ブレーメンは隘路に

灰月 薫

第1話 マイナスが尽きない才

バンドを辞めようと思った。


そう思ったのは、電車内で座席に身を委ねている時。


ふと、そう思ってしまった。


……別に嫌いなわけじゃあないのに。


バンドのメンバーも、ライブも、ステージも。


全部、嫌いなわけじゃあないのに。

むしろ好きな方なのに。


……なのに、辞めたいと思ってしまった。


ごくごく自然に、胸の内から湧き出すようにそう思った。


行き場のない指が、無意識のうちに自分の膝の上を踊る。


何度も何度も鍵盤の上をなぞった指。


……あぁ、ミスった。


脳裏に浮かぶ鍵盤から、ほんの少しだけ指が外れる。


それは幻覚からの乖離か、はたまた、電車の微かな揺れか。


……分からない。


分からないけれども、その一音のミスが本当に憎たらしくてたまらなく感じた。


「連絡しよう」


誰に?

バンドメンバーに、だろうな。


でも誰に言えば良いだろう、こんなこと。



どんな手段で?


電話は何となく気まずいかもな。

LINEだったら言えるかも。



面倒くさい。


たったバンドをやめるだけで、こんなに億劫とは。



「あーあ」



こんなことなら、バンドなんてやらなくちゃよかった。


本当に、馬鹿な私だ。




* * *



「しのちゃん、バンドやってるって本当?

何の楽器やってるの?」


クラスメイト達が私に__私、犬飼いぬかいしのに__こんな事を聞くたび、私は眉を顰めなくてはならなくなる。


だって、みんなが想像している「バンド」とは、生憎ギターとボーカルだけだろうから。


…まぁ、あとは有ってもベースとドラムか。


少なくとも、キラキラとしたイメージが、彼女達の中では出来上がってしまっている。


それは無意識のうちに固まって、私みたいなを許してくれない。


……別にマイナーな楽器なわけでもないのに。

割とどこのバンドにもいる楽器なのに。


それでも、彼女達のイメージの中には私はいないのだ。


だから、私が自分の担当楽器を告げる度、彼女達はほんの少しだけ残念そうな顔になる。


「キーボード」


__なんだ、キーボードかよ。


そう言いたげな視線が、私に突き刺さる。


勝手に期待したのはそっちでしょう?


勝手に失望したのに、私が悪いみたいな顔をするな。


それでも私には何も言い返す術はない。


言い返してしまったら、きっと私はキーボードを嫌いになってしまう。


キーボードがバンドの「邪道」なのだと認めとしまうようで、それがすごく嫌だった。


私に出来るのは、ただ笑って、話題が過ぎるのを享受するだけ。


それだけだった。



* * *


「これに出ようよ!」


同じクラスの兎馬とばさんが話しかけて来たのは、今から2ヶ月くらい前のことだった。


やけにキラキラとしたその両目。


___そして、その手にはポスターが一枚。


“高校生限定!コピーバンドの大会”


やけにキラキラととした字で書かれたポスター。


それだけで、私はなんとなく彼女の言わんとしていることを悟った。


「……バンド、組みたいの?」


我ながら冷たく言ってしまった、と思う。


まぁでも仕方がないよね。


私は心中でそう言い訳する。


兎馬さんは、いわゆる“陽キャ”というやつだ。

いっつもクラスの真ん中でニコニコしている人。


明るい、うるさい、そんな人。


バンドをやりたいだなんて……どうせ私のこと、ネタ枠としての人数合わせくらいにしか思ってないのだろうから。


……でも。


でも、兎馬さんは、その綺麗な顔をくしゃりと歪めた。


凄く嬉しそうに、頷く。


「そう!

この間、ヴィルヘルムのライブに行ったの。

そしたら……もう、凄くて…!

言葉に表せないくらいなんだけどさ、とにかく、あんな風に演奏できたら……って思っちゃったの!」


それはあたかも、子供が宝物を見せびらかすように。


彼女は弾んだ声で言った。


__本当に好きなんだな。


その笑顔が眩しくて、私は思わず目をそばめた。


本当にバンドをやりたい。

そう思っていることは彼女の一挙一動から、ひしひしと伝わってきた。


「だけど」


早く帰りたいな。


そう思いながら、私は口を開く。


「だけど、それ私じゃなくていいでしょ」


彼女の思いは、一過性のものなんだ。


数日も経てば、何事もなかったかのように消え去る情熱でしかない。


ピアノを長年やって来たから。

辞めた人を何人も何人も見て来たから。


だからこそ、私には分かる。


そもそもヴィルヘルムって言うのも、最近流行りのガールズバンドの名前。

いつ流行りの渦に消えてもおかしくないんだ。


「……」


ポカン、と兎馬さんが目を見開く。


そりゃそうだろうな。


兎馬さんにしても、悪気はなかったのだろう。

ただただバンドというものに憧れて、ただただ目に入った陰キャに声をかけた。


それだけだったのだろう。


それなのに、こんなに冷たく言われるだなんて。


嫌われただろうな。

いや、嫌っておいてよ。


そもそも、私と貴方兎馬さんでは住む世界が違うんだから。


彼女は、急にきゅっと口を結んだ。


怒ったように、その眉が逆ハの字になる。


「……じゃないと駄目」


そして、そう言い切った。


「私ね、しのちゃんにずっと憧れてたんだよ。

知らなかったでしょう、私が話しかけなかったから。

……去年の合唱祭で、凄い綺麗な伴奏を弾く人がいたの。

楽譜通りなんだろうけど……それでも、すっごい楽しそうに弾いてた。

それがむぎちゃんなんだよ?

だから私……しのちゃんとやりたい」


息継ぎの音は聞こえない。


ぎゅっと絞り出すように、彼女は一息にそう言ってしまった。


「しのちゃんと、同じステージに立ちたい!」


そう、言ってしまった。


「……え」


それはあまりに洪水のようで、私にすら呼吸を許さなかった。


思い出したように、私は大きく息を吸う。


……そんなこと言ったって。


彼女が舌の上でどんな事を転がそうとも、何も状況が変わったわけでもない。


きっと私は人数合わせだろうし、きっと彼女はすぐに飽きてしまう。


そうなのだけれど。


“同じステージに立ちたい”


こんな事を言われたのは初めてだったから。


「……一回だけ」


ぼそり、と私はつぶやく。


本当に一回だけだ。


一回だけ……同じステージに立っても良いかもしれない。


そう結論を出す前に。


「そのバンドの大会だけなら、良い」


私はそう口走っていた。


「い……良いの!?

やったぁ…!」


兎馬さんが、子供のように跳ね回る。


……嫌だな。


私の口は、私自身よりも随分と馬鹿正直みたいだ。


「これからよろしくね、むぎちゃん!」


「……うん、よろしくね」


キラキラとしたその笑顔が、ふと、素敵だと思えてしまったのは……喉の奥に飲み干しておこう。

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