第2話 狩り狩られ

 曇り空の下、ハヤミたちは潮の引いた干潟を歩いていた。辺り一面灰茶色の泥で、はるか遠くの工業地帯は白黒の切り絵のようだった。針金のように突き立った電柱と電線がなければここが人間の領域だとは思えなかっただろう。足元を小さなカニや藻で汚れた貝が這いずり回っており、指で開けたような穴からぬるりとした生き物が頭を出したり引っ込めたりしていた。

「ウエノとヤマガミさん、生きてると思います?」

 ハヤミは少し前を歩く大男に声をかけた

「なんて言った?聞こえん」

 風が強いせいで風下の声は届きにくいらしい。ハヤミは声を張り上げて同じ言葉を繰り返した。

「どうだろうな。さっきから通信応答はない。死んでるかフランカー落としたかぶっ壊したか」

「うわーどれでもヤバい」

 二人は囲い柵の横を通った。網に絡まった黒ずんだ海藻が風になびいていた。

「ここマテ貝とれるんですかねー」。

「アサリならそこの柵の中でとれるらしい」

「アサリとか拾うだけじゃないっすか。駆け引きも何もないヌルゲー」

「マテ貝はちがうのか?」

「ちがいますよー。塩かけた後、いつ頭出すのか出さないのか、いつまで待つかの心理戦ですよ。しかも取り損ねたらもう逃げて出てこないからマジの一発勝負」

「お前マテ貝好きなんだな」

「いや好きなのはハマグリです」

 大男が立ち止まってハヤミの方を振り向いた。フルフェイスの防御殻の中にキリリとした眉とこれまでの戦歴を思わせる傷跡が見えた。右頬に紺色の小さな点が見える。その力強い瞳を見るたびに、俺もいつかこんなあごひげの似合うおっさんになりたいとハヤミは思っていた。

「どうかしました?」

 ハヤミは大男の隣に並んだ。二人の目の前に大きなもみじ形の跡が広がっていた。窪みの中には青緑の腐ったヘドロのようなものが溜まっており、肺が重たくなりそうな臭いが鼻をついた。跡の向こう側には巨大な船を引きずったような跡が続いており、痕の脇には漁船が上下逆さまに倒れていた。

「うわあ海のヘドロって気持ち悪りい…」

「毒が混じっている。触るなよ」

「触りませんよ!」

 大声を出すハヤミをよそに大男はポーチから革靴を取り出しもみじ形の跡の横に置くとスマホで写真を撮った。

「やっぱデカいですね。足だけで五メートルくらいありそう」

「足跡なのかどうかは本体を見ないと分からん。馬鹿でかい飾りをつけてる奴もたまにいる。とにかくヤマガミの最後の報告で毒持ちってことは分かっているからマスクを外すなよ。」

「了解です。でもふつう毒タイプには地面タイプでしょ」

「上の連中がポケモンやってるように見えるか?」

「さあ」ハヤミは頭を振った。「でもけっこう人選ミス多いですよね。ぶっちゃけ殉職の半分くらいは戦略ミスのせいだと思ってます。水辺だからウエノとか何も考えてないでしょ…」

 真面目な顔で物申すハヤミを前にして大男は自分もポケモンのことはよく知らないと言い出せなくなってしまった。支部へ写真を送り簡単な報告を終えると、靴とスマホをしまいヘドロを迂回して前に進み始めた。

「何はともあれ俺たちの潮干狩りはこれからだ」

「マツダさん、うまくないっす!」

 でもそこがいいと内心思いながらハヤミはマツダに続いた。


 ナカノとイイヅカは面会室に座って待っていた。ガラスの向こうの扉が開き、中年のやつれた女が警官に連れられて入ってきた。イイヅカは顔を固くしており、ナカノはそんなイイヅカを見て自分が盾にならねばと背筋を伸ばした。女は緩慢な動きで二人の目の前に座るとゆっくりと話しはじめた。

「…翔を殺したのはあなたですか」

 女は顔にかかる髪を払いのけることもなくイイヅカの方を向いた。ナカノからはイイヅカが膝の上で手を震わせているのが見えた。

「翔くんは私たちが見つけたときにはビルの倒壊に巻き込まれて亡くなっていました」

 ナカノは事前に用意していた答えを述べた。女は相変わらずイイヅカの方を見ていた。

「すみ…」

 ナカノは軽くこづいてイイヅカを止めた。テロ犯相手に下手に出るのはよくないと面会前にも伝えていたが、やはり本人を前にして毅然とした態度を貫くのは難しいのかもしれないとナカノは思った。

