姉妹

あべせい

姉妹



「だれだ。こんな停め方しているやつは! 車が通れないだろうがッ!」

 軽四ワンボックスカーでやってきたドライバーが、窓から顔を出して吠えている。

 車の左右のドアには、「鹿人設備」の文字が。そこは、道幅3メートルほどの一方通行の道路だ。

 軽四ワンボックスカーの前に、黄色い車体の軽乗用車がハザードライトを点滅させて停止している。

 軽乗用車がもう少し左側に寄せて停車していれば、すり抜けられるのだ。無理すれば通れなくもないが、車体にキズがつく。

「ナニやってんだ! 違法駐車で110番するぞォ!」

 作業服を着たドライバーの貞数鹿人(さだかずしかと、28)が叫ぶが、周囲からの反応は全くない。

 鹿人、腕時計を見ながらイライラ。約束の時刻はすでに過ぎている。たまらずクラクションを鳴らす。

 と、軽乗用車が停まっている目の前の家から、ユニホームらしいアイボリーのジャケットにオレンジ色のズボンをはいた若い美女が現れ、ワンボックスのボディをチラッと見てから、軽乗用車に乗り込む。

 しかし、すぐに発進しない。車の発進手順に手間取っているようすだ。鹿人のイライラは一気に頂点へ。

「オイ、いい加減しろッ! こっちは時間で稼いでいるんダ。ブタ、ブスッ、死んじまえ!」

 鹿人、勢いよくドアを開け、外に出た。

 (女だって、容赦しねえからなッ)鹿人がそう決意して、数メートル先の軽に歩み寄ろうとすると、いきなり、軽乗用車はエンジンを掛け急発進。

 運転席の女は、お詫びの挨拶のつもりか左手を上げて走り去るが、鹿人は小バカにされたような感じを受ける。

 鹿人、舌打ちして運転席に戻り、車を出した。

 50メートルほど走ったところで停止。住宅地図と家々の表札を確かめながら進み右折、まもなく、大きな門柱に目的の表札「外吹(そとぶき)」を確認して車から降りる。

 その家は屋敷と言ってもいい豪邸だが、門は固く閉ざされている。辺りを見まわすが、道路に駐車スペースは見当たらない。道幅は同じ3メートル弱。

「これじゃ、どうしようもない。出直すか」

 鹿人、外吹家の門の脇の潜り戸にあるインターホンを押す。

「水道の修理にうかがいました」

 まもなく、返事があり、10メートルほど奥にある玄関の引き戸が開き、中から住人が現れる。

 アッ!。

 さきほど、鹿人がどなりつけた若い女のドライバーにそっくり。もっとも、運転していたときは化粧をしていた。鹿人は化粧っけのない女性のほうが、好みだ。

 女は、驚いた風もなく、門までやってきて、

「なんでしょうか?」

 鹿人は、怒りを忘れ徐々に引かれていく自分をグッと抑えて、

「水道の修理です。お電話をいただきました……」

「そうでしたわ。すいません。うっかりしていて。どうぞ」

 女がとぼけるのではと思っていた鹿人、意外な感じがして、彼女を見つめる。

 さきほどはしゃれたデザインのユニホーム姿だったが、いまは紺のジャケットに白いスカート。どちらもよく似合っている。

「あのォ……」

 奥に行きかけた女に、鹿人が切り出す。

「すいません。車を駐車したいのですが、どこか駐める場所は、ございませんか」

 女は振り返り、

「ごめんなさい。気がつかなくて。いま門を開けますから、どうぞ、中にお入れください」

 鹿人は、彼女の案内で、門の内側の車寄せに車を停めた。

 そのとき、玄関横から裏庭に通じる石畳みから、車体の黄色い車のバンパーが目に入る。

 やはり、彼女だ。車に乗ると人格が変わる人間がいるというが、車から降りるとあんなに人格が変わるものだろうか……。


 鹿人、台所のシンクの下に頭を入れ、排水トラップを交換している。

 彼の後ろに、車椅子に乗って彼の作業のようすを見守っている老婦人がいる。穏かな表情。

「どうですか? 直りそうですか?」

 鹿人、作業を続けながら、

「もう少しで終わります。このトラップが古くなって、洩れていたンです……」

