翡翠

高代

翡翠

 天使が落ちて来たんだと思った。山の頂上の大きなお屋敷の窓辺に腰掛けている彼女を見て、天使が羽を失くして落ちて来たんだと。

 私は思わず見惚れてしまって、息を吸うのも忘れて彼女をじっと見つめた。綺麗な瞳。空の青と同じ色をしている。太陽と同じ煌めきが瞬きと共に揺らめいていた。

 視線に気付いたのか、彼女はその大きな瞳をついと寄越して、口元だけで静かに笑った。私は弾かれたようにまた自転車を漕ぎ出して、くねくね曲がる坂道を一度も止まることなく駆け下り家に飛び込んだ。

「お母さん、天使がいた!」

 炊事場にいた母へ叫ぶように言うと、母は私に目を向けることもなく生返事を返した。夕餉支度をする母に邪険に扱われながらも纏わりついて、私は小さな子供のように彼女のことを話していた。

 高揚していた。胸の高鳴りが止まなかった。中学生最後の夏だった。


 結論を言ってしまえば、彼女は天使ではなかった。帰って来た父が言うには、この辺りの地主の孫娘が夏休みの間、都会から療養に来ているということだった。

「あら、酷い病気なの?」

「詳しくは分からんが、軽い神経症らしい」

 大変ね、と言葉だけの慰めを零して、母はすぐに別の話題へ移った。私は神経症ってなんだろう? と思いながら、しかし、彼女が天使でないことに失望はしなかった。ただ彼女のあの美しさが作り物でなかったことに驚いた。あんなに綺麗な人がこの世に存在しているのだと、そのほうが驚きだった。

 明日またあのお屋敷に行ってみよう。

 頭の上で生活のあれこれが交わされる中、私は一人、彼女との素敵な邂逅に想いを馳せていた。


「あなた、まるでお猿さんみたいね」

 自転車で坂道を駆け上がってきた私に、彼女は楽しそうに言った。その揶揄があまりに突然過ぎて、私は怒りよりも先に感心が湧いた。

「あなた、この辺りの子?」

 息も切れ切れの私は返事も出来ず、代わりに何度か頷いた。

「この辺りに何か面白いものはない? ここに来た時は自然豊かで素敵だと思ったのだけれど、同じ景色ばかりで飽きてきちゃった」

 彼女はそう言うと、猫のように優雅に伸びをして大きな口で欠伸を漏らした。

「出歩いて大丈夫なの?」

 私が聞くと、彼女は首を傾げて、

「どうして?」

 と聞いた。

「病気なんでしょ?」

「病気?」

「神経症だって」

「あら。そんな風に言われているの? お爺様も随分意気地がないのね」

 彼女は冷笑を浮かべて、小さく肩を揺らした。

「あなた、おいくつ?」

「十五」

「高校生?」

「中学生」

「じゃあ私の一つ下ね」

 彼女はそう言うと、部屋の中へ引っ込んで、少ししてお屋敷から出て来た。

「お名前は?」

昭子しょうこ

「エスコートして下さる?」

 大仰な言い回しだなと思ったけれど、私はいいよと頷いた。

「私、翡翠ひすいって言うの。よろしくね、昭子ちゃん」


 とはいえ、都会から来たお嬢様を案内する場所なんて、この田舎にはなかった。私はいつも友人達と遊んでいる川に彼女を連れて行き、いくつかの川遊びを教えてあげた。翡翠は最初戸惑っていたようだったが、次第に笑みを浮かべ歓声を上げるようになっていた。

「こんなにはしゃいだのは久しぶりよ」

 翡翠は釣り糸を垂らしながら、感嘆交じりの声で呟いた。

「楽しかった?」

「えぇ、でも草臥れたわ」

「大丈夫?」

「何が?」

「身体」

「あぁ」

 翡翠は呆れたように笑った。

「あんなの出鱈目よ」

「出鱈目?」

「えぇ。私、病気なんかじゃないわ」

「そうなの?」

「病気に見える?」

「全然」

 私が首を振ると、翡翠は嬉しそうに微笑んだ。お人形さんみたいだと思った。

「私、女の子が好きなの。でもそれだけ。他は人と何も違わないわ」

 本当に何も相違ないように言うので、私は同意する他なかった。

「それを、やれ脳の病気だの神経が参っているからだの、大きなお世話よ。少し田舎に行って綺麗な空気でも吸えば、きっと考えが変わるだろうってお父様は言っていたけど、人のことをなんだと思っているのかしら」

