚のような目をしながら話しを続けている。
「どう…でしょうか」
俺が戸惑っている内に会話がどんどん先に進んでいく。俺を置いていかないでくれ。
「トムはよお…」
ふと後ろで自分の名前が聞こえて振り返ると、源さんと詠人が何やらヒソヒソ話をしている。俺の話をしているんだろうか。俺はササキ母に適当な相槌を打ちながら意識を源さん達の会話に集中させる。鈴さんはどうやら部屋に戻ったようだった。
「少し…の記憶が…」
「まあ…亀の歩みだけど」
「がはは、違いねえ」
だが、離れているせいか途切れ途切れにしか聞き取れない。わざわざ小さな声で何を話しているんだ?しばらくすると彼らは踵を返してそのままゆっくりとロビーの奥へと消えていった。
源さんたちが帰ると一気に疲れがでて、全身が鉛のように重たかった。今日は本当に色々あった。一度部屋に戻って少し頭の中を整理したいところだ。
俺は改めて礼を言おうとして、いつの間にかササキ親子が目の前から忽然と姿を消していることに気づく。
「あ…ありがとうございました」
ロビーに俺の声が虚しくこだまする。それに呼応するものは勿論誰もいない。さっきまで確かに目の前にいたはずなのに。意識を逸らしたのはほんの数分のことなのに。
どこまでが現実でどこまでが夢なのか、俺にはもうわからなくなっていた。
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