「この家は、古いから、あちことおかしくなってきて。わたしと同じ……」

 鹿人、シンクから顔を出して振り返る。

 老婦人の屈託のない笑顔に接して、妙に心が休まる。

「終わりました。古いって、築何年ですか?」

「40年はたっているわ。ごめんなさいね。あまりお金にならないお仕事で……」

「奥さま、そんなことはありません。修理の大小にかかわらず、これからもご贔屓に願います」

「いままでは、近くにいる孫娘が修理しに来てくれていたのですが……待って、あの娘は小さいとき、事故に遭って……」

「事故ですか?」

「最近、頭がぼんやりすることが多くて……」

 老婦人は、考え事をするように窓のほうを見つめる。

「そうだわ。事故は、近所で起きたバイクだったかしら……」

「バイク、ですか」

 鹿人はバイク事故に敏感に反応する。

「とにかく、今回の修理は専門の業者の方でないとわからない、って、孫娘が。だから、そちらに電話をかけてもらったわけ」

 老婦人はやっと納得したような表情をする。

 と、老婦人の後ろに、軽乗用車の女が現れ、

「コーヒーが入りましたが、お休みになりませんか?」

 鹿人、その姿を見て、ハッとする。化粧はさきほどと同じくしていないが、門で応対したときとはまるで別人。見違えるような明るい笑顔を浮かべている。胸のふくらみ、腰のくびれも、刺激的だ。

「ハッ、はい、ありがとうございます」

「こちらにどうぞ。鹿人さん」

「ぼくの名前を……」

 と言いかけて、作業車の後ろに張りつけてある自分の名札を思い出す。

 12畳はある広いリビングに通される。

 畳2枚分の細長い大きなテーブルがあり、老婦人と鹿人は短いほうの2辺に腰掛け、離れて向き合った。女が現れ、コーヒーカップをテーブルに並べる。

 老婦人が、彼女を見て、

「ご紹介させていただきます。孫娘の夕美果(ゆみか)です」

 夕美果、老婦人の横に立ち、微笑みながら会釈する。

「いろいろ事情があって、わたしはいま夕美果とこの家で、一緒に暮らしています」

 鹿人、一瞬、何かヘンだと感じるが、すぐにその考えは消え、

「夕美果さん、ですか。ぼくは貞数鹿人と言います……」

 鹿人は夕美果を見つめたまま、思考が停止している。

「鹿人さん……」

 夕美果が鹿人に話しかける。

「はい……」

「さきほどは失礼いたしました。水道の修理のことは、余り頭になかったものですから……」

 鹿人、夕美果の言っていることばの半分も理解していない。

「鹿人さんにきていただいたのは、水道の修理よりも大切な用件があって。むしろ、修理は二の次……」

 エッ!

 鹿人は初めて正気を取り戻す。

「夕美果さん、どういうことですか?」

「鹿人さんは、水道工事『貞数設備』の社長さんですね」

「社長といっても、工事をするのはぼく一人。母が事務をしているだけの零細です」

 老婦人が脇から、

「鹿人さん、あなた、ご兄弟は?」

 鹿人、老婦人を見て、

「ぼくの前に社長をしていたのが兄の熊人ですが、昨年の暮れ、バイクの事故で亡くなりました……」

「まァ、事故で……お気の毒に……」

 老婦人の顔から笑みが消え、突然、嗚咽する。

 夕美果が老婦人の車椅子の後ろに回り、

「すいません。10年前、わたしの両親、祖母にとっては一人息子とその嫁になりますが、2人とも船の事故で亡くなっています。失礼して、しばらく、祖母を寝室で休ませます」

 夕美果はそういうと、車椅子を押してリビングを出ていった。

 熊人の事故は、この屋敷から2キロほど離れた東赤塚公園近くの郵便ポストの前で起きた。

 道を曲がりきれなかったらしく、転倒して頭を郵便ポストの鉄の支柱にぶつけている。しかし、あの時刻にどうして、慎重な兄がそんなにスピードを出していたのか。

 午後10時半頃、付近をジョギング中の男性が郵便ポストのそばに倒れている熊人を見つけ救急車を呼んだが、すでに死亡していた。このため、事故が起きた正確な時刻は不明のまま。

