『彼女』が死んだことを誰も知らない

秋桜空間

第1話

 死んでしまった私の顔が、卒業写真に映っていた。懐かしさを感じながらしみじみとその写真を眺める。あの頃の私は人に優しくすることだけが生きがいだった。そう心から思えている自分が好きだった。私は今の私が嫌いだ。私がそうなったのは、『彼女』のおかげだと思う。ごめんなさいと祈るように心の中で何度も呟いた。私はきっとこれから先も一生『彼女』に謝り続けるんだろう。


 氷点下を下回る気温の中、私は素っ裸で庭に放り出されていた。土砂降りの冷たい雨が降っていて、ずぶ濡れになって寒さに震えている私を指さして父と母は楽しそうに笑った。両親は娯楽として、私をよく肉体的に追い詰める。母は眠っている私によくスタンガンを当ててくる。その時に私が発する変な声が母のツボらしかった。父は仕事で嫌なことがあったとき、憂さ晴らしで私の背中に火のついた煙草を当てたり、ベルトで私の体をひっぱたいたりする。二人とも私が苦しんでいる姿を見るのが好きなようだった。私は両親が望むままに苦しんだ。両親が喜んでくれるのが私は嬉しかったのだ。

 最近、父と母は私がいくら苦しんでも殴るのをやめてくれない時がある。際限なく殴られていると、もしかしたら私は二人に殺されるのかもしれないと怖くなる。そういう時は決まって涙が出てきてしまって、父と母はそれにさらに腹を立てて私を殴るのだった。

 私は登下校の道が大好きだった。小学校へ向かう途中にある大きな公園には多くのホームレスのおじさんがいた。具合悪そうなおじさんに大丈夫ですか?と言って背中をさすったり、茫然とベンチに座っているおじさんに給食で出たパンやゼリーをあげるとみんな喜んでくれて、中には泣き出す人までいた。両親に暴力を振るわれているとき、私はいつもホームレスのおじさんたちが私で喜んだり泣いたりする姿を思い出した。その公園に寄り道して困っている人を助けることは私の人生における数少ない楽しみだった。

 『彼女』はその公園によく現れた。現れるときはいつも両親と一緒だった。左手に父親の手を、右手に母親の手を握り心からの笑みを浮かべて『彼女』は楽しそうに歩くのだった。たまにその両親は『彼女』を怖い顔で叱ることがあったが、そういう時は必ず仲直りした後に『彼女』をぎゅっと強く抱きしめた。絵にかいたような幸せそうな家族だなあと私はよく思った。私には『彼女』の存在がとても遠くにある島のように思えた。

 私は一日の食事を大体給食だけでしのいでいた。母は機嫌がいい時はキャベツの芯やニンジンのしっぽなどを私に分け与えてくれるが、基本は食事を与えてはくれなかった。その日は日曜日で金曜日が祝日だったせいで二日間何も食べていなかった。キッチンは親に禁じられていたので入ることができなかった。私はひどい空腹を紛らすために外出することにした。無意識にいつも行っている公園に足が進んだ。公園に着くとホームレスのおじさんの一人が怖い顔で私に近づいてきた。何かひどいことをされるのではないかとおびえていると、そのおじさんは私に菓子パンを差し出した。

「このパンを受け取ってくれ」

あまりに急で、都合の良い状況に、私は気味悪さを感じて身構えた。

「何が目的ですか?急にそんなことをされても怖いです」

「…一度、具合が悪い時にあんたに背中をさすってもらったことがあるんだ。そのときあんた、メロンパンが好きだって言っていて、お礼にいつか絶対にメロンパンを渡そうって思っていたんだ。あんたはもう俺のことを忘れちまったんだな。まあいい。とりあえずここにメロンパンは置いておく。欲しけりゃ拾ってくれ」

おじさんはメロンパンを地面に置いてその場から去っていった。おじさんの姿が見えなくなったのを確認してから私は素早くそのメロンパンを拾った。


 メロンパンは私が知っている食べ物の中で一番おいしい食べ物だ。給食で年に一度出てくるメニューで、超レアな食べ物。それがこんな形で手に入るなんて、棚からぼたもちなんてレベルの話ではない。私はおじさんに心から感謝した。見ているとよだれが垂れてお腹がぐうと鳴った。時刻は17時を回っていて、あたりは暮色を帯びていた。公園の遊具が長い影を作っていた。私がメロンパンの袋を開けようとしていると、一人の女の子が私の方へ歩いてくるのが見えた。その子はこの公園でよく幸せそうな姿を見せていた『彼女』だった。その日の『彼女』は今まで見てきたどのホームレスのおじさんよりも落ち込んだ顔をしていた。困っている人には声をかける癖がついていた私は『彼女』に話しかけた。