「スナイパーはみんなこんなに若いんですか?」

「構成員のことは話せません。森野さん、今日は〈孔雀の家〉について聞きに来ました。あなたが知っていることを話してください」

「その制服、本多高校のでしょ。頭がいいのね。翔も賢い子で、中学受験させようかなんて話してた。私がパートで働けば学費も賄えるだろうって―」

「…森野さん」

「返してください」森野はすがるようにイイヅカを見上げた。「翔を返してください」

「森野さん、やめてください。彼女は悪くな―」

「嘘!」

 森野は机を両手で叩いた。脇の警官が走り寄って取り押さえたが森野は構わずに続けた。

「あんたたちは嘘ばっかり!どうせその子が殺したんでしょ!翔の命を盗んだ!都合の悪いことを隠すな!認めなさい!自分たちの過ちを!」

「……本当は翔くんと話したんです」

「イイヅカさん!」イイヅカが突然話し出してナカノは面食らった。

「大丈夫です。謝りませんから」

 きっぱりと言われてナカノは何も言わないことにした。〈百の目〉のスタンスを理解しているなら問題はない。今回はイイヅカの気持ちの整理のためにも言いたいことは言わせてやろうとナカノは考えた。森野は手をおろしたが、髪を振り乱したままイイヅカをギラギラとして目で睨み付けていた。

「翔くんの名前の由来についてです。自慢してましたよ」

 イイヅカはそこで切って相手の反応を見ていた。森野は抛り棄てられた人形のように動かずイイヅカを眺めていた。しばらく沈黙が続いてから森野はかすれた声で返した。

「…私のせいだって言いたいわけ?翔は……狂信者の母親の被害者だと?自分のしたことを棚上げにして……私だって……私だって、好き好んで翔を…」

 森野の顔がくしゃりと歪んだ。それから嗚咽をあげて手で顔をおおった。手は乾燥しきって皺が目立ち、産毛と体毛の中間のような毛に覆われていた。もうずっと前に女であることをやめた手だとナカノは思った。

「たしかに私は翔くんを守れませんでした。でも翔くんの命を盗んでなんかいません。今はそれだけしか言えないですけど、これは本当です」

「じゃあ超能力で殺したのね。あの子が爆弾を持っていたから……かわいそうに…」

「持たせたのはお母さんですよね。なんで翔くんが行く前に冷静になれなかったんですか」

 ナカノは心配になってきてイイヅカのほうをうかがった。怒って冷静さを欠いているわけではなさそうだった。しかし、イイヅカは意外に言うときははっきり言う性格らしいと最近になって分かってきた。森野は顔を上げて手のひらに虚ろな目を向けた。

「…なんで?…なんででしょうね……あのときは、二度と…佳南みたいな子を出してはいけないって使命感があったんです…翔も敵討ちのために命をかけると言いました」

「佳南って誰ですか」

「翔の四つ上のお姉ちゃんです。一昨年…九十三万人の一人でした。十歳でした。私はどうしても立ち直れなくて、どうしてあの子が死ななければならなかったのか…それで〈孔雀の家〉に…」

 イイヅカの顔に戸惑いの表情があらわれた。話についていけていないのだろう。ナカノはフォローに入った。

「〈孔雀の家〉はそのころはまだ被害者遺族の会だったと私も記憶しています。誰が過激化を進めたんですか」

 森野はカクカクした動きで首を縦に振った。

「…あの例の公表のあと、私は同じ境遇の人に話を聞いてもらいたくて入会しました。…当時は皆やるせなさの方が勝っていたと思います……。私たちは週末集まってどうするべきか話し合いました…。悪いのはぜんぶ怪物であなたたちを支援するべきだって人もいました。そもそも怪物がいなければ、こんな悲劇もなかったわけですから…。でもあなたたちは自分たちに都合の悪い事実は隠蔽し、人々の命を盗みつづけてそのくせ世界が滅んでいないのは自分たちのおかげだと言い張って権力を濫用し、命を盗まずにすむ方法を模索しようともしない。だから私たちは爆弾を作りました。あなたたちを止めないと人類は滅びますから」

「人類の敵なのは怪物です」イイヅカが小さくつぶやいた。

「あなたたちも同じです。人の命を盗んでいるんですよ。〈百の目〉は人の命をなんとも思っていない。だから九十三万人も死なせておいて誰も責任を負わない。何年も同じことを繰り返す。怪物だけじゃない。あなたたちも略奪者なんです」

