第86話 ユーリアの故郷(2)

「どう?落ち着いた?」


 ユーリアの目は泣きはらし、赤く充血していた。顔の毛細血管からも内出血し、頬が赤く染まっている。


「ありがとう、カズミ。私、現実を理解していなかった。飢餓と言っても、お腹をすかして困っているくらいだろうって思ってた。脱ソ機関に助けてもらって出国したときも、少なかったけど食料はあったの。本当の飢餓がどんな事なのか知らなかった・・・」


「わたしも、こんなにまでひどいとは思わなかったわ。でも、ここで立ち止まっちゃだめよ。彼らを救えるのは私たちだけなんだから」


「そうね。頑張りましょう。もしかしたら、生きている人がいるかも知れないわ。一緒に探しましょう」


 二人は他の家のドアを開けて確認する。しかし、どの家も同じような状態だった。安馬野はフイルムが続く限り撮影をした。子供の白骨には共通した特徴があった。頭蓋骨がないのだ。おそらく、頭だけは埋葬したのだろう。死んだ我が子の顔だけは、埋葬してやりたかったのだと思った。


 ユーリアも、歯を食いしばって8mmを回して撮影する。ここは、まさに地獄だった。


 ほとんどの家の調査を終えようとしていたときだった。


「カズミ、あそこを見て!白骨じゃないわ。生存者かも!」


 ユーリアが牛小屋を指さして駆けだした。スカートをはいているように見える。もしかしたら友人のスサンナかも知れないと思った。


 二人は牛小屋にたどり着く。そこには、15歳くらいの少女と10歳くらいの少年が横たわっていた。頬は痩せこけていて、肌はかさかさだった。そして、少年の鼻からはハエの幼虫がこぼれだしていた。


 二人は息をのむ。少年は既に死んで数日が経っている。二人の足下には桶があり、その中には、まだきれいな水が入っていた。


 安馬野は少女の首筋にそっと手を当てる。


「生きているわ」


 こんな地獄でも、生きている人がいた。何としても、この少女を助けるのだ。


 安馬野は水筒を空け、自身の指先を水に濡らして少女の唇を湿らせる。


 すると、少女はゆっくりと目を開けた。


「ねえ、大丈夫?しゃべれる?」


 安馬野は持っていた水筒を少女の口に寄せる。少しずつ唇をぬらし、少女はのどを潤した。


「ああ・・天使様ですか・・・・救いに来ていただけたのですか・・・?」


 少女は、意識が混濁していた。そして、安馬野とユーリアを見て天使だと思った。神様が救いの御使いをさしのべてくれたのだ。


 少女は一言しゃべった後に、また目をつむってしまった。


「ユーリア、彼女を飛行機まで運ぶわよ」


 安馬野が少女を背負う。そして、荷物をユーリアが持ち水上機のおいてある池まで急いだ。


 ――――


「セルゲエンコヴァ少佐。調査に入った村で、生存者を一人発見しました。他の村人は全員死亡です。少女を連れて帰るので、救援の水上機を回して下さい」


 水上機の無線機で艦隊に連絡をする。あらかじめ航空プランを提出してあるので、高矢曹長なら間違えずに来てくれるだろう。彼女は最高のバディだ。


「カズミ。この子を後席に乗せて連れて帰ってあげて。私はここで高矢曹長の機を待つわ」


「バカなことを言わないで。一人は危険よ。仲間を一人で危険にさらすわけにはいかないわ」


「でも・・・」


「気持ちはわかるけど、もし、高矢曹長が来たときに、あなたに万が一のことが起きていたら、彼女は責任を感じるわ。わがままを言わないで。おねがい」


 ――――


 少女を木陰に寝かせた。そして、ハンカチをぬらして口に当てる。しばらくすると、彼女は目を開けた。


「よかった。意識が戻って。あなたはあの村の人?」


「・・・・・いえ、別の・・村から来ました・・・」


「そう。もうすぐ迎えの飛行機が来るから、そうしたら、お医者様に見てもらいましょう。あなたは助かったのよ」


「ああ、天使様・・ありがとうございます。でも、でも、私はもう救われないのです・・・」


 少女の視線の焦点は合っていない。意識の混濁が感じられる。


「天使様。私は大罪を犯してしまいました。わたしは、生き残るために、妹を食べたのです・・・・」


 その言葉を聞いた瞬間、安馬野とユーリアは心臓がギュッと何かに掴まれたような、そう、この世にあらざる物の何かに掴まれたような気がした。息が詰まる。村の家では人骨が散乱していた。人によって解体され、肉をそぎ落としたものだ。この少女の村でも、同じように死んだ人間を食べたのだろう。


「もう、ずいぶん長い間、食べ物がありませんでした。村の男の人たちは、墓を掘り返して、死んだ人を食べました。近くの家では、おじいさんが孫を殺して食べて・・・そして、食べられた子供のお父さんが、そのおじいさんを殺して食べました」


「もういいのよ。あなたは救われたの。もう、忘れて。大丈夫なのよ」


 ユーリアは、少女の口から出てくる言葉を、現実を聞きたくなかった。自分の故郷で、こんな悲惨なことが起きていたなんて。


 しかし、少女の独白は続く。それは、神にすべてをさらし、懺悔し、許しを請おうとしているようだった。


「妹が死んだ日の夜、お父様とお母様がお肉を持ってきました。私はそれが何か、すぐに判りました。でも、私たちは妹を食べるしかなかったのです。何日かは、それを食べました。でも、お母様が伏せってしまい・・・しばらくして死んだのです。そうしたら、村の男達が押しかけてきて、お母様は死んだのだからみんなの物だと・・・みんなで分けようと言ってきたんです・・。お父様はどうすることもできず、私たちを連れて逃げました。行く宛てなどありません。途中、動物の糞があれば食べました。納屋の壁に埋め込まれている牛や馬の糞があれば、それを削って食べました・・・・」


 二人は言葉が出ない。この世の中に、こんな悲惨な事があるのだろうか?本当に現実に起こったことなのか?


「何日目かの野宿で、お父様が死にました。朝、冷たくなっていたのです。そして、弟と二人でこの村までたどり着きました。井戸の水が使えたので、弟と二人で水を飲めましたが、すぐに弟は動かなくなってしまいました・・・・うう・・・ううう・・・・」


 少女は泣き始めた。しかし、脱水症状で涙も出ない。


 生きるために、牛や馬の糞を食べる。そして、肉親である妹までも・・・・


 しばらくすると、一機の水上機が見えた。



※資料をもとに、実際に起こったと思われる内容に近づけて描いています。

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