 ヒビ割れたヘルメットが近くに転がり、熊人の頭部からは大量の出血があった。事故の際衝撃音が響いたことは充分に考えられるが、消防に通報があったのは、午後10時34分。

 事故の発見が遅れたのは、辺りが公園と墓地に囲まれ、近くに民家がなかったことに加え、その時刻、人通りが滅多にないためと考えられる。

 夕美果が戻ってきた。

「祖母は、最近認知症が表れ、ときどきですが、昔のことといまが区別つかないことがあって。わたしと話が噛み合わないことがよくあります」

「そうですか。ご心配ですね」

「鹿人さん、これをご覧ください」

 夕美果がそう言って、鹿人の前に1枚のA4サイズの写真を置いた。

 それには白いショルダーバックが写っている。バックは新しいが、バックを肩に下げる紐がなぜか千切れている。

「これは……」

 鹿人が、わけがわからずにいると、

「その写真のバックは妹の百合果のものです」

「百合果さん?」

「2つ年下の妹です。昨日、警察から連絡があり、警察に行って百合果のバックであることを確認してきました」

 彼女の話は意外なものだった。

 熊人が事故死した同じ日、夕美果の妹・百合果が帰宅途中、ひったくりに遭った。

 時刻は、午後7時03分。犯人は原付バイクに乗った2人組の少年で、百合果のショルダーを奪って逃走した。

 百合果はすぐに警察に通報。パトカーが駆け付け緊急配備をしたが、犯人は検挙されなかった。

 ところが、事件からほぼ半年が経過した昨日、警察から連絡があり、犯人が逮捕され、奪われたバックが被疑者の自宅から見つかったという。

 被疑者の少年2人から、思いがけない供述が得られた。少年たちは百合果からショルダーバックを奪って逃走する途中、青い大型バイクに追いかけられたというのだ。もう少しで追いつかれそうになったが、原付バイクが細い道に曲がりこんだ際、青いバイクはその道を曲がりきれず、郵便ポストに激しくぶつかり転倒した。

 少年たちは翌日、そのバイクのライダーが亡くなったことを知り、寝覚めが悪かったという。

「熊人ですか。そのライダーが!」

 鹿人は兄の死が単なる事故死ではないことを知り、衝撃を受けた。

 夕美果が続ける。

「百合果は、バックを奪われた直後、大型バイクがそばを走り去るのを見ていたそうです。でも、犯人を追いかけてくださったとは思わずに……申し訳ありません」

 深く、頭を下げた。

「百合果さんは、お出かけですか?」

 えッ?

 夕美果は、一瞬呆気にとられたように鹿人を見たが、すぐに、

「申し訳ありません。百合果は、ここから少し離れたところに一人で暮らしています」

「そうでしたか……」

 鹿人は納得した。老婦人が、「いままでは、近くにいる孫娘が修理しに来てくれていたのですが……」と言った意味がようやく理解出来たからだ。

 熊人は鹿人の3つ上の兄だった。亡父が興した水道工事店は廃業に追い込まれていたが、翌年高校を卒業した熊人が進学を断念して家業を引き継いだ。

 鹿人は熊人の働きのおかげで大学を卒業。商社に就職できたが、人間関係に疲れて1年で退職した。

 熊人はしばらくアルバイトをすると言う鹿人に、それならうちを手伝えと説得して、兄弟による水道工事店がスタートした。それが3年前。

 鹿人は兄の事故に関して、1つだけ解せないことがある。それは、午後7時を過ぎた時刻に、百合果がバックを奪われた現場近くでバイクを乗りまわしていたことだ。

 事故死する1ヵ月ほど前から、それまではしていなかったことだが、夜にバイクを乗りまわしている。

 鹿人は外吹家の水道修理を終え帰宅した夜、気になっていたことを確かめるため、兄の部屋に入った。

 熊人の部屋は、母の希望もあり、当時のまま残してある。前に見た熊人のノーとパソコンを開いた。

 「クマの部屋」と題されたアイコンをクリックすると、日記として熊人の日常雑記が綴られていた。

 「12月10日」熊人が事故死する7日前の日付だ。

「きょうも同じ道に出かけた。仕事が終わってからだから、早くても午後6時を過ぎる。しかし、きょうは収穫があった。彼女の運転する車は、Sという表札を出している豪壮な屋敷の中に消えた。これで苗字はわかった。Sだ。彼女の下の名前はまだわからないが。これで十分過ぎる。ぜいたくを言ってはいけない。コンビニで見かけてから20日、ここまでたどりついたのだから」