「あなた、そんなに落ち込んだ顔をしてどうしたの?」

すると『彼女』は心底私に興味なさそうに

「もう疲れたのよ」

と言った。両親と手をつないで歩いているときの『彼女』からは想像できないほど話し方が大人びていて私はびっくりした。

「何に?」

と私は聞いた。

「生きるのに」

と『彼女』は言った。その答えを聞いて私は心の中がもやもやするのを感じた。両親に暴力を振るわれている私と違って『彼女』は愛されていた。それなのに不幸そうな顔をしているのが気に食わなかった。けれど私はすぐに思い出した。そうだ、『彼女』は私とは別の世界の住人だった。そう思った瞬間もやもやはすっと消えた。

「何か嫌なことでもあったの?」

「……」

「もしかして両親とはぐれちゃったの?」

「……」

『彼女』は何も答えてくれなかった。しばらく沈黙がつづいたあと、ぐーと『彼女』のお腹が鳴った。

「お腹が減ったの?」

と私は聞いた。私は『彼女』にメロンパンを差し出した。するとようやく『彼女』は私を見た。

「お腹が減ってるのって辛いよね。これあげる」

と言うと、『彼女』は私のパンを受け取った。袋を開けて一口食べると『彼女』は泣きだした。メロンパンを食べ終わっても『彼女』はしばらく泣き続けた。その間、私は空腹も忘れて『彼女』の頭を撫で続けた。まるで自分の頭を撫でているみたいだった。私は胸が熱くなって、もう自分のことはどうでもいいやと思った。


 泣き止んだ『彼女』は

「私、何歳に見える?」

と急に聞いてきた。私は思った通りに

「7,8歳に見えるよ」

と言った。

「私ね、本当は千年以上生きているのよ」

と『彼女』は言った。私は言っている意味がよく理解できなくて

「どういうこと?」

と聞いた。

「私は自分と他人の意識を入れ替えることができるの。寿命が近づくたびに若い子と自分の意識を入れ替えて、長生きしてきたのよ」

「意識を入れ替える?」

「そう。私もどうしてそんなことができるのかわからないけど」

なんとなく『彼女』の言っていることは本当のような気がした。私は『彼女』の言葉を信じることにした。

「入れ替わった人たちはどうなったの?」

「私の代わりに老衰で死んだわ」

「……」

私は『彼女』の代わりに死んでしまった子供たちは想像してぞっとした。

「どうしても、死にたくなかったの。私ってとんでもなく自己中心的よね」

『彼女』はそう言うと、私の顔に触れた。

「あなた、とても不幸そう。ねえ、本当はあなた今、ものすごくお腹が減っているんでしょう?それなのに私にパンをくれたんだよね。あなたのパン、今までもらってきたプレゼントの中で一番うれしかったわ。私、あなたには幸せになってほしい。良かったら、私と入れ替わってみない?」

私は願ってもない提案に目を見開いた。『彼女』と入れ替わったら、私もあの両親にかわいがってもらえるんだろうか。私の脳内は幸せな妄想でいっぱいになった。けれど、入れ替わったら『彼女』はどうなってしまうのだろう。

「嬉しいけど、私、両親から虐待を受けているの。あなた嫌でしょ?虐待を受けるの」

「あなたが虐待を受けていることはもともと知っているわ。体のアザ、隠しきれてないわよ?そのうえで私はあなたに聞いたの。私と入れ替わってみない?」

私は答えあぐねた。うん、と答えたいけれど答えるのが怖かった。私が受けるはずだった不幸をすべて『彼女』に押し付けるなんてそんなこと、本当にしていいことなんだろうか。

「何を迷ってるの?幸せになりたいんでしょう?簡単よ。何も考えずに首を縦に振ればいいだけ」

と『彼女』は言った。私は悩んだ。悩んで悩んで悩んだ末に

「入れ替わりたい」

と言った。その瞬間、私のなかの何かが損なわれたような気がした。『彼女』は私を抱きしめた。

「嬉しい。あなたが私と同類になってくれたことが本当に嬉しい。いいのよ。それで。あなたはもっと自分を大切にするべきよ」

と『彼女』は言った。


 『彼女』が私のでこにこつんと頭を当てると私の意識と『彼女』の意識が入れ替わった。目の前にみすぼらしい私の顔が見えた。その顔が口を開いた。

「本当は私、ずっと死のうと思ってたのよ。でも死ぬ勇気がどうしても出なかったの。けれどこの体に入れ替わって死ぬ決心がついたわ。あなたのおかげで自分をそんなに責めずに死ぬことができそう。あなたには感謝しかないわ。ありがとう」

私たちはそこで別れた。彼女は私に大きく手を振りながら道の向こうへ走っていった。時刻は19時を回っていて、外はもう暗かった。私はぼーっと『彼女』が見えなくなっていくのを眺めていた。


 しばらくすると、あの優しそうな両親が公園にやってきて、涙を流しながら私を抱きしめた。初めて向けられた両親の愛は心のかなり深い部分までしみ込んで私はもう何も考えられなくなった。『彼女』がその後いつどうやって自殺したのか、私は知らない。

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