第40話 Knock out

 侮蔑を隠そうともしないニームの顔を目前にしながら、あの日のことを思い出すと、喉の奥につかえる熱いものが邪魔をして、こみ上げてくる反駁はんばくの言葉はミラの口から出てこなかった。


 航空母艦✕1、巡洋艦✕2、駆逐艦✕8隻が大破または航行不能となり、辛うじて撃沈をまぬかれたのは駆逐艦1隻のみ。6千名を超える乗組員クルーが戦死し、港湾設備への甚大な被害と共に民間人にも死傷者を出した。

 断末魔の母艦から飛び立って1機の敵すらも撃墜できず、部下を死なせ、味方の艦が炎と共に沈むのを、ただ見ている事しかできなかった無力感が、今更ながらに蘇ってくる。


「基地司令はお前らに随分と好意的だが、ここにいる全員が同じだとは思うな」


 ミラに転属の声が掛かったのは、それから半年が経ってからの事だった。

 山地に籠もって近寄る部隊を迎撃するだけの敵を相手に、母艦を失った海軍飛行隊の出番は無い。

 一向に攻めてこない敵を警戒してのパトロールに日々を過ごしていたミラは、クルカルニの招きに応じてアッセンブルの副隊長を拝命した。


 ミラと同じく“ロード・リーリング”に所属する飛行隊の小隊長だったニームは、演習の成績を争っていた頃から、何かと突っ掛かってくる男だった。

 あの空襲の時も、自分の部隊が上がっていれば被害を減らせたと言ってはばからず、ミラの落ち度を吹聴して回るような小物だ。


 その小物を前にして、一言も言い返せないのは悔しい。しかし、これからこのソルベラミ基地を拠点にして活動するにあたっては、いま波風を立てるのは得策ではない。

 自分が中傷されるのを辛抱すれば丸く収まる。空に上がれば自由に動ける。実力よりも弁舌によって相手をおとしめる程度の低い人間に、傷つくような安いプライドは持っていない。


 そうして、渦巻く感情に蓋をできるほどには、ミラは冷静だった。この話が終わったら、口もつけていない水割りのグラスを置いてホールを出て、私室に戻る。そのつもりだった。


技量うでよりルックス目当てで副官を選んだんだろうが、クルカルニ大佐も男って事だな」



◆ ◆ ◆



技量うでよりルックス目当てで副官を選んだんだろうが、クルカルニ大佐も男って事だな」


 ミラが右手に持ったグラスを左手に持ち替えた。

 同時にトルノがビールの瓶をテーブルに置いた。

 納得と諦めの溜め息を吐いて、ネリアはそっと目を閉じた。

 この世にはあんなイヤな男が存在するのかと、嫌悪よりも驚きの目でニームを見ていたソニアの視界を、飛び出す影が遮る。

 ホールの中央にいたリナルドは、その服を掴もうとして間に合わなかった。


 静まり返った士官食堂に破裂音が響いた。


 10mは離れた向かいの壁際まで、トルノが跳んだ。左、右と交互の踏み込みを一度のみで距離を詰め、全体重を乗せた右ストレートが海軍少佐の横面を弾き飛ばした。ミラは握った右拳を、まだ構えてもいなかった。


 白目を剥いたニームが体をピンと伸ばして倒れる。両の眉を吊り上げたトルノの視線が、その取り巻きを撫で斬りにした。

 乱闘になるか。気性の荒いパイロットたちが、仲間を殴られて黙って引き下がるとは思えない。

 だが、仲間をコケにされたこちらにも引き下がる道理はない。リナルドを始めとして、カルアとソニアを除くアッセンブルのパイロットは、臨戦態勢をとった。


 しかし、そうはならなかった。


「ニーム少佐!」

「動かすな、医者を呼べ!」


 本当に殺すつもりで殴った。トルノが放ついつわりのない殺気は、ニームの味方であるはずのソルベラミのパイロットたちに、殴り返すどころか闘争心を抱くことすら許さなかった。

 彼らも兵士だ。勇猛果敢をもって鳴る海軍の男だ。多少のいさかいや殴り合いなど恐れる物ではないが、しかし本当の殺し合いとなると話は別だった。

 しかも殴られたニームの行為は決して擁護に値せず、それに軽率にくみした後ろめたさが、艦載機乗りたちの気勢を削いだ。


 そしてこれは奇妙な事だが、殴られた側である海軍の方に、全軍きってのエースであるトルノを、殺人者にしてはならないという意識までもが芽生えていた。


「済まない、バンクロイド大尉。収めてくれ」

「…………」

「済まなかった」


 一撃で失神に追い込まれたニームは、鼻と口から血を流しながら硬直している。その脇にひざまずいて状態を確かめていたニームの同僚の大尉が、トルノを見上げて謝罪をした。

 黙したままで拳を解かず、それただを見下ろすトルノは、一切の誤魔化しのない懇願を2度までも受けて、ようやく拳をほどいた。


 開け放たれた扉の外から、敵襲さながらの靴音が聞こえてくる。しかし、外界から切り離されたように、士官食堂の中は数秒前とは全く性質の異なる沈黙の中に沈んでいた。

 唐突で、有無を云わせぬ暴力に対する恐怖がある。ニームが死ぬか、大怪我をしていれば、厄介な事になるという予測が頭をよぎる。しかしそれとは別に、理解不能の違和感がその場の全員の心を支配していた。