 怒りと、少しの悲しみが声に入り混じっていた。いや、悲しみというより、諦観かもしれない。

「気持ち悪い?」

 こちらに目も向けず、気にも留めないような声音で言われた。けれど、なんと返答してほしいのかは分かった。別段、偽る気持ちもないまま、

「全然」

 と、私は首を振った。翡翠はまた嬉しそうに微笑んだ。

「あ、でも言っておくけど、別にあなたみたいな子が好みじゃないからね」

「何も言ってないよ」

 後ろ足で砂をかけられた気がして、私は翡翠に向かって川水を浴びせた。翡翠の歓声が夕暮れに響いた。


 それから夏の間中、私たちは一緒に遊ぶようになった。

 山に虫を捕りに行ったり、川で泳いだり、隣町まで祭りに行ったりもした。あまりに遊び惚けていると、翡翠に「あなた、宿題はちゃんとしているの?」と問われ、返答に窮した日もあった。当然そのあとは翡翠に勉強を教わって(なんと翡翠はとても頭が良かった!)生まれて初めて夏休みの宿題を夏休み中に終わらせた。

 翡翠は夏が終わると都会に戻り、けれど季節の折に必ず手紙を寄越した。手紙にはこちらの空気が恋しい、都会は何かと息苦しいと綺麗な字で書かれていた。私は手紙を書くのが苦手だったので返事を書かずにいると、次の年の夏休みの最初の日、翡翠が玄関の扉をドンドンと叩いて、「あなた、手紙の返事を書かないなんて、一体どういう料簡なのかしら?」と、顔を赤くして立っていた。久しぶりに見る翡翠はまた一段と美しくなっていて、綺麗な人の怒りは煌めいて見えるのだなと、怒られながら他人事のように感じた。

 私たちが出逢って三度目の夏。翡翠が高校三年生、私が高校二年生の時、翡翠からまるで宝物を見せるような声音で「好きな人が出来たの」と言われた。

 私はその頃、箸が転げても恋の話が大好きだったので、色めき立ってあれこれと翡翠に聞いた。

 相手は同じ女学院の同級生で、容姿は凡だが所作や機智に富んだ受け答えに憧れ、遂には屈託のない笑顔に心を奪われたらしい。

「告白はしたの?」

 私が聞くと、

「まさか。そんなに簡単に恋仲になれるわけないでしょう? まずはお互いを知って、距離を縮めて、好意があるのを確認し合って初めて想いは打ち明けるものよ」

 随分回りくどい手順を踏むものだと、恋の一つもしたことがない私は思った。

「でも、もう卒業でしょ? 早く告白しないと離れ離れになるんじゃない?」

「それは、そうだけど……」

 核心を突かれると途端に尻込みする癖があるのは、この二年の間でよく知っていた。翡翠には有り余る自信と底のない臆病さが同じくらい内在している。克己心を以て今まであらゆるものと戦ってきたのだろうが、深く知り合えばなんてことはない普通の少女だった。

「嫌われてはいないと思うの。何度か一緒に出掛けたこともあるし、ご両親に御会いしたことだってあるわ。私と話していて、とても安心するって言ってくれたこともある。でも……」