「12月14日」「ここ数日、Sのお屋敷の前を5分おきに行き来している。彼女の姿はおろか、彼女の車も見かけない。初めて赤塚のコンビニで見かけたのは、金曜の午後1時10分、平日の昼間だった。服装から見て彼女は車を使って仕事をしているのだと感じた。平日の昼間にくればいいのだが、仕事のためそうもいかない。午後6時を過ぎると、いまの季節、このあたりは真っ暗になる。街灯は暗くて、ほとんど役に立たない。同じ所にいると、怪しまれる。家がわかったのだから、あとは交際を申し込めばいいのだが、もう少し彼女のことが知りたい。どんな仕事をして、どんな1日を送っているのか、など」

「12月16日」事故の前日。「おれはたいへんな勘違いをしていたのかも知れない。重要なのは、彼女の化粧だ。明日、はっきりする」

 12月16日が最後になっている。


 3日後の日曜日。空は晴れて、日差しが強いくらいだ。鹿人は徒歩で赤塚3丁目のバス停に行った。

 この前、外吹家からの帰り際、夕美果が熊人の墓参をしたいと言い、案内するためだ。

 バス停は墓地まで5百メートルほどの距離にある。墓地はバス通りから奥まったところにあり、墓地で待ち合わせるのもいいが、初めての者にはわかりづらい。

 黄色いパラソルを差した女性がバス停に立った。白いワンピースを着ている。夕美果だ。運転していたときと同じような化粧をしている。

 5月のこの季節、半袖は少し早いようだが、彼女にはとても似合っている。

「遅くなってごめんなさい」

 鹿人はその声を聞いて、ハッとした。(違う!)。

 声はそっくりだが、口調が違うのだ。夕美果の顔をまじまじと見た。

 夕美果なら、「すいません。遅くなりまして……」だろう。鹿人は、夕美果との距離をそうとらえている。次の瞬間、判然とした。

「母の具合が急に悪くなって。夕美果は母を連れて病院に行っています」

「あなたは?」

「妹の百合果……」

「百合果さん。この前はお会いできなかった……」

「すいません。母の家からは少し離れた所にいるので。鹿人さんのことはお帰りになったあと、夕美果から聞いています。熊人さんの墓参は姉より、わたしが行くべきだと思ったものだから」

 鹿人には、百合果が饒舌すぎる感じがする。

「わたし、区の委託で、高齢者の方にお弁当を配達しています。一度、あなたを怒らせたことがあったわ」

 百合果がニッコリとした。

 鹿人、外吹家を初めて訪ねたとき、前に停車して通行を邪魔していた黄色い軽乗用車を思い出した。

 夕美果が運転していたと思っていたが、あれは妹の百合果だった。鹿人が車を外吹家の中に乗り入れたとき、奥に黄色い軽が目に入った。あのとき、百合果は何かの用事で実家に来ていたことになる。

 鹿人は勘違いをしていたのだ、と考えた。そして、勘違いという言葉を意識した途端、熊人の「勘違い」に気がついた。

 兄も、夕美果と百合果を取り違えたのだろう。おれの場合は、運転中の百合果と、工事で訪ねた外吹家で会った夕美果を同一人物と思ったが。熊人は、百合果と夕美果が別人であることに気がついた。

