第21話

「結局は思い過ごしだった訳か」

 丞玖の口調は、どことなく、ほっとしたように聞こえた。

「何て言ったらいいか。でも、これで納得できたのよね」

 未優も心なしか安心したようだ。

「だけど……」

 言いかけて止めた。では、あれは誰だ。真咲が見たあの女性は、いったい誰なのだ。脳が作り出した幻覚。思い込みと記憶の混乱による妄想。そうなのだろうか。本当に、そうなのだろうか。吹雪の音を聞きながら抱きしめられた暖かい胸。大切な記憶。それを夢だと、妄想だと切り捨てることは、真咲には出来なかった。



「……という訳で、日本神話におけるイザナミが最初と言われる「呪い」というものが、現代まで連綿れんめんと受け継がれているということだ。そこ、欠伸あくびするなよ。試験に出すぞ。配点は無いが、優等生の君たちは×が増えるのは嫌だろう。それからもう一つ」

 例によって教科書とは全く関係のない話である。この学校の中等部では、雑談によって生徒の心をつかむことによりすみやかに授業に集中させるという裏技を使うのが昨今のブームらしい。

「いいか、よく覚えておけ。呪いは長く潜伏せんぷくするんだ。そして、呪詛じそを受けた者がそれに気付いた時に動き出す。呪いというものは、んだ」



 真咲は夢の中にいた。外では雨が降っている。窓を閉めなきゃ。起き上がり、電気をつけようとしてスイッチを押すが、何故か部屋は暗いままだ。寝返りを打って目を覚ます。布団の中にいた。安堵あんどした後に感じる違和感。ここはどこだろう? 自分の部屋ではない。畳の上に敷かれた布団。古ぼけたふすま、狭い和室。

 障子しょうじの向こうから差し込む弱々しい光。そうだ、ここを開けば……。

 氷霧ひょうむの中、女の後ろ姿があった。長い黒髪、折れそうに細い体。雪に落ちた鮮血のように赤い色をしたはかまが、目の前で微かに揺れた。

 母の袴は何故こんな色をしているのだろう。真咲を産んだからだろうか。真っ赤な血にまみれて、母は死んだのだろうか。

──お母さん。

 恐る恐る、呼びかける。

──どうして振り向いてくれないの? こっちを向いて。

 真咲は手を伸ばす。華奢きゃしゃな背中に手を触れると、冷たい感触があった。黒髪が揺れ、女が振り向く。

 白い肌、浮き上がった鎖骨さこつ。写真のままの母の顔。けれど何かが違った。切りそろえた前髪の下の大きな眼。けれど、その瞳の中は空洞だった。何もない、無という名前の暗黒。

 紅い唇が微笑の形に歪む。恐怖に身がすくんだ。動けない。暗黒の瞳から目を逸らすことも出来ず、真咲は足元から身体が冷えていくのを感じていた。凍えるような寒さが感覚を麻痺させ、思考が徐々に塗りつぶされていく。

 怖い──!

 夜を切り裂くような悲鳴が、真咲を辛うじて現実に引き戻した。


 幾度も見た悪夢は、これだったのだろうか。何故こんな夢を見るのだろうか。

 母は死んだ。真咲のせいで。真咲を産んだことで、母は死んだのだ。

 迎えに来たのだろうか。僕は、生きていてはいけないから。

──お母さん。

 初めて写真を見たときからの、恋心に近い想い。胸が苦しくなるほどの募る気持ち。

 堪らなく恋しい。けれど。

 真咲は怖かった。あの何も映さない空洞の眼が──とても恐ろしかった。



 何かの抑えが外れたかのように、幻聴が頻繁に真咲を襲うようになった。

 突如吹き荒れる吹雪の音。真咲を呼ぶ、か細い声。繰り返し、それが聞こえるようになった。頭の中に響くのではない。リアルに音として耳に届くのだ。授業中に突然辺りを見回し耳を押さえる真咲を、クラスメートたちは不思議そうに見ていた。

 怖い。けれど恐怖と同じぐらいの強さで、もう一つの思いが真咲を追い立てた。行かなければ。会いに行かなければ。呼んでいるから。

 お母さんが、呼んでいるから。

──おいで

 もう、その声にあらがうことは出来なかった。

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