希死念慮と先なしの旅行
男は、へたりこける。攻守が逆転した。
「私の事は私がよく知ってる。攫ったのも状況でわかる。攫われるだけの状況は揃ってるから。じゃあ残る疑問は一つだけ。」
右手に握ったガラスの破片で男の額をなぞる。
男は驚愕と困惑と、緊張の脂汗が垂れていた。
後ろ手に何かを握っているようだが、廃材のようだ。対抗手段には程遠いだろう。
「貴方は、誰?何で私を攫ったの?」
男の身体がびくりと跳ねて、視線が弱者特有の‥下から覗き込むものに変わる。
恐らく心理からして『攫った相手を殺す』位は男の最悪の未来としての想定としてあったようだ。しかしその逆は流石に想定外だったらしい。パニックになりながらも、男はぽつりぽつりと自分の素性を話し始めた。
男は氷野真司郎と言った。一か月前に会社を理不尽なリストラで辞めさせられ、生活に困窮して私を攫った…らしい。
行く当ても住む当てもなくなったまま彷徨っていたところ徘徊する私を見かけて、攫う事を計画していた、と要約すればこうなる。
私の思い描く「誘拐犯」からこの氷野という男かけ離れていた理由は前述の説明によって明確であった。
一通り話終わった氷野は唐突に頭を下げた。
「どうか、この通り…見逃してくれ!」
声の上擦った、弱者が強者に怯える、慈悲を望む声だった。大の大人が、躰もボロボロな少女に頭を下げ、許しを請う姿は、率直な感想として、あまりにも滑稽で歪であった。
「あなたは…一つ勘違いをしている。」
土下座の姿勢を解かない氷野を視界にいれながら後ろに歩く。靴と床が擦れ、砂粒を巻き込む音で後ろに退いているとわかったのか、少し離れたところで氷野は顔を上げる。
「私はあの家では厄介者扱い。多分助けは来ない。それに…」
私が彼らでないように、家族が私に対して助けに来るほどの情があるかはわからない。故に助けに来るかはわからない。それくらいなら、と、体が動き、
右手に握りしめたガラスの欠片を、首筋に押し当てる。
「こうした方が…面白い。」
ちくりと小さな痛みの後、首筋から鮮血が伝う。それを見て氷野はわかりやすく顔を青褪めさせた。
そこからざりざりとガラスが首筋をなぞれば、少々の痛みと共に赤い体液が少しづつ、漏れ出す。
血は、良い。自分が「生きている」という確固たる証拠を嫌というほど見せてくれる。首を伝う緋を指先でなぞりとり、舌先に乗せる。見た目では想像出来ない、いつも通りのしょっぱい味がした。
そんな私の様子に、まるで有り得ない物でも見るように氷野は呆気に取られて硬直しているようだった。
「どうせ、未練も何もないんです。『貴方に攫われて自害した』なんて、面白いんじゃないでしょうか?」
ふふ、と笑みがこぼれる。
私の行き場は、何処にもない。楽しくないなら生きている理由もない。
そして今、どうしようもなく楽しいのだ。
未知の世界、新しい刺激、これで終わりもまた乙なものだと、そう思っていた。
「やめるんだ!!」
首に5㎝ほどの傷がついた所で、自分だけの心理の世界から戻ってきた。
氷野にガラスを持つ手を拘束されたからだ。
「…離して、いい所なのに」
ぐっと腕に力を込める。でももちろん成人男性の握力に敵う筈もなく、びくとも動かない。
「命を粗末にするな!なぜ自分から自分の命を投げ出せるんだ…?!」
さっきまでの臆病な氷野ではなく、人の道を正そうとする、「人間として正しい」氷野がいた。
氷野は強引に私の手の中のガラス片を奪い取り、遠くに投げ捨てる。近くにはもう粉末の様なガラスしか残っていなかった。
「…不思議な人。」
私を攫っておきながら私に死ぬなって…と呟く。
粉々に砕かれたガラスはもう相手を脅す道具にもならない。危険を取り除いたと確信したのか氷野は、またさっきのように同じ場所で廃材を漁り始めた。
私は何も当てがないし、動かない方が得策。その場に座り込んで、氷野を観察することにした。
リストラの話は本当なのか、かなりげっそりとしている。先程私を拘束した際にあった生気も、廃材に向ける視線からは感じられない。
そして観察を始めて五分くらい経ったころだろうか、氷野がぽつりぽつりと話し始めた。
「本当は、こんな事したくなかったんだ…あの糞上司に会社をリストラされて、家も無くなって…どうしても生き残るために、君を攫ったんだ。
勿論、君からしたらとんだとばっちりだ。君の身の安全は保証する。身代金が手に入ったら解放する。でもそれまで身を隠さなきゃいけない。」
あった、と氷野は小さく言うと、ごみの山から黒い箱を取り出した。氷野が箱の蓋を開けるのを氷野の背中の後ろから覗き込む。
中から出てきたのは、数えるほどの万札だった。
「君が遠出をしたことがないのは調べてある。だから俺の全財産を使って、君の好きな所に潜伏してくれ」
氷野が言うのはこうだ。身代金が回収できるまでの間の対価としてどこかに遊びに行くと言う事らしい。
なんだかよくわからない話だったが、氷野がそうさせてくれという事だから従うことにした。なかなか悪い話でもない、と思ったからだ。私にリスクもデメリットも無い。
何より私は本当に遠出したことがないので少し期待していた。
「現地で行方をくらまされると困るから俺が同伴するが…どこでもいい、どこか隠れられる場所…」
何処…に…と言われても、私は旅行情報誌すら読んだことがない。正直言って都道府県しか知らない。ただ、名前だけ聞いて行ってみたかったところが一ヶ所だけ。
「…富山。」
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