第111話 ロシアンスナイパー(2)
スコープからトナカイの親子を見る。子供が木の皮をかじり、母親が周りを警戒している。銃口が向けられていることには、もちろん気づいていない。
山で野生動物を狩るようになって半年が過ぎた。最初のころは、引き金を引く瞬間に獲物に逃げられることが多かった。何百メートルも離れているのに、野生動物は殺気を感じることがある。相手を“殺す”つもりで撃っては、相手を“殺す”ことはできない。
熟練の服飾裁断工は、これから裁断する生地に対して憎しみや殺気や哀れみを持つことはない。ただ淡々と指定されたチャコペンに従ってハサミを入れるだけだ。ジーナには、そんな“熟練工”になることが求められる。
狙撃もただの“熟練工”でなければならない。これから“殺す”相手に、なにか“思い”があればそれは伝わってしまう。とくに、何年も生き残ってきたスナイパー相手ならなおさらだ。彼らは、何百メートル離れていても自身に向けられた殺気に気づく。
ジーナはスコープのレチクルの中心をトナカイの頭に合わせる。トナカイの大きさとmilメモリを比べて距離を測る。
距離は415mだ。
ゆっくりと415m分だけ正確に照準を上にずらす。そして、引き金をそっと絞り込む。
タンッ
周りの雪で発砲音は全く響かない。乾いた軽い音だ。
撃った瞬間、その反動でスコープの中のトナカイが揺れる。ジーナは揺れる視界の中で子供トナカイの頭が半分吹き飛んだのを確認した。
狙撃に驚いた親トナカイは大きく飛び跳ねて逃げていった。
獲物が親子でいる場合は、必ず子供を撃つ。親を撃てば、子供が逃げたとしても生きてはいけない。逆に、子供を撃てば、親は逃げ、また子供を産むことができる。樺太において野生動物は貴重な資源なのだ。
ジーナはモシン・ナガンをカモフラージュクロスの中に引き込む。そして、少しずつ後ずさりして、稜線の後ろ側まで移動する。獲物の位置から自分自身が完全に見えなくなったことを確認して立ち上がった。
狙撃を実行した後はすぐに銃を隠し、相手に発見されないように行動しなければならない。発砲すれば必ず音がする。相手から自分の居る方角がわかってしまうのだ。反撃が来る前に見えない位置まで下がり、撤退をする。これが狙撃の基本だ。
ジーナはカモフラージュクロスをたたんでソリに乗せる。そして、そのソリを引いてトナカイの所まで移動した。
冬の森で400m歩くのはかなりきつい作業だ。そして仕留めたトナカイをソリに乗せて縛る。
基地に戻ったのは17時前になってしまった。もう辺りは真っ暗だった。
――――
1935年3月
「ジーナ・クルシェルニツカ伍長、初任務だ」
ジーナとそのサポート隊員がブリーフィングルームに集められる。
「清帝国とモンゴルとの国境未確定地域に於いて、先日から小規模な武力衝突が発生しているのは知っているな?お前達には、ここに応援に行ってもらう」
史実でも、1930年に入ってから満洲とモンゴルとの国境で小規模な武力衝突が発生しており、1932年~1934年の3年間で152件の紛争が記録されている。
そして1935年になってからは、武力衝突の頻度と規模が増大していた。国境未確定地域と言うこともあり、日本も清帝国も本格的な戦争への発展は望んでおらず、モンゴルとソ連への抗議だけにとどめていた。
「ハロルアルシャンの西方森林地帯でモンゴル軍の越境が確認された。連中は自分の領土だと言っているがな。そこで敵狙撃兵による被害が出ているようだ。お前達には、その狙撃兵の排除をおこなってもらう。まあ、狙撃兵だけではなく、越境しているモンゴル・ソ連兵なら誰を撃ってもかまわん」
スナイパーによる被害はもちろん公開されているわけでは無い。ロシアのKGBによる調査で把握したのだが、それを知ったロシア陸軍が狙撃部隊を派遣したいと申し出たのだ。
「今回は、我が国土が侵されているわけでは無いが、同盟国を助けるための派兵だ。気を引き締めて任務を遂行して欲しい」
――――
ソ連は1929年からモンゴルに特別赤旗極東軍を派遣して、モンゴル軍の強化を図っていた。そして、それに自信を付けたのか、モンゴル軍の清帝国に対する挑発が増加していく。
――――
清帝国西部ハロルアルシャン近郊
「ロシア帝国陸軍 ジーナ・クルシェルニツカ少尉であります」
ジーナを派遣するにあたって、臨時独立小隊を編制し小隊長として少尉に臨時任官していた。
「大日本帝国陸軍 草加(くさか)大尉だ。応援に感謝する。早速だがこの地図を見て欲しい」
草加大尉は挨拶もそこそこに、実務の話を始めた。30歳くらいで精悍な顔立ちをしているが、明らかにその表情は無愛想だ。しかし、人付き合いの出来ないジーナにとってはありがたい。
”私は敵を排除するためだけに来たのだ。会話もその為の必要最小限なものだけでよい”
日本も清帝国も不拡大方針をとっているため、現地駐留部隊だけでの対応を命じられている。もし、この駐留部隊が全滅でもすれば本腰を入れるのだろうが、草加大尉としては絶対に避けねばならない。そんな中、少数でも応援に来てくれたのはありがたかった。
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