「それはっ―」イイヅカは立ち上がりかけた。ナカノはそれを手で制した。

「イイヅカさん、落ち着いて」

「でも―」

「森野さん、あなた方は知らないのかもしれませんがスナイパーやスポッターも命をとられるんですよ。だからそこで線引きはできないんです」

 森野は口を半開きにしたまま固まった。

「第三顕現時の我々の死者数は約一万人ですが、そのうちの三千人は…あれに巻き込まれたのが死因です」

「なら…それなら、なおさら……どうして」森野は陸にあげられた魚のように口をぱくぱくさせた。

「私たちが戦わなかったら本当にただ奪われるだけになってしまうからです。森野さん、娘さんを亡くしてずっと辛かったのは分かります。でも喪失感を紛らわせるために他の人を傷つけるのはやめてください。そのせいで翔くんまで失ったんですよ」

「偉そうに説教しないで!この化け物!佳南と翔を返せ!」

 森野は再び椅子を倒して立ち上がり、ナカノの目の前のガラスを殴りつけた。ガラスが無かったら良かったのにと思いながらナカノは目の前で壁に阻まれる拳を見つめていた。警官が森野を押さえつけながら面会時間の終わりを告げた。強引に扉の向こうに引っ張られていく森野をナカノとイイヅカは何も言わずに見送った。

「ナカノさん、大丈夫ですか…」

 イイヅカは不安そうにナカノを見上げた。ナカノは小さく微笑んでみせた。

「全然、有益なこと聞けなかったですね」

「すみません、私がこじらせること言ったから…」

「イイヅカさんのせいじゃないですよ。ちょっと話が通じにくい人でしたから。また来ましょう。それに全部終わったら本当のことを言えるはずです」

「全部……早くて再来年ですか」

「…そうね、再来年ね……」

 ナカノはバッグを肩にかけて立ち上がった。本人は気付いていなかったが、イイヅカからは表情が険しくなっているのが見えた。

「ナカノさん…?」

「がんばりましょうね」

 ナカノは無理に作った愛想笑いを浮かべながらドアノブを回した。

「…はい」

 もっとしっかりしないとナカノの信頼は得られないのだとわだかまりを抱えつつ、イイヅカはナカノに続いた。


 干潟を奥へ進むにつれて大きなものが這いずり回った跡が広がり、ヘドロも目立つようになった。手入れされていない排水口の臭いをぐっと濃縮したような生臭さが辺りにたちこめ、ハヤミはずっとしかめ面で腕をマスクの吸気口に当てていた。隣のマツダは険しい顔で西の方を眺めていたかと思うと、時折手でひさしを作って顔を上げた。何かを目で追っているようだったが、ハヤミには曇り空しか見えなかった。マツダはおもむろにフランカーを起動させると本部に救援要請を出した。いいかげん何が見えているのか聞こうとしたところでマツダがおもむろに口を開いた。

「……真上、十五メートル。足と翼の生えた蛇みたいなやつが一体、飛行中。手を垂直に上げろ。俺が合図したらすぐ撃て」

「うおおマジっすか」

 ハヤミは怪物が自分たちを見下ろしてながら頭上を旋回している図を想像して思わず一、二歩引いたが、すぐに元の位置に戻って指示通り垂直に手をあげた。

「早く言ってくださいよ」

「動きが速くてな。あ、出力は狭めにな」

 ハヤミは掌を上に向けて合図を待った。ターゲットを見聞きできない以上、攻撃態勢に入ったあとはなるべく動かずただスポッターの指示を待つしかできない。スポッターが判断を間違えれば見えない何かに蹂躙されて殺される。この不安と緊張には未だに慣れることができなかった。なのでこういうときハヤミはマツダだけを見るようにしていた。マツダは上空を睨んでおり、ピクリとも動かなかった。ハヤミはさっさと撃ってしまいたいのを我慢して待った。スーツの下で脇汗が流れていくのを感じていた。

「今だ」

 マツダの声が発せられた瞬間、ハヤミは力を放った。

 目の前でバシャりと何かが落ちる音がして泥がはねた。それから泥が激しく飛び散りはじめ、地面に半扇形の跡が何重にも重ねってできた。ハヤミは裏返った昆虫がもがいているときの砂の動きを思い出した。なんにせよ泥の上に何かがいるらしい。ハヤミは「どうなりました?」と尋ねた。

