舟出事件
差路
第1話
雨宮という男が、東京からやって来てこの舟出という漁港に住みつき、幾年かを迎えたまだ暑さが滲み残る九月。事件は起こった。
事件当初、駐在の山下巡査の下に漁協の組合長である安川がやってきたのは、台風近接で港が慌しい雨の晩だった。
「面倒が起きた」
「何です、港で何かありましたか」
「いや、あのな、雨宮なぁ」
「ああ、また仕事サボりましたか」
山下は駐在所の奥で遅めの食事を摂っていたが、雨宮と聞いて、戸口に寄って立つ安川のに椅子を勧めた。雨宮は未だにこの港のやっかいな異分子なのだ。
「あの男らしいのが浜に揚がったぞ」
「えっ?何ですって?」
「だから、雨宮が浜に揚がったんじゃ。ここ数日漁協で見かけんと思うとったら、三吉の爺さんが今朝、浜でな」
「死んでるんですね」
山下は、分かりきってはいたが尋ねた。
「生きとったら、態々来ん。皆があんたを呼んで来いというから、わしが代表で来た」
安川は合羽の水滴を指で弾いた。見ると安川のせいで戸口がびしょびしょだ。
「大体わしが漁協の仕事世話してやったんに、日がな一日酒かっ食らってな。泳げんから漁にも出られん、荷揚げも出来ん言うて、いつの間にやら辞めてしもうた。ミサエの店に入り浸っとったが、ありゃ、天罰じゃな」
安川は形だけ合掌した。椅子には見向きもしない。
「で、遺体のほうは」
「漁協の傍まで運んだが、なんせこの暑さじゃ、えろう臭ってのう、カバーだけは掛けたが後のことはそっちでやってくれや」
「そうですか。じゃあ、すぐに行きますので、先に行っててもらえますか。本部に連絡を入れたら、自分も向かいます」
「ああ、頼む。皆は漁協の前に集めとく。全く、台風前に迷惑な話じゃ」
「それとなあ」と、安川は苦々しく言って、「ミサエなあ、あの男のこと知らせてやったら履物も履かんで跳んできてな、皆の前で雨宮に縋り付こうとするんで、引き離して漁協の事務所へ連れてったわ。男も男なら女も女じゃ」
「皆が言うには、雨宮に随分と入れ込んどったそうやが、アレもえらいヘタ摑んだもんじゃ」
安川のブツブツを聞きながら、山下は訝しがった。何故雨宮は海に行ったのか。
――雨宮、死んだんですね。
消沈したミサエは、山下に繰り返しそう尋ねた。メンソールの煙は指間から一度も途絶えない。
堤を打つ高波の音が一段と強まった。雨脚も強く、立て付けの悪い漁協の事務所は突風を受けて揺れが止まらない。これでは、本部の応援は明日以降になるだろう。
「雨宮は、港に近づくことさえ疎ましがっていたようですが、何故こんな事になったのか、あなたはご存じないですか」
少し落ち着きを取り戻したミサエに、山下は切り出す。
「あたしがいけなかったんです」
「どういうことですか」
「雨宮、東京で作った借金踏み倒して、ここまで逃げてきたんです。で、お店で話聞いてたらなんだか放って置けなくて……。援助とかしてたんですけど、埒が明かないからあたし、知ってる人紹介したんです」
高波の堤への体当たりの音は途絶えない。漁協の人間が台風への準備で走り回っているせいか、人声で外が騒がしい。
「そしたらその人から雨宮追いかけてる連中に話が伝わったみたいで、昨日雨宮と飲んでたらこの店に来たんです、あいつら」
「三吉の爺さん言っとった。タチの悪いのが浜にいたとか」と、安川。
「それで、雨宮に悪いと思ったからあたし、あいつらにウソを言って」
「ウソ?」
「漁協の積立金、県の銀行に預けるから、もしかしたら港のどの船かに積んであるんじゃないかって」
「そしたら雨宮、慌ててあいつらと出てって。まさかあんなことになるなんて……」
急に突風が吹いたのか、大きな衝突音がして近くで騒ぐ声が上がった。
「チッ、今日は厄日じゃ。だいたい船でやら運んだりせん。……すまんが出るぞ」と、言うと安川は声のしたほうへ飛び出していった。
山下は考えた。雨宮は港の二十数艘の中から在りもしない積立金を探して、酔ったまま誤って船縁から転落したのか。それとも連中に沈められ、自らが借金のカタになったのか。
台風が去った翌日、本格的な捜査が始まったが、舟出に連中の姿はなく、数日の後、ミサエは店を畳み、港から姿を消した。
舟出事件 差路 @thurow
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