 指先でのの字を書く翡翠に、

「翡翠お嬢様は随分意気地がないのね」

「ちょっと。それ、私の真似?」

 肩を怒らせる翡翠に向かって何も言わずに頷いた。唇を尖らせた翡翠は躍起になって、

「分かったわよ。言うわよ。全く馬鹿にして。見てなさい。次の手紙で自慢してやるんだから」

 鼻息荒く言った。

 私は、翡翠の怒り顔に笑いながら、楽しみにしてるね、と返した。


 九月が終わって、十月の半分が過ぎても、翡翠からの手紙は来なかった。

 いつもならばもう二通は寄越してきているだろうに、十月が終わろうとしても尚、翡翠からの手紙は届かなかった。

 私は苦手ながらも便箋を買い筆をとり、しかし何を書けばいいか分からず、ハガキを一葉新たに求めて、お元気ですか? と書いただけで投函した。

 返事はすぐに来た。だが届いたのは便箋ではなく電報だった。

『アナタ ニ アイタイ』

 その電報で彼女の恋が儚くも散ったのだということは、私にも容易に分かった。

 私はもう一葉だけハガキを買って、翡翠と同じようにカタカナで「ワタシ モ アイタイ」とだけ書いた。

 数日して学校から帰ると、家の前で膝を抱えて蹲っている翡翠がいた。私に気が付くとのそりと立ち上がり、覚束ない足取りで近付いてきた。

 何も言わずただ立ち尽くす翡翠に、

「元気だったかい?」

 と問うと、翡翠は寄りかかるように私の胸の中でさめざめと泣いた。


 手酷く袖にされたのだと、言葉少なに語る翡翠の言葉から理解した。翡翠の祖父や父と同じように、相手の少女は翡翠を汚らわしい目で見、顔を歪めたそうだ。少女のあまりの態度の変化に翡翠は最初、冗談を言っているのだと思ったらしい。翡翠は可笑しそうに笑い、少女の肩に優しく触れた手を激しく振り払われて初めて、少女の表している感情が本意なのだと気付いた。

 それだけであれば、よくある(といっても心痛む失恋)話ではあるが、少女は翡翠から破廉恥な辱めを受けたと吹聴したらしい。それが翡翠を最も打ちのめした。信頼していた相手からの心無い仕打ちは、翡翠を絶望のどん底へ送るのに十分だった。加えて、翡翠の両親の耳にも噂は入ったようで、学校は卒業まで休学の措置が取られた。何もしていないと言う翡翠の言葉より、世間体を大事にしたのだろう。意気地のないことだ。

 私は怒りを抱かなかった。いや、静かに憤怒していたのかもしれないが、それよりも翡翠がそんな狭量な女に好意を抱かれなくて良かったと心の底から思った。

 その女だけではない。翡翠の父母も、祖父も、この世間も、翡翠のことを何一つ知らない。

 この美しい天使のことを、何一つ知らないのだ。

「翡翠」

 さめざめと泣き続ける翡翠の背を私は優しく触れた。翡翠は僅かに身体を強張らせ、けれどすぐ、安堵したように私の膝の上に頭を置いた。火鉢を焚いても家の中は凍えるほど寒かったが、不思議と二人で寄り合っているとなんでもなかった。

「逢いたかったわ、昭子」

「私もよ、翡翠」

 私たちはそれ以上何も言葉を交わさず、夜遅くになっても二人で寄り合っていた。その日初めて、翡翠は我が家に泊まり、私たちは二人手を繋いで同じ布団の中で眠りに就いた。


 明くる日、翡翠は朝一番の汽車で帰るつもりだったようだが、私の両親の「女一人で暗闇の山道を歩かせるわけにはいかない」の言葉を聞き入れ、父の運転する車に一緒に乗って町まで降りた。その間、私たちは何も話さなかったが、互いに固く手を握り合っていた。言葉はいらなかった。私には翡翠が、翡翠には私がいるのだと、それが分かっていれば良かった。

「また、訪ねに来てもいいかしら?」

 構内で汽車を待ちながら、翡翠が遠慮がちに言った。

「変なこと聞くね」

 私が笑うと、翡翠は

「そうね」

 と、つられて笑った。

 私たちは汽車が来るまで他愛もない話をして、汽車が着いても互いの手を離さず、発車の時間が近付いて警笛が鳴る中、一度だけ抱擁を交わした。今生の別れでもないのに、私たちは離れがたく感じていた。

 扉が閉まり、客席に移った翡翠が窓を開け、

「また夏に」

 手を伸ばした。私はその手を握り、

「うん。また夏に」

 明るく言った。

 汽車は速度を上げ、私たちは手を離し、ただ離れ行く友の、空と同じ青い目を見ていた。


 年が明け暫くすると、翡翠から女子大学への入学が決まったとの便箋が届いた。相も変わらず美しい字で、どことなく心躍っているような気配を感じた。新しい道へ進むことに希望を抱いているのだろう。随分安心した。傷は癒えたのか。それとも塞がっただけなのか。分からないが、けれど、翡翠の心に翳を落とすものが無くなればいいと、ただ願った。

