第226話 マルタの嵐(9)

インド洋


 補給艦大隅は、数隻の駆逐艦に護衛されながら日本を目指していた。欧州派遣艦隊に物資を届けた後、傷病兵や難民、破損した兵器を積んで帰路についている。


 難民の多くはドイツやポーランドから逃げてきたユダヤ人だ。ウラジオストク周辺に、ユダヤ人の国家を建設することを日英共同で発表したため、ユダヤ人難民の移送が始まっていたのだ。そして、人道支援の観点から戦災孤児等の保護も進めていた。


「おーい!走ると危ないぞ!」


 インド洋の照りつける太陽の下、甲板では難民の子供たちが追いかけっこをしている。


「志手(しで)おじちゃん!」


「おいおい、何度言えばわかるんだ、エミリー。おれはまだ27歳だ。おじちゃんじゃないんだぜ」


「あはは!おじちゃんはおじちゃんだよー!」


 そこへ、ジョルジュが寄ってきて志手に話しかける。


「ねぇ、お姉ちゃん、帰ってくるかな?」


「ああ、そうだな。ジョルジュとエミリーが良い子にしていれば、きっと帰ってくるさ・・・」


 保護者を失ったジョルジュとエミリーは、日英協議の結果、難民として日本が受け入れることになった。


 家宅捜索を受けたときに、エミリーは何が起こったか良くわかってはいなかったので、ミシェルは出稼ぎに行っていると伝えてある。しかし、少し大きいジョルジュは、姉のミシェルが悪いことをして、ケーサツの人が捕まえに来たのだと理解していた。だから、不安で毎日のように、志手に問いかけてくるのだ。


 ミシェルの家の家宅捜索では、カメラと未使用のフィルム、そしてある程度の現金は出てきたが、それ以外の証拠は一切見つからなかった。メモ等はすぐに暖炉で燃やしていたのだ。そして、中年スパイのアジトからも、具体的なスパイ活動に関する証拠は見つからなかった。見つかったのは、暗号表と多額の現金、違法に所持していた武器、そして未使用のフィルムだけだ。


 ※家宅捜索は、日英合同で行われた


 唯一の証拠は、逮捕された当日に中年スパイに渡したフィルムだけだった。そのフィルムには、丘の上から撮った日本艦隊の写真と日本軍連絡所の様子、そして、町中を歩く日英軍人の写真が写っていた。イギリス軍の駐屯地から少し離れていたために、イギリス軍の兵器は一切写っていなかったのだ。


 また、志手が漏らしたと自白した、艦隊の情報を示す証拠も発見されず、裏付けが一切取れなかった。ミシェルも、志手からは何も聞き出せなかったと、頑なに証言している。


 その為、志手に対しては軍法において起訴猶予とされた。今世では、軍法であったとしても、証拠も無しに自白のみで有罪には出来ない。しかし、不適切な行為があったとされたため、予備役に編入され日本へ送還されている途中だ。これは、宇宙軍枡大尉が何かしらの根回しをしたわけでは無い。最終的に、海軍の判断でそのような決定がされたのだ。枡大尉は、海軍は身内の不祥事を隠したかったのだろうと考えた。


 そしてミシェルと中年スパイの取り調べが終わった後、二人の身柄はイギリス軍に渡された。中年スパイの方は偽造身分証と偽造軍服を持っていた為、イギリス軍によって引き続き取り調べを受けている。しかしミシェルの方は、唯一の証拠である写真に、イギリス軍人数名が写っている程度と、有罪にするにはあまりにも証拠が少なすぎた。ミシェル本人の自白では、日本海軍連絡所の兵士から聞き出した情報をスパイに渡すことが主な内容で、イギリス軍との接触はほとんど無いとのことだった。そして、マルタ島に駐屯しているイギリス軍人への聞き取りでも、ミシェルと会話をしたことがあるという兵士は、一人も現れなかった。もちろん、多少会話をしたことはあるのだろうが、皆、自分が処罰されるのを恐れて言わなかったのだ。そして、中年スパイの方も、一切の証言を拒否しており、有力な情報は引き出せていない。


 二人を逮捕した宇宙軍でも、ここまで証拠が出てこないとは思っていなかった。確実に有罪にするには、もっと証拠を押さえてから逮捕した方が良かったのだろうが、情報漏洩を早期に止めることを優先したために、フィルムの受け渡し現場での現行犯逮捕に踏み切ったのだ。


 このままでは、ミシェルを処罰できないと焦ったイギリスは、摘発した日本に申し訳ないとでも思ったのか、日本軍に身柄を戻す事にした。イギリスの法律で有罪に出来るだけの証拠が揃わなかったので、日本の法律で処罰をして欲しいとの意見書が付けられていた。他のスパイと横の繋がりは確認できず、これ以上取り調べをしても、何も出てきそうになかったことも影響したようだ。


 そして、日本海軍連絡所や艦隊の写真を撮影してスパイに渡していたため、「軍機保護法(明治32年7月15日公布、昭和12年8月14日改正)最高刑は死刑」の第八条違反に刑法の海外犯規定を援用し、日本の法律によって裁かれることになった。


 ※軍法を民間人に適用するためには、軍人との共犯や、特定の犯罪(破壊工作など)に限られる「海軍軍事会議法(大正十年)」。志手が起訴猶予とされた為、ミシェルを軍法で裁けなくなった

 ※治安維持法は、今世では廃止されている。ただし、史実の治安維持法でも、外国人の海外犯を取り締まることは出来ない


 そして、ミシェルの身柄は日本での裁判を受けるため、この輸送艦大隅を護衛している駆逐艦の営倉で拘禁されている。しかし、その事は志手にも伝えられていない。


「日本に帰ったら、この子達を育てなきゃな」


 志手は、ミシェルの為にも二人を育てると誓うのであった。


 ――――


 枡大尉は、ミシェル事件の報告書を作成し宇宙軍本部に送信した後、電気ポットでお湯を沸かす。そして、お気に入りのアールグレイを茶筒から出してティープレスに入れ、お湯を注ぎ込んだ。


 枡大尉は、紅茶が出来上がるまでしばし瞑目する。


 結局、ミシェルは日本の軍機保護法で裁かれることになったが、第八条違反であれば最高でも七年以下の懲役だ。数年間は服役するだろうが、死刑にされることは無いはずだ。


『・・・以上で法学Ⅰの講義は終了だ。犯罪は法律によって厳格に裁かれなければならない。しかし、量刑に幅が持たされていることの意味も忘れてはいけない。市井の民が犯罪に手を染めるのは、国家にも責任があるのだ。食べるものに困らず、明日の生活に不安がなければ、合理的な人間なら犯罪に手を出すことはない。豊かで安定した国は犯罪が少なく、貧しく政情不安な国は犯罪が多いのはその証拠だ。我々の責務は、人々を豊かにして犯罪を犯さなくても良い世界を作ることなのだ』


 士官学校の法学の授業で、講師の高城蒼龍が言った言葉を思い出していた。その時は、正義面をする青臭いヤツだと思ったが、今ではその言葉の意味が良くわかる。


“高城大佐の考える未来には、戦争や貧困は無く、人々の幸せがあふれているんだろうな”


 そして枡大尉は、このおいしいアールグレイを、誰もが自由に楽しめる世界にすることを誓うのだった。

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