あなたのいない街で、私は

嵐君が、あの……燕さんという人と屋敷の人間の目を盗んで外に出た時、嵐君はもう戻って来ないのかもしれない様な気がして、私は寂しいと思った。だけど追うつもりはなかった。彼は、多分。この屋敷をなるべく巻き込まない為に何も告げなかった。少なくとも、そう信じたい心が私の中にあった。


名残惜しむように彼の走り去った石畳の上に立って、この屋敷で一番大きな桜の樹を見つめる。彼が来たのは、一年前の、この桜の葉がまだ青々と茂る頃だった。今、葉は枯れ落ち、頬を撫でる冷たい風に思わず身を震わせる。その時、何か軽い物が靴に引っかかる音がした。宛名も差出人の名前もない、くたびれた封筒の中には色褪せた文字の手紙がある。

持ち主に申し訳ないと思いながらも、一応中身を確認する。そこには、父から息子に宛てた思いが綴られていた。


〈拝啓

少し早いが、誕生日おめでとう。この様な佳き日に君達の側にいられないこと、どうか許して欲しい。私達はもうすぐ、マルセイユ行きの船に乗る。随分と長い航海になりそうだ。

さて、こうして筆を執ったのは、大人に成り行く君という私のただ一人の息子に、いつか言おうと思っていたことを伝える時期だと思ったからだ。そうは言っても、肩肘を張る必要はないから、身構えなくていい。それから、これは飽くまで私の身勝手な願いであるから、君が人生の岐路に立ち、重荷となるのであれば、どうかこのことは忘れて欲しい。


もし、私達に何かあった時、家族をどうか、支えてくれ。南は私に良く似ているから、時々なりふり構わず無茶をしてしまうだろう。唯光は辛いこと、悲しいことを決して口にしないだろう。燕はきっと、多くの大切なものを失ってきたのだろう。彼らの心を、どうか守ってやって欲しい。それは多分、君にしか託せないことだ。

君は、小さな頃から自分自身を卑下しがちだが、私はそんな君を心から誇りに思う。どうかそのことを忘れないで欲しい。では私達の不在中、皆を頼む。父より


追伸、この間の写真を現像しました。各々手紙と一緒に同封してあります。身体に気をつけてね。母〉


結局末文まで読んでしまい、罪悪感を感じながらも、手紙の持ち主が誰なのか、なんとなく分かった。燕、唯光。どちらも嵐君の口から聞いた覚えがある名前。確信に変えるため、封筒の中に残っていた写真を見る。

もうすっかり劣化し、褪せてしまっているが、それは家族写真だった。三人の子供。うち一人は今より少し幼い顔の嵐君。その隣に穏やかに微笑む小さな女の子と、嵐君に背格好も顔つきも合せ鏡みたいによく似た女の子。子供達を見守る様に後ろに立つ両親らしい人、それから、燕さんという人。

見ているだけでもわかる。この瞬間、写真の中の彼らは間違いなく幸せだったのだ。

だけど、この屋敷に嵐君が来た理由は……それを考えると、胸が締め付けられる様に痛い。

衝動的に私は走り出す。嵐君にこれを返し、読んだことを謝らなくては。確信はないけれど、今殺気立ったこの街の中で、二人が行く場所はきっと限られている。



軍人に見つからない様、生まれ育った街を、生まれて初めて人目を盗みながら走る。そうして神社の石段を登り切ろうとした時、私は見知った声を耳に捉えた。……どう誤解されても仕方のないことだけれど、私は決して、立聞きなんかするつもりはなかった。


──唯光は、死んだんだろ

──オレは、父さんみたいにはなれないんだな


嵐君が何も言わずに去った理由が明白になって、だけど私は彼らがこれから犯す罪よりも、嵐君の言葉がこだまして消えてくれなくて、どうしようもなく悲しかった。この一年、ずっと頑張ってきた姿を知っていた。家族を支えんと懸命に働く姿を、私は友人として本当に尊敬していた。努力は、報われるものだと信じていた。嵐君の努力が、彼の守りたいものに繋がればいいと祈っていた。なのに、こんなのあんまりだ。どうしてこんなにも、報われないのだろう。どんな顔で嵐君に会えばいいのか分からずに、足が竦む。

駄目だ。この手紙を、返さなくては。それだけを想って石段を登り切る。緊張で心臓が早鐘を打つ。そうしてやっと重たい首を擡げる。


「……いな、い」


ついさっきまで近くいたはずの彼らの姿は何処にも見えなかった。あと一歩だったのに、ぐずぐずと迷ってしまったせいで、間に合わなかったのか。無力感に襲われて、その場にへたり込む。彼には、もう会うことは出来ないのかもしれないのに。次は絶望感に苛まれた。


「おい、そこの娘。ここで何をしている」


冷たく、地を這う様な暗い声が私に問いかける。多分、今迄の私なら。この威圧的な声にだってありのまま起こったことを告白していたのだろう。彼らが恐ろしいからではない。嘘を吐くことを許せなかったからだ。

でも。私は、嘘を吐いてでも叶って欲しいことを、見つけてしまったのだ。報われない想いなんてないと、証明して欲しいのだ。嵐君なら、それがきっと出来ると思ってしまうのは、あの手紙を読んだからだろうか。


(私にも、叶えたい想いが、敵わない想いがあるから)


男達の怒声もやがてぼんやりと遠のいていく。私の脳裏を過ぎったのは、嵐君の後ろ姿と、遠い日に恋をした、向日葵色の男の子の笑顔だった。


Karen01

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