「おー効いてる効いてる」

「俺の毒ですか?よっしゃあ」

「これイケるなら本体にもきくな」

 ハヤミはガッツポーズをそのままに困惑した表情で首をかしげた。

「え、今のじゃないんですか」

「この大きさは本体じゃないだろ」

「いや見えないんすけど」

 マツダは何かを言いかけたが顔をしかめて両耳を手で覆った。それから片方の拳で頭を叩きはじめた。怪物が大きな音を立てたり鳴き声をあげたときにする動作だ。

「おチビが死んだから親が来るぞ」

「親!?」

 ハヤミは自分の声が裏返るのが分かった。

「こいつはおそらく第三世代以降だ」

「ああそういうこと……」

 マツダはまた西の方を睨んでいた。風が強くなってきていて臭いもさらにキツくなった。ハヤミは何も見聞きできないなりに状況が動きつつあるということを肌で感じ取った。

「…ヤマガミとウエノの回収は後だな」

「なんでですか?」

「先に怪物を倒す。走るぞ。いったん距離をとる」

 マツダが走り出し、ハヤミもそれに続いて駆けだした。囲い柵や電線が設置されている場所はもう見えなくなっており、今はどこを見渡しても色あせた空と泥しかなかった。どこまで走るつもりなんだろうとハヤミは不安になりつつ足を動かした。後ろを振り向くと後方の空に赤い帯状のものがたなびいてこちらに近づいていた。

「あれ何ですか!」

「食いカスだ……腸かな。……これ距離とるの無理だな…速すぎる」

「チョウ?」

 ハヤミの息が苦しくなってきたところでマツダが叫んだ。

「ハヤミ伏せろ!」

 ハヤミが伏せるのと同時背中の上を生温かく湿っぽい風が走っていき、何か大きいものが通り過ぎた感覚があった。例の生臭さがさらに強くなり、黄色っぽい霧がたちこめてきた。

「前方二十メートル、二時の方向!横幅十メートルくらいぶちかませ!」

 ハヤミは半身を起こすと右手を横にスライドして力を放った。力が放たれた先の霧が切り裂かれたかのように晴れた。

「当たりました!?」

「全然!速いな…」

 ハヤミは立ち上がって風が過ぎていった方に踏み出そうとしたが、咄嗟にマツダに肘をつかまれ、そのまま力任せに引っ張られて泥で滑た勢いで後ろ向きに転倒した。地面に顔が近づいた拍子に泥の中で蠢いている線虫のような虫が見えて思わず目をそらした。マスクがあってよかったとハヤミはドギマギした。

「なんですかもう!」

「あいつが通ったあとは汚染されている」

 そう言ってマツダが指差した泥水の中で黒ずんだカニや貝が白い液体を垂れ流して浮かんでいた。

「うわ…マジ……」

「前方十メートル、一時から二時の方向に攻撃しろ。絞るな」

 ハヤミは赤い帯がある方向に大きめの力を放った。帯は九時の方向に急速に方向転換し、一直線に進み始めた。その動きで本体が相当速いことが分かった。ハヤミは赤い帯を目印にもう一度力を放ったが、帯の動きは変わらなかった。

「もういい、ハヤミ。いったん移動するぞ」

「でもあいつはまだ―」

「毒が広がっている。俺の後ろを進め」

 マツダは固い表情で早口の指示を出すと速足で進み始めた。ハヤミは赤い帯をもう一度目で追いかけたが、マツダに怒鳴られて足跡を踏むように後ろをついていった。

「逃げられますよ!」

「エサを前に逃げるわけない。今は奴の領域から出ることが優先だ。俺たちまで毒でやられる」

「領域!?」

 ハヤミはマツダの言っていることが分からず焦燥感だけが募り、どんどん思考が回らなくなっていった。

「奴は毒を垂らしながら飛んで地面を毒浸しにしている。毒の効果はお前のと似ているが奴のは恐らく生き物と反応して霧状になる。スーツで守られているとはいえ、こっちの動ける範囲を狭めてきている」

「なにそれ!?チートじゃん!」

「抜けた!走れ!」

 厳密には毒の状態変化は生き物ではなく低次元の存在との接触が起因となっているが、マツダには知る由もない。

 ハヤミは相変わらずマツダの言うことが分からなかったが、マツダが泥を跳ね散らして走り出したのでハヤミも追いかけた。振り返ると赤い帯は大きな弧を描いてこちらに向かってきていた。陸はもう見えなくなっており、気が付くと足首が浸かるほどには水位が上がっていた。次の満潮はいつごろだったかハヤミの胸に不安がよぎった。