「百合果さんは、夕美果さにとてもよく似ておられますね」

「2つ違いだけれど、よく間違われるわ。それで、姉は極力化粧をしないようにしている。もっとも、姉は母の介護で家にいることが多いものだから……」

 鹿人も3つ違いの兄の熊人とは顔だけでなく体形も似ているため、よく間違われたことがある。

「墓地はすぐ近くです。歩きながら、お話しませんか」

 鹿人は見違えた百合果と一緒に墓地のほうに向かった。

 鹿人は考える。おれは、百合果と夕美果のどちらに引かれているのだろう。そして、兄の熊人はどうだったのか。

「夕美果さんは車を運転されますか?」

「姉? はい。でも、家にいることが多いから、滅多にしないわね」

 百合果が遠くを見るような目になった。

 兄の熊人は、百合果のバッグを引ったくったバイクの少年を追って事故死した。しかし、熊人が夕美果と百合果のどちらを見初めたのかは、わからない……。

 鹿人はそのとき、兄が日記に書いていたキーワードを思い出した。「化粧」。百合果は配達の仕事のとき化粧をしている。夕美果は家にいて滅多に化粧をすることはない。しかし、買い物などで出かけるとき、化粧をするのではないか。熊人が配達のため外に出る機会が多い百合果をどこかで見初める。そして別の機会に、化粧をした夕美果をどこかで見つける。あの日は帰宅途中の百合果を見つけてあとをつけ、百合果がバッグを奪われる現場に遭遇して、犯人の少年を追ったのではないのか。

「百合果さん、ぼくの兄がバイクの事故で亡くなったいきさつはお聞きになりましたか?」

「あなたが工事に来られた夜、姉から。熊人さんには本当に申し訳ないことをしたと思っています」

「そうじゃなくて、兄があなた方の家の近くをバイクで通りかかった理由です」

 百合果には、話の中身が見えていない。

「兄の熊人はあなたをどこかで見かけ、好きになってしまったらしいンです。それで、あなたに声をかけたくて、お屋敷の付近をバイクで走っていたようなンです」

「まァ……」

 百合果は立ち止まり、鹿人を強く見つめる。

「百合果さん。着きました。兄の墓はこの中です」

 そこは山肌を削り、急ごしらえで造られた小規模の墓苑だった。

 鹿人は、入口で水桶に水を汲み、百合果を伴い墓苑の奥まったところにある一基の墓石に案内した。

 鹿人の父が亡くなったとき、熊人が買い求めた墓石で、文字の代わりに、鹿人家の家紋であるカタバミが彫られてある。

 鹿人はいつものように、墓石にたっぷり水をかけた。

「ここに、父と熊人が眠っています」

 鹿人はそう言うと、目を閉じてじっと両手を合わせた。十数秒たっただろうか。突然、

「鹿人さん、わたし!」

 鹿人は百合果の険しい声にハッとして振り返る。

 百合果がハンカチを手にしている。見ると、化粧が落ちて、素顔の百合果がいる。

「わたし……わたし、自分でも百合果なのか、夕美果なのか、わからない」

「どういうことですか?」

「化粧をしているとき百合果の気持ちになって、化粧をしていないと夕美果に……」

 鹿人は百合果を見つめる。

「どうして、化粧を落としたのですか?」

「熊人さんのお墓の前で、百合果でいることがつらくなって……。わたしは……」

「あなたはだれですか。妹の百合果さんじゃないのですか」

「百合果は10才のとき、事故で亡くなっています……」

 祖母が言った「あの娘は昔、事故で……」は本当だった。認知症でも、正気にもどるときがある。あのとき、夕美果の祖母は事実を言ったのだ。

「しっかりしてください。百合果さんがこどもの頃亡くなっておられるのなら、あなたは夕美果さんです。夕美果さん、あなたは、百合果さんの死に、何か、責任を感じておられのですか」

 夕美果は目を大きく見開き、鹿人を見つめる。

「こどもの頃、一緒にプールに行き、百合果が溺れて、わたしだけが助かった……」

「それなら、あなたの責任ではない。不幸な出来事ですが……」

「百合果はおばあちゃん子で、祖母の認知症が始まってから、百合果のことを問われるうちに、ときどき百合果でいようと……」

 夕美果は、両親の事故死をきっかけに、妹の百合果の死について自らを責め、祖母の前では百合果を演じるようになったと言う。

「夕美果さん、きょう限り、百合果さんを演じるのはやめるべきです」

「でも、あなたのお兄さんは、百合果を愛してくださったのでは……」

 熊人はこの世にいない女性を愛したために、不幸な死に見舞われたのか。鹿人は、ブルッと寒気に襲われた。

「あそこに……百合果が」

 夕美果が墓石を指差す。

 墓石が水に濡れて光り、鏡のようになって辺りの景色を映し出している。

 その景色の中で、こちらを指差している百合果らしい女性と、熊人らしい男性が、仲むつまじく寄り添っている。

                 (了)

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姉妹 あべせい @abesei

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