第4話 緑の飾りがついたヘアピン

 土曜日の午後。紗和は自宅マンションに隣人を招き入れていた。

 隣人という表現がこれほど正しいことはない。マンションの三〇五号室の紗和、三〇六号室の音々ねね。紗和が招いたと言うより、紗和が焼いたクッキーの匂いに誘われ、音々が勝手に試食しにきたのだ。

 近くの音大に通っていることと、年齢は二十一歳。音々の一般的なプロフィールで、紗和の知っていることは隣に住んでいること以外はそれだけしかなかった。

 音々と紗和は、とても対照的な女性だ。音々は、エネルギッシュで何事もテキパキと全力でこなす。腰まで髪を伸ばしている紗和と違い、音々は生まれてから髪を肩まで伸ばしたことがない。女の子らしい髪型に興味がなく、短めの髪を撥ねて遊ばせている。それなりに胸はあるから間違えられることはないが、顔立ちや髪型だけみれば爽やかな男性のようだ。

 紗和と音々とでは、生き方や性格、趣味や箸の持ち方までまるで違う。隣に住んで居なければ、そもそも二人の接点は生まれないだろう。

「紗和ぁ。コーヒー入れたよー」

 リビングでコーヒーメーカーを見つめながら音々がキッチンへ声を飛ばす。

「んー……私が作ったクッキー、紅茶の方が合いそうなんだけど……」

 クッキーに合わせる飲み物まで違う二人。違いすぎるからこそ、仲のよい隣人として過ごせるのかもしれない。

 焼き上がったクッキーを二人で楽しみながら、違う飲み物を口にする。その後は音々が勝手にテレビをつけてダラダラと眺める。画面に映っているのは、芸人が香辛料の知識を深め、カレーをどこまで辛くできるかといった不毛な内容だった。音々は無表情で画面と向き合い、あくびを一つした後に音々が尋ねる。

「アレ、どこにあるの?」

「アレ? ……ああ。テレビの横にある箱の中に入っているわよ」

「サンキュー。借りていくね」

「いいけど……フフフ。本当に使うの?」

 少し呆れた笑いをする紗和。

「多分使わねぇと思う。合宿に飽きたら使うかもだけど」

「明日からだっけ? 強化合宿」

「面倒なんだよな。新入生の親睦も兼ねるんだってさ」

 紗和はその音々が行く予定の合宿というものにあまり興味がなかった。大学のサークルのようなものに参加している音々は、その集団で合宿と称した温泉旅行に行くことになっていた。当然、現地で楽器の演奏なんかも行うのだろうが、そもそも音々が何の楽器を専門としているかを紗和は知らない。

「気をつけて行ってきてね」

「ありがと」

 二人ともテレビの方を向いたまま、定型文のようなやりとりを行う。

「お土産、要る?」

「ん?……要らない」

「アタシが無事に帰ってきたら、それでいいか」

「フフフ。何それ」

 画面では芸人が辛い辛いと叫んでいるが、二人はそれに全く無関心だった。



――――翌日

 陽向はドロシーに来なかった。店長宛に体調不良で休むと連絡があったらしく、夕方からは紗和と店長で店を運営していた。

『ヒナちゃん、心配だな』

 アルバイトを終え、自宅マンションに戻った紗和は陽向の体調を気にしていた。そういえば火曜も顔が赤かったような気がしたし、いつもより早めに帰ったような。そんな気がする。

 ヒナちゃんとRIMEのやりとりはしていない。こんなことなら、ヒナちゃんと連絡先の交換をしておけばよかった。

 そんな時、紗和のスマホが軽快な通知音を鳴らした。RIMEだ。相手はもちろんヒナちゃんではない。誰だろうとスマホを手に取ると、通知相手は合宿中の音々だった。

「あのさ。中身違うんだけど」

 絵文字もスタンプもなく、ただ短い文章だけ音々が送ってきた。中身と言われても、何のことかわからない。

「中身って何のこと?」

 そう返信した時に、紗和の中を得体の知れない悪い予感が存在し、それを膨らませていった。頭の中なのか心の中なのかわからないが、楽しい気分やうれしい気持ちを消し去るには充分すぎるほどの真っ黒な何かが紗和の中で広がっていた。意味もなく血の気が引く。スマホを持ったまま立ちくらみのような症状を覚えていると、音々からの返信はすぐに届いた。

「箱の中身。緑色のヘアピン? アタシ、髪留めを使うほど長くないし、可愛いのは趣味じゃないよ。これ、誰の?」

『あ!!!』

 やはりそうだ。紗和は、自分のドジっ娘特性が発動したことにやっと気づいた。箱の中身と渡す相手が違っていたのだ。音々が見た緑の飾りがついたヘアピンは、ヒナちゃんに似合うと思って買った物だ。そして、音々に渡す予定だった物……あろうことにドロシーでアルバイトをしている純真無垢な女子高生に渡してしまったのだ。

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