一軒家な珈琲店

天白あおい

第1話

 チリーンチリーンチリン


俺は割れ物を扱うかのようにそっとドアを引いて、喫茶店らしい所に入る。入った途端、珈琲独特のいい香りが鼻を抜ける。店の雰囲気も落ち着いていて、非常に好印象だ。


ところでらしいと言うのも、そこが一見普通の一軒家のようだったからだ。ドアの横にある小さな板の営業中の文字と珈琲らしきイラストを見なかったら、今も気づかず仕舞いだったに違いない。


それが、いつからあるのかは分からない。ただ、この家自体は俺が越してきた時にはすでにあった気がするので、単に気づいていなかっただけの可能性が高い。


「いらっしゃいませ。」


店であったことに安堵しつつ、声のした方を見やり、少し驚いた。この店の雰囲気と先ほどの声質から店主はスーツ姿のイケおじだと決めてかかっていた。が、しかし俺の目に映ったのは私服の30代あたりの男だった。ちなみに俺は今年で23だ。


「空いている席にどうぞ。」


言われるまま、カウンターに腰掛ける。ちょうど店主の前に座る形となった。


「思ったのと違いましたか? 」


店主が軽く微笑みながらそう言ってきた。どうやら顔に出ていたらしい。


「あ、いえ。そんなことは……」


俺がそう言うと、店主の乾いた笑い声が店内に響いた。


「いいんですよ。ここに初めて来られたお客さんは、皆そのような顔をしていらっしゃいますから。」


どうやら店主は気さくな人らしい。人当たりの良い笑顔を向けてくる。


「すいません。ちょっとイメージと違ったものでして。」


「まぁ、これは完全に私の趣味ですからね。一昨年の夏に始めた時からずっとこんな感じで。」


驚いた。俺がここに越してきたのが約3年前。自宅から割と近く、それなりに通りかかることが多かったのに今の今まで気づいていなかった。


「3年くらいここにいるはずなのに、全然気づかなかったです。でも、私はこのお店の雰囲気、好きですよ。」


気づけば正直にそんな感想を口にしていた。店主は嬉しそうに目を細める。


「ありがとうございます。お客さんはこのあたりにお住まいで? 」


「はい。実は3年前にここに越してきまして。実家が奈良にあるのですが、ここは海が近くて3年経った今でも新鮮です。」


奈良に住んでいたから、海を見るのは夏に一回、家族旅行で見るくらいだ。


「はー、奈良から。と言うことは鹿ですか。」


ここにきて何度目かもう忘れた質問をされる。この質問に気を悪くする人もいるらしいが、俺は特にイライラすることもない。


奈良出身の俺でさえ、鹿と大仏、飛鳥関係に、ラーメンとかき餅とラムネと柿の葉寿司と漬物。あと川と森。確か美味しいかき氷屋さんがあるんだっけか。それくらいの知識しかない。小学校の教科書には、梅と柿の生産量が和歌山に次いで二位だと書いてあった気がするが今がどうなのかは知らない。


「まあ、そうですね。私は奈良公園の近くに住んでいたわけではないので、よく分からないですが。奈良全域に鹿が放し飼いになっている訳ないですしね。」


そういつもの定型文を口にする。すると想像でもしたのか、可笑しそうに笑い、


「それはそうだ。いやー、おかしなことを言ってしまいました。私は奈良に行ったことがないもんで。噂を鵜呑みにするのはやはり良くありませんね。」


と言う。そして俺も笑いながら答える。


「奈良を勝手に鹿のサファリパークにされちゃ困りますよ。」


それから変に想像してしまったのか店主はしばらく笑っており、俺も楽しくなって気づけば笑っていた。


不思議なもんだ。元々俺は人と話すのが苦手で、人見知りだと言うのに、初めて会ったはずのこの店主とは何故か普通に話せている。これが、店主の才能か店の雰囲気かなんなのかは分かりかねるが。

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