第25話 マンションに住む老婆


「ごめんください、料理教室でお世話になった生徒の汐田ですが――」 

 

「ああ、こんにちは。お久しぶりねえ。今、ロックを解除するから来てちょうだい」


 真夕子の声が響いた瞬間、私はほっとしたような後ろめたいような奇妙な気分になった。


 ――今日は調査じゃないんだ、構えてたら却って怪しまれちゃう。


 私は真夕子の部屋の前に立つと、深呼吸をひとつしてドアを開けた。


「先生――」


 私が沓脱から奥のドアに向かって声をかけると、「どうぞシオタさん」という女性の声が返ってきた。


 ――真夕子先生の声じゃ、ない?


 私は声質の微妙な違いを訝しみつつ、奥に進んだ。


「……えっ?」


 リビングのドアを開けた私が目にしたのは、想像とはまるで異なる風景だった。


「な、なんなのこれ……」


 私は声を上げると、ドアの前で固まった。広いリビングの真ん中には見たこともないほど邪悪な目をした真夕子が立ち、フロアの隅にはぐったりしている千尋の姿があった。


「――千尋!」


 私が呼びかけても、千尋はぴくりとも動かなかった。


「どういうことですか、先生」


「あら、まだ私を雨宮真夕子だと思っているの?探偵にしてはお粗末ね」


 真夕子の顔をした女性はそう言い放つと、縛っていた髪をほどき始めた。女性の顔は私の見ている前で波打つように変化し、黒髪がみるみるうちに灰色へと変わっていった。


「あなたは……」


 私は絶句した。女性はほんの数秒で、見たこともない謎の女に変わっていた。


「私はグライアイ三姉妹の一人、ディノ―。あなたにもキメラを分けてあげるわ」


「分けてあげる?」


 身の危険を感じて後ずさろうとした私に突然、頭上から黒い影が襲い掛かった。


「きゃああっ」


 影はぬるりとした両生類のような姿で、蛇ににた小さな頭部が何本もつき出ていた。蛇は私の首に巻きつくと、舌で首筋を舐め始めた。


「助けて……」


 舌が身体の表面を撫でるたびに、痺れるような不快感が身体を駆け抜けた。私は直感的に、このままでは生命を吸い取られてしまうと思った。


「安心おし。簡単には殺さないよ」


 いつの間にか口調まで変わった真夕子――ディノ―はそう言うと、老婆のような掠れた笑い声を立てた。


 もう駄目、もう少し警戒していれば――私が観念しかけた、その時だった。ふいに首筋から舌の感触が消えたかと思うと、怪物が見えない手でむしり取られたように床にたたきつけられた。


「い……いったいなにがどうなったの」


 私が胸を押さえて咳き込んでいると、ディノーと名乗る女は「誰だい、邪魔をするのは!」と叫んだ。


「……その前に、あんたこそ何者なんだい」


 ふいに背後で声がして、私ははっとした。この声は、まさか――


「お前は……」


 ディノ―が絶句し、私は思わず振り返った。いつの間に現れたのか、入り口のところに身長の違う二つの人影が並んで立っていた。


「石さん……テディ!」


 眼鏡をかけた小柄な男性と、髪を後ろに撫でつけた男性――絶体絶命の危機に陥った私の前に現れたのは、石亀と荻原だった。


「誰だか知らないが、うちの上司におかしなものをけしかけられちゃあ困るんだがな」


 前に進み出てそう言い放ったのは、テディこと荻原だった。


「くっ、応援を呼んだか。……仕方ない、一からやり直しだ。いいか、この次はないと心得るがいい、探偵」


 ディノ―がそう叫ぶと大きな音を立てて窓が開き、砂塵のような灰色の渦が部屋の中に吹きこんできた。


「――うっ」


「ボス、目を閉じて!」


 吹き荒れる砂嵐に身を縮めて耐えているとやがて風の音が止み、頬に当たる砂の気配がふっと消えた。


「……逃げたか。どうやら悪党どもの間で、有名人を語るのが流行ってるみたいだな」


 荻原は窓の方に目をやると、「勤務時間外に罠にかかるなんて、いくらボスでもやり過ぎですぜ」と言った。



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