第210話 フィンランド戦線(1)

 時は少し遡る


 1939年12月20日


 フィンランド コッラー地方


 パンッ


 ソ連軍歩兵中隊隊長のベズルコフ大尉は、自分のすぐ後ろで何かがはじけたような音を聞く。そして、それに続いて遠くからパーーーーンという銃声が聞こえてきた。


「隠れろ!スナイパーだ!」


 雪の中を進軍していたソ連兵は、すぐさま伏せたり木の陰に隠れる。兵士達の心拍数は上がり、極寒の中にもかかわらず全身から汗が噴き出す。この部隊は歩兵中隊なので、車両などの随伴はない。車両の通れない山道を通って、敵陣地を急襲する事が任務だった。だから、隠れる場所と言えば、木の陰くらいしかなかったのだ。


 しかし、一人だけ隠れることのなかった兵士が居た。最初の“パンッ”という何かがはじけるような音と共に、顔から大量の出血をして仰向けに倒れているコーコフ中尉だ。


 コーコフ中尉の顔からは激しく血が流れ出し、真っ白な雪を真紅に染めていく。まだ心臓は動いているようだが、誰も助けに行こうとはしない。敵のスナイパーは、仲間の兵士を救おうとする“優しいソ連兵”を待っているのだ。


 今駆けだして、コーコフ中尉を木の陰に引っ張ることが出来れば、助かるかもしれない。しかし、残念だがそれは決して実現することはない。スナイパーは、仲間を助けようと飛び出してくる兵士を待ち構えている。誰かが木の陰から出て行けば、その瞬間に二人目の犠牲者となるのだ。


「おい、お前達!右側から回り込んで、敵の位置を確認しろ!」


 ベズルコフ大尉は、この中隊の比較的後ろを歩いていた兵卒に、指示を出す。あの位置なら、敵のスナイパーの射線から外れているのではないかと思う。そして、狙撃手はおそらく前方300mから400mの間にいるはずだ。側面から回り込めば、排除できる可能性がある。


 そして、命令を受けた兵卒が移動を開始しようとした瞬間、


 パーーーーーーン!


 その兵卒の頭が半分吹き飛んでから、銃声がこだました。


「くそっ!これじゃ動けない!」


 敵のスナイパーは何人いるのかもわからない。無線機なども無いので、応援も呼ぶことは出来ない。ベズルコフ大尉は、スナイパーと我慢比べをする事にした。


 このままじっと、スナイパーが諦めて撤収するのを待つのだ。


 そして、そのまま1時間が経過した。時間は14時をまわったばかりだが、もうすぐ太陽は沈み暗闇が訪れる。気温は-15℃だ。物陰に隠れたまま動かないと、寒さで凍え死にそうになる。しかし、誰も動こうとしなかった。先ほど、様子を見ようとした戦友のその頭が、一瞬にしてはじけ飛ぶ姿を見せつけられたのだ。木の上から時々雪が落ちてくる。指先や鼻の頭は冷え切っており凍傷になってしまうのでは無いかと危惧される。しかし、だれも動けない。彼らは皆、恐怖によって縛られていた。


 さらに30分が経過する。


 中隊を指揮するベズルコフ大尉は、兵卒の一人に様子を見るように指示を出した。狙撃されてからもう1時間半も経過している。敵のスナイパーは撤収していると思いたいが、それを確認する必要があったのだ。その為、一人の兵卒に斥候を命じた。


 その兵卒が、木の陰から頭を出しても撃たれないようなら、敵のスナイパーは撤収している。もし、その兵卒が撃たれればまだ撤収していない。非常にわかりやすい確認方法だ。


 しかし、それを命じられた方はたまったものじゃない。だが、命令に従わなければ、自分を待っているのは反逆罪としての不名誉な銃殺だ。反逆者として確実に死ぬか、もしかしたら死なないかも知れない任務のどちらかを選べと迫られている。そして、現実的には選択の余地など無いのだ。


 その兵卒は、自分の帽子を脱いで小銃の銃口に引っかける。そして、その帽子をゆっくりと木の陰から出してみた。


 しかし、銃声は響かなかった。辺りからは全く音は聞こえない。雪によって、物音はほとんど吸収されてしまい、この一帯を静寂が支配していた。


 その様子を見ていたベズルコフ大尉は安堵する。さっきは木の陰から出た瞬間に撃たれてしまった。しかし、今回は帽子を木の陰から出しても撃っては来なかった。


「良し!大丈夫だ!迂回して様子を見てこい!」


 命令を受けた若い兵卒は、ベズルコフ大尉の方を見て力強くうなずいた。本来なら復唱しなければならないのだろうが、なんとなく、音を出すことがはばかられるような気がしたのだ。


 そしてその兵卒が、ゆっくりと木の陰から出て回り込もうとしたその瞬間、


 パーーーーーン!


 またもや、その兵卒の頭がはじけ飛んでしまったのだ。


「くそったれ!」


 ベズルコフ大尉は、日が沈み暗闇が来るのを待つことにした。太陽の光が無ければ、さすがに狙撃は出来ないだろう。いつもは恐怖でしか無い暗闇が、今日は恋しくて仕方が無かった。


 15時20分


 太陽は西の空に沈みかけていた。ソ連軍部隊から350m離れた場所で銃を構えていた小柄な男は、少しずつ後ろに下がり、稜線の陰に隠れたことを確認してから立ち上がった。そして、懐からメモを取り出し、三つチェックを書き込んだ。そのメモに書かれたチェックは、既に200を越えている。


 ベズルコフ大尉の中隊は、夜になったので木の陰から身を出し始める。さすがに、敵のスナイパーも撤収したようだった。そして、もう行動は出来ないので、すぐに雪洞を掘ったりツェルトを設営して野営の準備に入る。


 ※ツェルト 簡易なテント


 敵地なので、火を使うことは出来ないが、水筒と食料は、各自防寒着の中に入れていたので、体温で凍ることは無い。兵士達は、ツェルトの中で少しの水とパンと干し肉をかじり、眠りにつく。しかし、ソ連軍の貧弱な防寒装備で-30度の世界に12時間もさらされるのだ。今はほとんど風は無いが、もし風が強くなってきたらこのまま全滅してしまうのでは無いかと思えてしまう。


 そして、夜半から風が出てきてしまった。

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