「恐らくヤマガミもウエノも死んでいる。これからは二人の救援じゃなく怪物駆逐が最優先事項だ」

「やっぱあの赤いのって…」

 ハヤミの頭にウエノの顔が思い浮かんだが、友人が死んだかもといきなり言われても正直ピンとこなかった。

「近いですよ!?」

 ハヤミが指さした先で赤い帯が風にひらめいていた。ハヤミは立ち止まるとマツダを振り返って「指示を!」と叫んだ。マツダも止まって距離と方向をとろうとしたが、一瞬眉をひそめたあと意外そうな顔をしてハヤミを下がらせた。

 半ば押されて下がったハヤミの目に赤い帯がべちゃりと地面に落ちるのが見えた。それから帯があった箇所のやや奥から突然赤い塊が現れて墜落した。

「ハヤミ、正面撃ちまくれ!」

 マツダは叫びながら墜落したものの方へ走り出した。ハヤミは訳も分からず正面の何もないように見える空間に大きめの力を何度も放った。肩甲骨にちくりとした痛みが走り、生温かいものが流れていくのが分かった。印が刻まれたのだ。

「よし!いいぞ、尻尾に当たった!いったん攻撃やめ。こっちに来い!」

 ハヤミは頭を叩いているマツダの元に駆け寄り、墜落したものを見た。吐しゃ物のような臭いがしてハヤミは鼻と口を覆った。赤い塊はてらてらと光っており、小刻みに震えていたが突然身を起こしてしゃがれた声を発した。

「ぶっ殺してやる!」

 その声で頭によぎったのは一緒にゲームセンターでホラーサバイバルゲームをしているときの友人の姿だった。

「…ウエノ?」

 赤い塊が人間だと分かった途端、ウエノの両足がないことが分かった。腰より少しの上のところまで下半身が溶けており、顔も半分液状化していた。損傷具合を理解した途端、ハヤミは眩暈を起こした。胃がせりあがってくる感じがしたが、なんとかこらえた。

 ウエノは爛れた右腕を上げた。直後、手のひらが向かっている先の霧が大きな水の剣で払いのけられた。マツダが横から大声を出した。

「やめろウエノ!死ぬぞ!俺が分かるか?救援に来た!」

「まだヤマガミさんがあいつの中にいる!」

 ウエノの片目は白く濁り、もう片方も血走っていた。口の端に白っぽい切れ端が残っており、それが吐いた跡ということが分かった。

「あきらめろ!あれはヤマガミのなんだろ!」

 マツダは地面に落ちた赤い帯の方を向いた。ハヤミはまた吐き気を催した。

「まだ生きてる!目が動いてた!」

「もういい!分かった!俺たちでなんとかする!お前は休め!もう力を使うな!」

「まだいけます!やらせてください!」

「おい、もうやめとけよ……おまえ…」

 ハヤミの声はしゃがれて弱々しかった。ウエノは血走った目でハヤミを睨んだ。

「真っ二つにされたんだぞ!目の前で!」

「わ、分かったから…あとは俺たちが―」

「ぜってえ許さねえ!」

 ウエノの口から泡が飛んだ。ウエノはもう一度右腕をあげたが、緑と紫を混ぜたような色をした指が何本かポロリと地面に落ちた。傷口から黄色っぽい白い粘液が糸を引いていた。絶句しているハヤミの耳元で「毒にやられてる。あまり近づくな」とマツダがささやいた。

 ハヤミはウエノの方に伸ばしていた手を引っ込めた。

「よせ、そっちにはいない。お前は奴のどてっ腹に穴を開けて外に出てきた。そのとき奴に隙ができてハヤミの攻撃も当たった。もう十分やった」

 マツダはいつにも増して固い表情をしていたが、表情とは裏腹に言い聞かせるようにその声音は優しかった。マツダの態度を見てハヤミは自身の友人が死にかけているという現実に引き戻され、吐き気しか感じられていなかった胸に悲しみと怒りがこみあげてきた。

