シーン9「あたしのおもてなし」


 鏡に映る赤い星は、今日もギラギラ輝いていた。傍にある小さな星も、それに負けじと光っている。

 頬に向けた指で星を突こうとして、パーシアはそっと手を下ろした。万が一潰してしまうと、ニキビは跡が残るとアンヌが言っていたからだ。


 それにしても綺麗に光るわねー、とパーシアは鏡の中のニキビを覗き込んだ。頬の中心に光る三つのニキビは、まるで夜空に浮かぶ星座のよう。

 だったらこれは何座になるのかしら、とパーシアは腕を組んで考えた。星を繋げば三角形になるので『サンカク座』が妥当だが、それではあまりにひねりがない。

 うんうん頭を悩ませた後で、パーシアはとうとう『十八歳のあたしのニキビ座』に名前を決定した。このニキビとは、十八歳になった時からの付き合いだからだ。次点の『花火座』は、うっかりニキビを掻いたときに出た汁が、花火が開花した後の糸のように見えるからとつけた名前だが、惜しくも選外となってしまった。なかなかに風情のある名前なので、次の機会とかあるんだったら頑張ってほしいものだった。


「よーしっ、ケーキ作るわよー!」


 台所の窓から、目も覚めるような眩しい朝陽が差し込んでいた。今朝まで降っていた雨も今はすっかり止み、窓に張り付いていた雨粒が、床に落ちた光に鱗のような模様を施していた。

 パーシアはいつものサラファンに黒いエプロンをして、台所に置かれた材料を眺めた。砂糖もバターも小麦粉も、朝陽を浴びて一層上質になったように見える。


 アンヌがやってきて、早速ケーキ作りが始まった。

 本日のメニューは『アリ塚ケーキ』。その名の通りアリ塚に似た形のケーキで、甘いキャラメルの味を、程よく柔らかい触感と共に楽しむことが出来る。

 二人はまず、生地を作って寝かせ、それから生地に練り込むためのクリームを作った。バターにキャラメル、リキュールに塩……アンヌ式はここに、隠し味として蜂蜜を入れる。かき混ぜるのはパーシアがやって、配分はアンヌが決めた。若い頃から何度も作っているアンヌは、もう計量しなくとも目分量だけでクリームを作ることが出来る。

 クリームを作った後は、生地にそれを練り込み、オーブンで焼いて完成だ。丸めた生地にクリームを乗せようとして、パーシアは香りを確かめた。


「うーん、とってもいい香り! 完成したらあたし、いーっぱい食べるわよ!」

「あら、もう忘れてしまったの? 今日はユリア達が遊びに来るんでしょう?」


 あ、そうだったわ、とパーシアは思った。今作っているケーキは、客人のためにと用意したケーキだ。いつものように好き放題食べるわけにはいかない。


(けど、ユリアと一緒なのよね。ならなんてことないわ)


 そう思っていると、スプーンの先からクリームが零れ、手の甲にぽとりと落ちてきた。美味しい美味しいおばあちゃん特製クリーム。そのまま拭き取ってしまうのは勿体ないので、パーシアは手の甲を口に近づけて、ペロリとそれを舐めとった。


(んーでも、リズとタチアナも来るかもしれないのよね。となると、あたしのはもっと減るわ。けどまっ、そんなのつまらないことよ)


 クリームの甘さに笑顔が零れる。と、今度はスカートの裾に、またぽとりとクリームが落ちた。生地に練り込む分は十分にあるが、それでも貴重なクリームだ。勿体ない勿体ない。パーシアは腰を折り曲げ、スカートの裾についたクリームを、スポッと口で吸い取った。


