第343話 モスクワ最終決戦(8)
イワンは信頼の出来る部下40名を引き連れて地下壕に突入した。中には手榴弾によって制圧されたソ連兵の死体が数体転がっている。それらを踏み越えて階段を駆け下りていく。と、その時、館の照明が全て落ちてしまった。配電盤に何かしらのトラブルがあったのか、ソ連兵が切断したのかは定かではないが、これで地下壕の中は真っ暗だ。
スペツナズは防毒マスクをしているので、暗視ゴーグルの装備ができない。小銃のオプションとして高輝度LEDライトがあるが、暗闇に隠れたソ連兵に対して、こちらの位置を宣伝するようなものだ。
イワンは思案する。スターリンを速やかに逮捕をしたいが、無理に突入すればこちらの被害も無視できない。スターリンの身柄と部下の命を天秤にかければ、やはり部下の方が大切なのだ。
「一度地下壕を出る」
イワンはそう命令を発して、全員を地下壕から待避させた。
「他に地下壕への出入り口があるかも知れん!館を隈無く調べ上げろ!」
スターリンが地下壕に潜んでいることは間違いないだろう。ならば、出入り口を全て押さえて封じ込めればいい。地上の制圧はほぼ完了したのだ。焦って部下を死なせることはない。
「イワン隊長!この地下壕の出入り口はあと二つあるそうです!捕虜に吐かせました!部隊を向かわせています!」
副官がイワンに報告をしてきた。何名かの捕虜を確保することに成功していたのだ。そして、“丁寧な”尋問によって地下壕の出入り口の情報を得ることができた。複数の捕虜が同じ回答をしたので、おそらく間違いはないだろう。
――――
「この中にスターリンが居るのか?」
イワン達スペツナズに合流した斉藤が問いかける。
「ああ、この中だ。強行突入してもいいのだが、スターリンごときのために部下を死なせたくは無いのでな。他の出入り口も押さえてある。逃げることはもう出来まい」
「そうか、じゃあ、安全に連中を無力化出来ればいいんだな」
そう言って斉藤は、スターリン達を安全に無力化する為の装備を手配した。
そして2時間後
多目的ヘリコプターによって、大量のボンベや薬品が到着する。クレムリンに持ち込まれたのは、セボフルランと亜酸化窒素だった。セボフルランは、21世紀において医療現場で使われている全身麻酔薬である。そして亜酸化窒素は“笑気ガス”と呼ばれる麻酔ガスだ。
これを適切な濃度になるように混ぜて、地下壕の入り口から流し込んだ。そして、別の入り口に吸気ファンを設置して地下壕の中の空気を吸い出す。こうすることによって、地下壕全体に、まんべんなく麻酔ガスを行き渡らせることが出来る。
待つこと6時間
空気ボンベを背負ったスペツナズ達が地下壕に突入し、意識を失っているスターリン達を確保した。
――――
「最後はあっけなかったな」
宇宙軍本部で、高城蒼龍達はスターリン確保の一報を聞いていた。皆一様に安堵した表情をしていた。
「科学の勝利だよ。ソ連がジュネーブ議定書に参加していなくて本当に良かった」
森川大尉がそれにこたえる。ソ連がジュネーブ議定書を批准していれば、日露は催涙ガスや麻酔ガスを戦闘で使用することは出来なかった。そうなれば、もっと悲惨な状況になっていただろう。
「それでも、かなりの死傷者は出てしまった。モスクワ攻略で、連合軍の死者が合計2800名だ。モスクワ市民の犠牲も2万人を超えている。戦争なんて本当にするものじゃ無いな。人的資源をはじめ、あらゆるリソースの無駄遣いだよ。人類にとって最も愚かな行為といえるね」
高城蒼龍は報告書を読みながら大きなため息をついた。自分たちは安全な場所から戦争を指導していた。前線の兵士達の中には、卑怯者と罵る者もいるかも知れない。国内の左翼系機関誌では、軍中枢を非難する論調がある。
「ベルリンで核兵器の使用を許してしまったのは痛恨の極みだよ。核爆発によってベルリン市民15万人と英仏軍兵士8000名が死亡、負傷者はその数倍だ」
高城蒼龍は悔しげに言葉を紡ぐ。ドイツが核開発をしていることはわかっていた。しかし、どんなに手を尽くしても、その研究施設の場所を特定することが出来なかったのだ。ヒトラーを事前に暗殺することも検討されたが、直接的にユダヤ人虐殺を実施する前に暗殺することはためらわれた。あからさまに国際法を逸脱するようなことは出来ない。史実でも、イギリスやフランスは何度もヒトラー暗殺計画を練り上げたが、最終的に実行に移されることはなかった。
それに対して、ソ連に対する要人暗殺はロシア帝国によって実行されていた。これは、ロシア帝国国内において、反乱分子が犯罪を起こしているという建前だからだ。ベリヤの暗殺も、万が一露呈した場合はロシアの国内問題であると強弁する予定だった。それでも、スターリン暗殺を何度も実行したが、全て失敗に終わっていたのだ。20世紀前半と言っても、強力な独裁者の暗殺は容易では無かった。
「まだムッソリーニが残っているけど、もう時間の問題だろう。それより、バルカン半島や中央アジアの民族問題には火種があるから、そっちをなんとかしておかないと禍根を残すことになるよ」
史実では、凶悪で強大なソ連の支配があったからこそ、中央アジアや東ヨーロッパで紛争が押さえられていたという側面がある。事実、1990年にソ連が崩壊した後は、バルカン半島や中央アジアで民族自決の気運が高まり、ユーゴスラビア内戦やタジク、チェチェンなどで内戦が頻発した。
教育の行き届いた20世紀後半でも、悲惨な民族浄化が行われたのだ。20世紀前半の現在において、これらの地域で内戦が発生すればより惨いことになるのはあきらかだった。
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