「ヤマガミさん…ヤマガミさんを出してあげてください……俺たちたぶん食われて…見てたんです。溶けていくところ…」

 ウエノは胸を激しく上下させゼエゼエと息を切らしていた。顔は血の気がなく紙人形のようだった。話し終えると糸の切れた人形のように動くのをやめて目を閉じた。

「ウエノ!しっかりしろ!何か喋れ!自分の名前を言ってみろ!」

 マツダの叫び声にウエノはうっすらと瞼を開き、うわ言のように「…だいち」とつぶやいた。マツダはハヤミの方を向いて指示を出した。

「とにかく何か喋らせろ!」

「はい!」

 マツダが支部に無線通信をしているあいだ、ハヤミはとにかく思いついたことを話しかけた。

「ウエノ!何か言え!おい!しっかりしろ!おまえ香川出身だったろ!?香川のどこだ!?」

「…観音寺」

 ウエノは焦点の合わない目をうろつかせながら答えた。ハヤミはなんとか繋げようと口を動かした。

「そうだ!観音寺!いいところなんだろ!?海があるって言ってたじゃん!」

「海……」

「いいな海!東京にはないもんな!」

「……う、み…」

 ウエノの唇は「み」の形をしたまま動かなくなった。ハヤミはウエノに話しかけた。

「いいところじゃんか!きれいな海なんだろ!?こんなとこより!?なあ?ウエノ?」

 どれだけ話しかけてもウエノからは何も返ってこなかった。

「ウエノ!」

「よせ、もう死んでる」

 通信を終えたマツダがハヤミの腕を引っ張って立ち上がらせると、そのまま走り出した。

「ウエノは!?」

「毒の領域が広がっている。あそこにはもういられない」

「置いてくんですか!?」

「回収したいなら奴を倒すしかない。腹くくれ!また小さいのが近づいてきている!七時の方向、二十メートル先だ!撃て!」

 マツダは後方を指した。ハヤミはマツダの指す方に力を放った。地面に何かが落ちたようなへこみが次々とできた。

「よし!当たった!」

「どうなってます!?」

「仕留めた!だが油断するな、本体がまだ―」

 次の瞬間ハヤミの右脚が消し飛んだ。


 今から行けば午後の授業には出られるとイイヅカは考えていた。六限目は地理で七限目は生物だった。どちらも嫌いではないが積極的に受けたいとも思わない科目だった。むしろ古文の授業を受けられなかったことの方が残念だった。予習で出てきた助動詞の訳し方で自信がない箇所があったのでちゃんとした解説を聞きたかったのだ。カーナビが次のインターチェンジで降りるようにアナウンスした直後ナカノの携帯が鳴った。ナカノは運転しながら話を始め、片手でウインカーを出して追い越し車線に移動した。イイヅカは手帳をしまってカバンの中にスーツがあることを確認した。

「…そうですね…はい…善処します。…ありがとうございます。…承知いたしました」

 通話を終えて携帯を仕舞うとナカノは任務が入ったとイイヅカに告げた。イイヅカは運転席に目線を動かした。

「今朝、怪物出現の報を受けてヤマガミさんたちが出ましたが、現場入りしてから三十分ほど経過した時点でフランカーが死活監視応答に答えない状況になり、本人たちとも連絡がとれないことが確認されました。それで規定に基づきマツダさんたちが救援に行きましたが、先ほど救援要請が入り私たちが出ることになりました。今分かっていることは、爬虫類に似た容姿で空を飛び、下世代が少なくとも一体はいて毒を持っているらしいです」

「…下世代が増えたら面倒ですね」

「例の潮干狩り場に行く前に寄るところがあります」

「いいんですか?緊急なんですよね」

「なので急ぎましょう。イイヅカさんはマツダさんかハヤミさんに電話をかけ続けてください。もし繋がれば現状確認を」

 ナカノはアクセルを踏み込んだ。


 耳をつんざく絶叫が自分のものだと気付いたときハヤミは地面に倒れ伏していた。右膝が焼けつくように痛み、熱い液体が流れていく感覚があった。見たくないと思っているのも関わらず目が負傷の箇所に向き、脚の切り株から血とともに白い粘液がどろどろと流れているのが見えた。