「パーシア、どう? クリームは足りている?」 


 ケーキを焼く準備のため、オーブンに頭を突っ込んでいたアンヌが尋ねた。


「いいえ、まだよ。これからやるわ」


 パーシアはクリームを生地に練り込み、時々身体に跳ねるそのクリームの味を楽しんだ。


「それにしても、おばあちゃんの作るクリームって美味しいわね」

「そう? よかった。七年かけて編み出した甲斐がありました」

「まーあ、そうなの? あららっ、随分掛かったのね」

「小さい頃母が作ってくれたケーキの味が恋しい、って夫がよく零していたものですから。気づけば娘じゃなく、夫のために作っていましたよ」

「ふうん……ラブラブしてたのね」


 ニコニコと笑いながら、パーシアは薄茶色になるまで生地をこねた。夫を喜ばせるためだけにこれほど美味しいクリームを作るなんて……なんて素敵な話なんでしょっ。


「そういえば、おじいちゃんとおばあちゃんって、幼馴染だったのよね」

「ええ。けど、顔と名前を知ってただけ。それほど親しくもありませんでしたよ。あの人の方は、小さい頃から私を想ってくれていたようでしたけど」

「あらっ、じゃあどうして結婚することにしたの?」

「何てことはありませんよ。両親の勧め。サニアはつまらないと文句を言っていたけれど、もともと信用できる人だったから、私は良かったの。不思議なもので、私が弱っているときにあの人はいつも現れて力を貸してくれたわ。少し恥ずかしいけれど、あれが運命というものだったのでしょう」


 ほんのり温まったオーブンに生地を入れたら、後は焼き上がるのを待つのみだ。パーシアは早速オーブンの前に立つと生地を焼き始めた。扉をカチャ、中にトン、扉をパタン、留め具をカチンッ。

 やがて、鳥の濡れ羽色をした牢固とした扉に、息も苦しくなるほどの熱気が伝導し始めた。扉の奥で今しがたこしらえたばかりの生地が、熾火おきびの火煙を纏い、扉のその僅少な隙間から徐々に、蹌踉よろめくほどの甘い香りが、まるで一本の川の流れの如く緩やかに流れ出してきた。

 パーシアはその香ばしさに、思わず恍惚とした表情を浮かべた。


「んもぉ、待ちきれないわ」


 焼き上がるまで時間があるので、パーシアはひとまず調理器具を片付けようと動き出した。

 すると、食器を準備しながらアンヌが静かな声で言い出した。


「パーシア。ダタールさんはどう?」

「『どう』って何?」

「もし結婚するのがダタールさんみたいな人だったら、あなたはどう思う?」

 『結婚』という言葉に、パーシアは一瞬ドキリとした。けど、すぐに顔を歪めて言った。

「えーっ、あの人はちょっと……だって、変な人じゃない」

「でも面白い人よ? それにどこか純粋で、素直なように私には見えるの」


 何故かその台詞が『あなたに似ている』と言っているような気がして、パーシアは少し不満に思った。


(それにしてもおばあちゃん。『素直』って言葉好きねぇ……)


「おばあちゃんはお気に入りかもしれないけど、あたしはピンと来ないわあの人。気が合うように思えないもの」

「けど私と夫も、最初から気が合ったわけではありませんよ」

「もー、いーのっ! とにかくいーのっ!」


 パーシアは怒ったように背を向けた。


「結婚より、今はケーキよ、ケーキっ! こんな話をしているうちに焦げたら大変だわっ」


 焼き上がるのも早いのに、パーシアはオーブンの前に屈みこんだ。そのまま黒い扉を睨むパーシアに、アンヌは諦めのような微笑を浮かべた。


 しかし、杞憂する必要はどこにあるだろう。

 恋人ではないが、パーシアには今、友達がいる。


「何時に来るかしらね、ユリアは」

「わかんない。お昼頃だと思ってるわ」

「ケーキの完成が待ち遠しいわね」

「そーね、待ち遠しいわ」


 窓の外は快晴で、揺れる木の葉が雨粒を振り落としていた。

 パーシアは頬杖を突いて、オーブンから漂う香りを、膨らませた鼻穴に目いっぱい詰め込んだ。


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