第10話 お菓子の材料は

 お出かけするような気分にならなかった。行き先が紗和さん家だからだ。紗和さんはドロシーではドジっ娘であることを除けばとても素敵な女性だと思う。そこは認める。真面目だし、おおらかだし、裏表のない笑顔が素敵だし、お胸も豊かだし。よく考えると、店長はよく紗和さんに手を出さずに頑張っているなあ。一度店長の奥様が来店したけど、容姿がお世辞にも綺麗とは言えないし、性格もキツい。家でもあの様子なら、紗和さんの笑顔にずいぶんと癒やされているはずだ。まああのヒゲ親父なんか興味ないけど。

 どうでもいいことを考えながら支度を済ませ、家を出たすぐのところでママとすれ違った。

「あれ。陽向、どこ行くの?」

「アルバイト先の先輩のところへ行ってくる」

「先輩? ああ、あの綺麗な人ね。行ってらっしゃい。失礼のないようにね」

 ママも一度ドロシーに客として来店したことがある。私のアルバイトの心配も兼ねての来店だろうなと思ったけど、その時の紗和さんは、偶々なんだけどドジっ娘特性が全く発動しなくて、ママにすごく好感を持たれた。いや、ママ。本性は違うんだよ。

「すぐ帰ってくると思うけど、晩ご飯食べてくるかも」

「ああ、そうね。あの人なら安心だわ。あまり遅くならないように帰ってきてね」

 すぐに帰ってくると思うしそのつもりだけど、一応保険をかけてみた。クッキーが美味しかったら、少しだけ長居するかもしれないから。

 手ぶらも悪いからと、コンビニで手土産でも買っていくことにした。お菓子作りができる人だし、美味しい紅茶も揃えている人だ。こんな完璧なおもてなしをする女性なのに……いや、あのことは忘れよう。いろいろ考えたが、チョコレートなら自分で一から作ることもないし、おやつで食べてよし、お菓子作りの材料にしてもよし。ということでチョコレートを選んだ。

 紗和さんのマンションに着くと、どうしても前回の訪問のことを思い出してしまう。足が遠のいていたのは、それもあったのかもしれない。あの痺れた感覚、思考が麻痺するあの感覚。あれは私がもう少し大人になってからでいい。インターホンを押すと、いつもの紗和さんがいらっしゃいませーとオートロックを解除してくれた。その挨拶はドロシーだけで十分ではないか。エレベーターで三階に上がり、二度目のインターホンを押す。開いているから入ってと言われる。

 ドアを開けると、甘ったるい匂いがしてきた。本当にクッキーを焼いているんだ。部屋着にエプロン、料理用のミトンを身につけた紗和さんは、世の男性なら押し倒しているんだろうな。年上なのにそれくらい可愛らしかった。

「お招きありがとうございます。手土産でーす」

 棒読みでチョコを渡す。

「あらありがとう。溶けちゃうから冷蔵庫に入れておくわね」

 ミトンの手で受け取ると、ミトンをしていない手で冷蔵庫を開けてチョコをしまった。うっかり者の紗和さんなら、ミトンをしたまま冷蔵庫を開けようと格闘するか、ミトンごと冷蔵庫にチョコを放り込むかだ。お菓子作りを日常的に行っているから、今の流れを滞りなくできたのだろうな。

「ヒナちゃん、そこ座って。クッキーと紅茶出してあげる」

 ここまで甘い匂いがする部屋だ。すぐに帰るつもりで居たのに、食べないで帰る非礼も嫌だし、クッキーの味見もしたくて、言われるままに座布団に座った。あの時の座布団だ。

 ミルクティーと一緒に出されたクッキーは、食感はサクサクと歯触りも良く、程よい甘さと小麦の風味がマッチしていてとても美味しかった。私もこんな美味しいクッキーを作れる大人になりたい。あの部分は置いといて。

「紗和さん、このクッキーとても美味しいです」

 感動すら覚える美味しさのクッキーは、とても一枚食べたらおしまいです。とはならなかった。お皿に十枚弱あったクッキーを、あっという間に平らげてしまった。だから私は結菜やここちゃんにウエストで勝ってしまうんだ。

「嬉しいわぁ。こんなに美味しそうにクッキー食べてくれるなら、もっと焼けばよかった」

「大丈夫です。美味しいのは本当ですし、私も女の子だから食べ過ぎも気にしていますし」

「フフフ。そっかぁ」

 今日の紗和さんは、本当に素敵なお姉さんの一言で完結してしまう。帰るのなら今のうちにさっさとアレを渡して帰るべきだ。

「あの、ここに来た本題ですけど……」

「ああ。……本当に要らないの?」

「親にバレたくないんです。本当に勘弁してください」

「それなら仕方ないわね……で。使った?」

「え! い、いや、使ってないです。コイツも使ってくれない人のところにいるより、使ってくれるご主人のところにいた方が本懐を遂げるのではと」

「フフフ。面白いこというのね。わかったわ。返してもらう」

 良かった。これでゲームクリアだ。安心して家に帰れる。

「ねえ、ヒナちゃん。聞いてもいい?」

「何をですか?」

「さっき食べたクッキー、美味しかった?」

「え? ええ。もちろん」

「材料は何だと思う? 今、体が熱くなってない?」

「ち、ちょっと、冗談は止めてくださいよ」

「フフフ。そうね。悪い冗談よね」

 驚いた。いや、本当に止めてくれ。嫌な汗が止まらなくなる。

「本当に聞きたいのはねぇ」


 クッキーへの異物混入など、軽い冗談だと思っていた。でもこれは紗和さんが自分のペースに引き込むために仕掛けたトラップの入り口であり、まんまと嵌ってしまうことに気づいたのは少し後になってだった。

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