「ハヤミ!」

 マツダがハヤミを抱えて右に転がった。直後ハヤミが倒れていた箇所がバシャンと飛沫をあげた。マツダはハヤミの半身を抱え起こして右腕を掴むと前方の上空に向けさせた。

「十メートル先だ!やれ!」

「でもっ!」

「やれ!」

 ハヤミが力を放った瞬間、マツダは突き飛ばされたように吹っ飛んだ。マツダは起き上がろうとしたが手をついた瞬間、右手の指数本がボロりと崩れていった。

「マツダさん!」

「大丈夫だ!」

「そんなわけないでしょ!俺の毒が!」

「俺の心配はするな!自分が生き残ることを考えろ!もうすぐ救援が来る!」

「無理だ!」

「一秒でも長く生きる方法だけ考えろ。あの化け物はお前の毒でかなりダメージを受けている。だから下世代に攻撃させるんだ。追い込まれているのは向こうも同じだ」

 マツダはずた袋を抱えるようにハヤミを担いだ。

「俺、もう動けないです。マツダさんだけでも逃げてください」

「置いてなんかいかないぞ。マイク、ハヤミのスーツを変形して止血しろ」

「全体の装甲が薄くなるぜ」

 フランカーは確認を行った。

「仕方ない。動ける方が優先だ」

「分かったよ」

 ハヤミの腰についた筐体のランプが順繰りに点滅し、スーツがカシャリと動いてハヤミの右足の傷口を覆った。ハヤミは激痛に気を失った。


 海面はふくらはぎの真ん中あたりまで上がってきていた。マツダはフランカーにタイムリミットを確認した。

「マイク、次の満潮まであとどれくらいだ?」

「あと十分もすれば完全な海になっちまう。早く陸にあがらねえとやばいぞ」

 マツダはスイッチを押して瞬発強化殻を脚にまとわせると陸に向かって走り出した。下世代はさっきの一体が最後だったらしい。本体は体液と毒をボトボト落とし旋回しながら追いかけてきた。毒を垂らしていた尻尾はハヤミの攻撃で消し飛んだため、毒をまき散らす能力は封じられた。それだけで脅威度はかなり減じられたが、先ほどのように口から毒を放出できる以上、陸にあがらせるわけにはいかないとマツダは判断した。

 ひっくり返った漁船まで引き返したところでマツダは漁船の下に身を隠して、気絶しているハヤミを起こした。焦点の合わない目でハヤミに見上げられ、マツダは己の不甲斐なさに拳を握りしめた。

「もう意識を失うな。絶対にだ」

「…あいつは?」

 マツダが返事する前に鈍い音とともに船が激しく揺れた。毒が放たれたのだとマツダは直感で分かった。攻撃は絶え間なく続き、巨大な羽根の羽ばたく音が近づいてきた。

「ハヤミ、まだ戦えるか?」

「はい…」

 弱々しい声だったがその目には覚悟があった。マツダは安堵しつつ、子どもにこんな目をさせないといけないことを呪った。

「すまん…」

「…マジ、終わったらプレステ2買ってください」

 マツダはハヤミの腕を肩にまわして立ち上がると船から飛び出した。同時に船が怪物の翼で薙ぎ払われ海の方へ飛んでいった。怪物の胴体は蛇のような鱗で覆われているが、翼と足は鷲を思わせる容貌だった。怪物は腐臭とともに咆哮をあげると胸のあたりをぐっとへこませた。

「最大出力だ」

 マツダは再びハヤミの腕を取って誘導した。ハヤミは迷わず力を放った。反動で二人は後方へ吹き飛び、海水の中に叩きつけられた。マツダは身を起こそうと手をついたが両手がボロりと崩れた。ハヤミは全身をガタつかせながら半身を起こして腕を正面に向けたが、口からごぽりと血と白い粘液を吐き出して倒れた。

 マツダたちと怪物のあいだで、怪物とハヤミの毒が打ち消し合った跡が押し寄せる海水でみるみるうちに搔き消されていった。

 怪物は既に体勢を立て直し、再び大口を開けて胸をへこませた。

「イイヅカさん!」

 女の声と同時に怪物の顔の左上部分が消えた。怪物の絶叫が響いた。

「右に二度ずらしてもう一度!」

 イイヅカは次の攻撃を放ったが、怪物は左の翼で防御し、右の翼をはばたかせながら海の方へ走り始めた。ナカノは車を止めて担架を持ち出してハヤミを乗せた。マツダの両手がないことを見つけると、ナカノに続いて車から降りていたイイヅカに担架を運ぶ手伝いをするように指示を出した。

「水陸両用車に乗り換えてたら遅くなりました。すみません」

「いい。ヤマガミとウエノは死んだ。奴は尻尾と口から毒を出す。尻尾はハヤミがつぶした。毒は生物と反応して霧状になるからフルフェイスは外すな。下世代は二体いたが、本体が直接でばっているからこれ以上はいないはずだ」

