通勤途上にて

差路 

通勤途上にて

午前六時五十五分。この時間のこの電車に乗車しなければ、私の住む郊外の住宅地から勤務先に間に合うことはない。乗車から一時間半かけて都心部に向かう。早起きも自宅から駅までの二十分という距離も、さして苦痛ではない。我慢ならないのは、車内から駅東口へ押し出されるまで、ひしめき揉まれるようにして長蛇の人波に身を置くことだ。《座り込み学生》という置物が入口付近や居心地のいい連結部周辺に蓄積されるため、キャパの狭まった車内は益々居辛い。立ち続けたのに追われるかのごとくプラットホームに降り、一群れに流されていけば、忍耐を通り越して怒りが込上げてくる。

 歩を進めながら階下を見下ろすと、今日も変わらず群衆が私の間を縫って、何者かの意思が働くのか、みな同じ方向へと前進運動を継続する。この光景はまたしても私に吐き気を催させ、歯磨きの清涼感を台無しにした。夏の盛りであれ寒風の中であれ、度外視の密着感とこの全体感は早朝から私の脳髄に不快感と苛立ちを味合わせてくれる。なんと甘美な自虐。このまま続けば暴発は免れまい。

 そして今日も、電車に揺られて駅到着まで艱難に立ち向かう。PHPで見た精神統一で僅かな抵抗を試みる。目を閉じて空間の密度を奈辺に追いやる。効果の如何に関わらず。

「おじさん」

「うん?」

 薄目を開けて集中を奪った者を見ると、それは目の前の席に座る女子高生だった。目鼻立ちのはっきりした、昨今では見ることのない淑やかな女の子だ。長い黒髪は膝の辺りまで伸びている。いったい誰だろう?

「あのねえ」

「ああ、何か用かな」

 私はこんな娘に邪魔されたのかと鼻白んだ。家でも息子と会話のない分身構えてしまう。

「……後六日だよ」

「う、うん?な、何がだね」

 またしても予期せぬ返事に戸惑う。

《○○、○○、お降りの際はお忘れ物なきよう後注意下さい。本日はご利用誠に有難うございました》。開いたドアに人が押し寄せ、アナウンスの声に気をとられたせいで、女子高生から目を離した。その隙に彼女はドアから外へ出てしまったらしい。私もホームに降り人波の只中へ身を浸すともう立ち止まれず、彼女を見出すことは出来なかった。

 帰宅後そのことを妻に話すと、「一言でも、そんな若い子に声掛けられたんだし」と妻は台所からおかしそうに言った。

「淳とだってここんとこ会話らしい会話してないんだぞ。向こうさんの勘違い、誰かと間違えてんだよ」

 私は、潰した缶ビールを屑箱へ放った。

「やめてよ、こっちに貸して。案外あなたうれしかったんでしょ?」

 屑箱から潰した缶ビールを取り出し、妻は私を見遣った。

 全く何を言ってるんだ。

 次の日も溢れかえる車中で目を閉じていた。あの女子高生に声を掛けられるだろうか。しかし到着のアナウンスが流れても、ドアが開かれても彼女は現れない。やはり誰かと間違えていたんだ。今日もまた人波に揉まれるのかと溜息を吐いた時、後方で「後五日!」と元気な声が上がった。

 押し出されながら振り返ったが彼女の姿はない。彼女のカウントダウンは何なのか?そう考えながら歩いていると、いつの間にか会社の入り口に辿り着いていた。その次の日またその次の日も、姿を見ないまま「後四日!」、「後三日!」と気を抜いた瞬間を見計らって声を掛けられ、あっ、と周囲を見渡すが姿がない。どこかで彼女のあの声を待ち侘びているのか、何故か少しだけ煩わしさが遠のいたようだ。

「後二日!」

 今日はめずらしい、彼女の後ろ姿だけ見られた。黒髪が光を放って美しかった。……馬鹿な、大の大人が。素早く階段を降りていく彼女。いったい誰と私を間違えているのか。

 「後一日!」の声を聞くはずだったが、朝目覚めるとだるさと熱っぽさで布団から出られず、その日は会社を休むことにした。妻が会社へ連絡を入れた後、「声が聞けなくて残念だけど、明日はその娘が言っていた日よ。安静にして明日を待つのね」と、部屋から出て行った。大人気ないが妻が言うように明日が待ち遠しかった。

 当日。いつものように電車に揺られ彼女を探したがやはり見当たらない。一日休んだせいで諦めたのかと思い少し落胆した。プラットホームに入る電車が急にガクンといって急停車した。微妙な位置でドアが開かれ、ホームへ降り立つと人波がいつもと違った。駅員が数人、電車前方に走り寄るのが見える。

 なんだか急に悪寒を覚え私も走り出て、人集りの出来ていた電車の前方へまわった。赤い液体が電車やホームに飛び散っていて、線路に誰かが倒れているのが見えた。

 それは、目を見開いて笑ったまま硬直している、あの女子高生だった。

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通勤途上にて 差路  @thurow

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