 夏が来て、いつもと同じように翡翠が訪ねてくると、翡翠は僅かに頬を赤らめて聞いた。

「あなた、来年はどうするの?」

「来年?」

「あなたも来年、卒業でしょう? 進学されるの? それともお勤めなさるの?」

「進学なんてしないよ。たぶん、どこかの事務員とか販売員になるでしょう」

「そう。そうなのね」

「どうして?」

 私が聞くと、翡翠は言うか言うまいか悩んで、しかし意を決したように

「こちらに来るというのはいかがかしら?」

「こちらって?」

「私の住んでいるところよ」

「都会に出るの?」

「えぇ。嫌かしら?」

「嫌というわけじゃなくて、考えたこともなかったものだから」

 私がごろんと畳の上に寝そべると、翡翠はそよそよと団扇で風を送ってくれた。

「お勤め先は探せばきっとすぐ見つかるわ。進学にしてもあなたの学力なら良い学舎が見つかるでしょう? 暫くの生活費も、進学するなら学費だって私が出しますわ」

「まさか。よしてよ」

 私が笑い飛ばすと、翡翠は拗ねたように唇を尖らせた。

「傍にいて欲しいのよ」

 翡翠が零すように漏らしたのを、私は聞こえない振りをした。翡翠には翡翠の、私には私の考えがある。今言い合っても、きっと答えは出ないだろう。

 高校最後の夏休みは、毎夏と比べて静かに過ぎ去っていった。


 高校を卒業して、私は地元の小さな会社の事務員になった。家を出て、安くて古い部屋を借り、一人住まいを始めた。翡翠には家の住所を教え、手紙はそこに寄越すようにと伝えた。翡翠は入り用だろうと、お節介にも米や味噌などの食料も送ってくれた。私は母と同じような仕送りに思わず部屋で一人笑った。しかし、入り用であるのは間違いないので、有難く受け取った。

 仕事は慣れないことも多く重圧に潰れそうではあったが、人に恵まれたのか、職場では楽しく過ごせているように思う。

 日々はあっという間に過ぎ、夏が訪れて、翡翠が私の家を訪ねてきた。

「随分趣のあるアパルトマンね」

 上手いことを言うものだと感心した。

「体調はどう? お勤めは大変じゃない?」

「そうだね。でも、楽しくやってるよ」

「そう。それなら良かったわ」

 翡翠は空と同じ青い目を細めて私に笑いかけた。あの、中学生最後の夏から変わらない、いや、一層美しくなった翡翠。笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も、翡翠のことはなんでも知っている。

 強く、気高く、儚く、優しい。

 私の──。

「ねぇ? あなたは、私の気持ちに気付いていて?」

 翡翠の問いに、私は小さく笑っただけで返答しなかった。毛羽立った畳に寝転んで、天井を仰ぐ。

「どうするんだっけ?」

「なんの話?」

「お互いを知って、距離を縮めて、それから?」

 今度は私が問うと、翡翠は少し驚いた顔を向けた後小さく笑い、私の隣に寝転んだ。

「あら。私たち、もうお互い知り合えたのかしら?」

「どうかな? まだ知らないことだらけかも」

「そうね。私、あなたの好きなものを知らないわ」

「なんでも好き。嫌いなものないよ」

「私は人参が嫌い」

「子供だね」

「あっ、意地悪ね。酷い人」

「なにそれ。人のことお猿さん呼ばわりしておいて」

「なにそれ? 私、好きな子のことお猿さんだなんて言わないわ」

「言ったんだよ。初めて会った時」

「言っていないわ」

「言ったの」

 言った言わないの押し問答が続き、散々言い合って、最後には互いに笑い合った。

 握った手の熱が、私と翡翠の境界線を薄くする。額から汗が滑り、耳を伝って落ちていく。暑い夏だ。茹だる様な夏。

 私の天使が落ちて来た季節。

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