「分かりました。マツダさん、念のため以前駆逐された怪物の解毒剤を打ちますね。効けばいいんですが…」ナカノは注射器を二本取り出すとマツダとハヤミに打っていった。

「すまん…助かる」

「いえ、皆さんの情報のおかげで準備できたものです」

 ナカノは運転座席に戻り、イイヅカに準備はいいか確認した。イイヅカは首を縦に振った。

「マツダさん、私は運転するのでスポットをお願いできますか」

「わかった」

 マツダは三人席の左端に腰をおろした。

「奴を追いかけましょう」

 ナカノはアクセルを踏み込んだ。


 日の光を反射して海面は銀色に光り、墓標のように佇む電柱を映し出していた。水陸両用車はその幻影を切り裂いていった。イイヅカは水除けを片手でつかんでバランスをとりながら真ん中の座席で立っていた。工業地帯の煙突から煙が立ち上っているのが見えた。

「奴は毒を飛ばしてくるから、いつでも迎撃できるようにしておいた方がいい」

「分かりました」

 怪物は飛沫をあげて逃げていたが、イイヅカたちの方が速いのを理解すると右の翼で海面を叩き大波を起こした。水陸両用車は波に呑まれてぐらついた。その隙をついて怪物は左側の欠けた口を開いた。

「正面からくるぞ!放て!」

 イイヅカが力を放つと怪物の放った毒のほとんどが消えたが、狙いが外れたぶんは車体やイイヅカに降りかかり黄色の霧を発生させた。イイヅカのフランカーが悲鳴じみた警告を出した。

「ごめん、ジュリア!」

「次くるぞ!」

 ナカノが右にハンドルを切り攻撃をかわした。車はそのままいったん怪物から離れるように進んでから急カーブを切って怪物と面と向かう形になった。

「近づくのは翼を消してからにしましょう」

 マツダとイイヅカはナカノの提案に賛成した。イイヅカは正面に向かって銃の形をした手を向けた。怪物が動くたびに海面が揺れた。

「キャビネットから三十度上の正面を一拍おいて三回打てるか?」

「これだけ揺れてると照準が…」

「気にするな。相手はデカブツだ。大きめの攻撃を打てば絶対どこかには当たる」

「分かりました」

 イイヅカは力を放った。

 一度目の攻撃は怪物の喉元の一部を削った。怪物の絶叫にナカノとマツダは顔をしかめた。怪物は右の翼で身体を防御する姿勢をとった。

 二度目の攻撃は右の翼の大部分を消した。怪物は身をひるがえして海に潜った。海面がさらに激しく波打った。

「潜ったぞ!下にずらせ!」

 イイヅカは山勘で目の前の渦の方へ手をずらして攻撃した。怪物から三メートルほど右側の海面が巨大なスプーンですくわれたように消えたかと思うと、周りの海水がくぼみに流れ込んでいき車も引きこまれそうになった。ナカノはバックに切り替えて急アクセルを踏んだ。急に動いた勢いでイイヅカはバランスを崩して席に叩きつけられた。

「立って!」

「はい!」

「あいつこのまま海の底に逃げるつもりだ」

 海面にうつる影が遠ざかっていくのを見てマツダは水除けを叩いた。

「前方十五メートル、下に十度!いけ!」

 マツダの指示でイイヅカはもう一度力を放ったが、車が再び波に吞まれてぐらつき、今度は左にずれた。

「くそっ!この状況じゃスナイプはキツイか…」

「…前方三十メートル、横十五メートルの範囲で海ごと消してください」

「は…?」マツダはあんぐりと口を開けた。

「分かりました」

 イイヅカは両手を前に突き出して広げた。次の瞬間、イイヅカたちの前に海水で囲まれた縦三十メートル、横十五メートルの空間がぽっかり空いていた。

「つかまって!」

 ナカノが叫ぶのと同時に海水が空っぽの空間に流れ込んでいった。ナカノたちの乗った水陸両用車は下へと押し流されていった。


 まず黒い意識が見えた。そして黒い意識は徐々に明度をあげていき光と色と音を取り戻していった。それぞれの知覚がざらついたものから安定していった。

 イイヅカは意識を取り戻すと胸の真ん中あたりを一定間隔で押されていることに気が付いた。それから吐き気がこみあげて口を押さえようとしたが、まだ身体を思うように動かなかった。「おっ」と上から声がし、声の主はイイヅカの首を横向きにして吐きやすいようにしてくれた。イイヅカは吐しゃ物と一緒に海水を吐き出した。吐き終えると再び仰向けの姿勢になおされた。三つの橙の点をイイヅカはぼんやりとした目で見上げていた。

「よっ、久しぶり」

 畑中は片手を上げてひらつかせた。

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