 仲間を中傷されて気に入らないのは分かる。戦友がいわれのない侮辱を受けて、黙っていられないのも理解できる。しかし、それに対する報復の度合いが常軌を逸している。


 何もそこまでしなくても―――あまりにも後先の事を考えない行動。営倉入りならまだしも、怪我人が、まして死人が出れば軍法会議にもなりかねない。


「あんなもんよ。あいつトルノを怒らせたら」


 しかしその場で唯一人、ネリアだけがそのトルノを知っていた。

 事の良し悪しはさて置き、あれは昔からそういう男だった。敵に回せばこの上なく厄介で、味方にするにも扱いづらい。


 無法も無法。目茶苦茶だ。しかしだからこそ、世界の誰が敵になってもこの男だけは手の平を返さないと、理屈を抜きに信じられる。


 一度仲間と認めた以上は、味方に付くのに理屈も利益も必要としないのがトルノ・バンクロイドという男だ。その判断に、この場合もあの場合もありはしない。

 仮にこの件でミラに落ち度があったとしても、やはりトルノはニームを殴っただろう。仮にミラが一時の侮辱をやり過ごす事を選んだとしても、やはりトルノは殴っただろう。


 その確信が、ネリアにはあった。


 鼻を鳴らしたトルノが、開いた右手を一振りして部屋を出る。出掛けにビールを一本、掴んでいった。次にミラが出て行くと、そこでようやく医務室の軍医が駆けつけて来た。


「オレに腕が無いのが悔やまれる」


 ジャグがそう呟くのを、信じられない物でも見るような目でソニアが見た。



◆ ◆ ◆



 錆の浮いた鉄扉を開いて屋外へ出ると、外はすでに日が落ちている。敵の本格的な襲来が未だ無いとは言え、最高レベルの警戒態勢が布かれた基地が灯火を制限しているせいで、冬の夜空には一面の星が輝いていた。

 ほんのわずかに潮の香りを運ぶ東からの風が、体温を心地よく奪うのに任せながら、トルノは滑走路脇の手摺てすりに身体を預けて空を眺めた。


「余計なお世話だったわね。大尉」


 後からやってきたミラが隣に並び、手摺に背中を預けた。

 ここに来るまでに少し走ったためか、吐く溜め息が少し白い。トルノがこちらを見ない事を、有り難くも、そしてわずかに不満にも思いながら、その後頭部をじっと眺めた。


「失礼しました。でも少佐が殴るよりは良かったと思いますよ」

「そうかしら」


 そう言って思案する振りをして、少し間を置き、そうかもね、と言葉を切る。この時のミラは、次に発するべに言葉を見つけられずにいた。

 より正確には、沸騰した感情から次々に浮かび上がっては消えていく言葉の、そのどれもを選ぶ事ができなかった。


 まずは感謝か。トルノが手を出すのが半瞬でも遅ければ、ニムを殴ったのは自分だっただろう。

 それとも行き過ぎた行為への叱責をか。いつまで経っても軍人としての秩序を軽んじるその性格を、いつもの調子で諭すのか。

 立場も評価もどこ吹く風で、己が命まで物のように扱う危うさを。自分が我慢に我慢を重ねていたものを、いともあっさり台無しにした蛮行を。人のことを救っておいて、恩に着せるでも悦に入るでもないその仏頂面を。全てをまとめて何様なのかとなじってやりたい気もする。


 しかし、ふと気が付くと、ミラは急に可笑しくなった。考えれば考えるほど悪口しか湧いてこない。

 では何故、自分はトルノを追いかけたのか。


 腰のポケットから潰れてれた箱を取り出したミラは、安物のライターでタバコに火を付けた。

 深く吸い込み一気に吐き出す。本当に疲れた時に月に一本吸うかどうかで、とうに湿気てしまったタバコは、思った通り味は良くない。


「パイロットがタバコとは、少佐も人間でしたか」

「それが人間の証明なのには、多少の異議があるけれど」


 心肺機能が命綱のパイロットとして、喫煙は褒められた行為ではない。しかし、久し振りのニコチンを摂取したお陰で、ミラの気分は少し落ち着いた。


「俺にも一本下さいよ」

「進んで共犯者になってくれるなんて、優しいのね」


 仲間を見つけた悪童の笑みを浮かべるトルノに、ミラが箱を差し出す。

 と曲ったタバコをくわえたトルノが首を少し傾けたのは、ライターをせがんだつもりだった。


 ミラの動作はスムーズだった。身を引く隙も与えられず、トルノの首に腕が絡んだ。

 顔を寄せられるとシャンプーの香りが鼻をくすぐり、紫煙の匂いがそれを掻き消す。頬の熱を感じる距離で、曲がったタバコに火種が移った。


「意外?」

「意外だらけですよ、今夜は」


 細く煙を吹きながら、小さなほくろのある目尻を下げてミラが微笑む。その横顔を見たトルノは頭を振ると、こきり・・・と首を鳴らした。


「……飲み直しますか。まだ早いですし」

「そうね」

「…………」

「誘っておいて、意外そうな顔をしないで」

「明日は弾道ミサイルでも降ってくるか、と」


 槍のように尖った肘が脇腹を突く。大袈裟に身体を折って「痛え」と笑ったトルノは、スタスタと歩き出す上官の後を追った。

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