七夕のご老人

佐藤朝槻

第1話


 図書館のエントランスで、わたしは呟いた。


「みんな頑張ってるなぁ」


 そこには、たくさんの願いが飾られていた。


 受験合格。

 ○○さんと付き合えますように。


 試験に合格して弁護士になる!!

 内定取れますように。


 プロポーズがうまくいきますように。

 赤ちゃんが元気に生まれますように。


 無病息災。

 推しを武道館ライブに連れていく!

 家族が健康でありますように。


 インターハイ優勝!

 世界が平和でありますように。


 これは図書館の七夕イベント。

 誰でも自由に願いごとを書いた短冊を、エントランスに置かれた笹に飾ることができる。


 毎年どれだけの願いが叶うのだろうか。


 眺めていると子どもにじっと睨まれた。慌てて退散する。


 勝手に願いごとのぞき込んだら怖いよね。ごめんね。


 図書館に入る。借りていた本を返し、予約本を借りる。

 いつもと変わらない暮らし。


 図書館から出ていくとき、また笹を横目に見た。


「……ま、お願いしたいこともないし」

「あの」


 男性のご老人に話しかけられた。

 杖が身長にあっていないのか、猫背がひどいのか不明だが、ずいぶん小柄に映った。見下ろせばベージュの帽子のてっぺんしか視認できない。


 杖をついている手には深く濃い皺があった。使い込まれた手なのだろう。かなりの年齢を感じさせるご老人であった。


「短冊はどこにあるかな?」

「あちらにありますよ」


 わたしは背後にある台を指差す。

 ご老人は黙り込み、しばらくして「ありがとう」と柔らかく微笑んだ。台の前へ行き、箱から一枚、赤色の短冊をとる。


 一緒にいると願いごとが見えてしまう。早く立ち去ろう。


「あなたは書かないんですか?」


 問いかける声に振り返ると、ご老人の帽子のつばがこちらに向いていた。


「まだ書いておられないでしょう?」

「何をです」

「短冊に願いごと」


 ペンで机をトントンと叩いて、ご老人は短冊を強調した。


「願いがないので」

「本当に? 書いたら叶うかもしれませんよ」

「……」

「私はね、安らかな終わりを願ってるんですよ。そしていつか会いたい人に会う」

「そうですか」

「願いごと、本当にないの?」


 優しい声音がかえってわたしの具合を悪くした。ご老人に背を向けて歩きだす。


 夢もない、彼氏もない、お金もいつ稼げなくなるかわからない。

 それが、今のわたし。


 願いなんかない。

 生きるのに精いっぱいなわたしに願いなんか……。


 あったとしても、だ。


 苦しみたくない。

 痛みなんか知りたくない。

 病気になりたくない。

 眩しいものはみたくない。


 夢が欲しいわけじゃない。

 イライラしたくない。

 穏やかでいたい。

 呆けて、あらゆる境目を曖昧にしたい。


 こんな願い、織姫と彦星に理解できるはずがない。


 織姫と彦星がいる天の空は、人間が住む場所のはるか上空。

 いつだって見下す側にいるのに、わかるもんか。わからせてやるもんか。


 腹の底でみんな、知ってるんだ。

 願いは書くだけで叶わないこと。

 人前で言える願いは本質と異なること。


 見て見ぬふりしているだけ。

 本質に触れて燃え尽きてしまわないために。

 だったら、はじめから願いなんて書かなくていいじゃない。


 腹立たしい思いを必死におさえこんで外に出る。


 重い空気と熱気を浴びると頭痛に襲われた。

 夕方前の空は灰色に染まり、夕焼けもきれいに見えないだろう。もしかしたら天の川も見えないかもしれない。


 なのに、まだ見えない天の川を感じた。

 本当は、考える暇がないくらい夢中になることができたらそれだけで十分だ。夢中になれば悩まない。


 でも、それだけが見つからない。見つかったとしてもすぐに失ってしまう。

 明日になっても、年を重ねても、死ぬ直前まで探し続けることになるだろう。


 織姫と彦星が互いに求めあったものが、わたしも欲しかった。







 その夜、目の前に客船が突如現れた。


 客船の大きさに圧倒されながら、ゆっくり上から下へ視線を下ろすと、ご老人が手を差し伸べていた。


 昼間とは違い、杖を持たずに立っていた。姿勢も正しく、目線がわたしより高くなっている。


 ご老人の手をとり船に乗る。

 いかりがあげられ、浮遊感を覚えた。


 客船は海から空へと旅立った。


 船から乗り出し、下を覗く。

 小石が空中に流れながら、ときおり強い煌めきを放っている。天の川の上を流れているのだと理解した。


 見下ろす側の景色を、この目に焼き付けておこうと思った。


 小石の煌めきの間を縫うように黒いものが見える。

 下界だ。建物や木々が詰まっている。


 天の川の上ということは、どこかに織姫と彦星がいるんだな。ふたりは出会えているだろうか。


 そんなことを考えていたら、次第に喉の奥が震えだした。


「……なりたい自分になってみたかった」


 そもそも、なりたい自分を見つけられていないけど。


 誰かを愛してみたい。

 優しく抱擁されてみたい。

 誰かを本気で守ってみたい。

 守られている安心感を抱いてみたい。


 産んでくれてありがとうって心から伝えてみたい。

 幸せでいたい。

 他人の喜びを同じ熱量で祝ってみたい。

 幸せを分かち合ってみたい。


 受けとる罪悪感を忘れたい。

 渡す恐怖心も忘れたい。


 ただ、生きていたい。

 死ぬのは嫌だって本気で思えるくらい、生を感じたい。


 わたしは叫びながら泣いていた。

 全部の願いが涙に溢れ、流れ落ちていく。


 空から落ちる涙は雨にもならない。

 それでもわたしはすぐに喉の渇きを覚えて、やがて蹲った。


 すると隣でもしゃがむ足音と服の擦れる音が聞こえた。


 顔を上げると、ご老人の顔があった。

 茶色の瞳がわたしを見据えている。


 船に乗ったときからずっとご老人はわたしの手を離さないでくれた。

 泣き叫ぶ間も手を握りながら、もう片方の手で背中を擦ってくれた。


 振り落とされてしまわないよう、あるいは、落ちるときは一緒だと覚悟していたかのように。


 手の温もりが心地よい。

 夏の熱気とも、冬の暖をとるときとも違う温もり。


 夢のように見えないわけじゃない。

 現実のように逃すものじゃない。


 桜のごとき儚さはなく、雪のごとき不明瞭さもなく。ずっとそこにあった。


 涙が引っ込み肌寒さを覚えはじめた頃、ご老人は小さく笑った。








 目が覚めた。夢を見ていたらしい。


 わたしは急いで身支度をし、図書館に向かった。

 赤色の短冊に目を通したが、安らかな終わりを願う短冊は見つからなかった。


 それから毎年、七月七日は赤い短冊に願いごとを書いている。


 ご老人が命を懸けて与えた痛みが、わたしを夢の中に突き落とした。

 人生、まだわからないことだらけだ。わかる日も来ないと思っている。

 けれど願わずにはいられないのだ。

 ご老人に再会できますように、と。



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七夕のご老人 佐藤朝槻 @teafuji

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