シーン7「あたしたちの出会い」


「うんせっ、こーらせっ、どっこいっ」


 両腕いっぱいに抱えた掃除道具を置いて、パーシアはドアを開けた。屋根裏部屋の窓はたった一つ。案の定埃っぽい部屋の前で、パーシアは風船のごとく頬に空気を溜め、つかつか部屋に入り込み、軋む窓を押し開けた。


「ぷはっ……!」


 窓から突き出した顔に、秋の爽やかな風が触れる。屋根裏部屋と違って透き通った視界は、眼前に昼下がりの住宅街を眩しく映し出していた。青く広がった空。鳥のさえずりが心地よい、和やかなひととき。ずぼーっ、と思い切り広げた鼻穴で息を吸い込み、パーシアは汚れた室内にくるりと振り返った。


「さ、ちゃきちゃきお掃除するわよー!」


 今ではほとんど訪れなくなった屋根裏部屋は、ユリアと過ごした大切な場所だ。編み物をしたり、絵を描いたり、ダンスをしたり……幼い二人の少女にとって、夢のある場所だった。あのときの思い出の数々は、今もこの部屋の隅に保管してある。

 パーシアは道具を取り出すと、早速部屋を掃除した。左手にハタキ、右手に箒を掴んで、まずは埃を掻き出していく。高いところはハタキでパンパン、床は箒でサッサッサー……。宙に舞ってはしとやかに落ちていく埃で、パーシアは何度もくしゃみをした。


「へぶしっ! ……っぷしっ!」


 そうしているうちに空気もいくらかマシになり、部屋も明るくなってきた。ちりとりでごみを集め、ぐるりと部屋を見渡すと、窓からの光が古びた床に輝く円を作っていた。


「ふふん、いいでしょう」


 自慢げに鼻を鳴らして、パーシアは光に話しかけた。


「そんなに見つめてくるんなら、見せてあげるわ」


 バケツへと歩いて、パーシアはそこから雑巾を二枚取り出した。濡れたそれを床に広げ、一つずつ足を乗せる。丸めた親指と人差し指でスカートの端を摘まみ、そのまま恭しく礼をするとダンスの合図だ。パーシアは流れ出した音楽に合わせ、おもむろに踊り出した。


「ふんふん、ふふふん、ふふふんふん……」


 鼻から流れる独特な音楽は、『田園舞踊「鍋底は遥か彼方に」』。ある女性が不倫中の夫の為にスープを作り、彼の心が戻ってくるのを待ち続けている、という悲しい物語をイメージした曲だ。

 記憶では、出だしは軽快で、サビは滑らかだったはずだ。だが、長い年月を得て床が滑りにくくなってしまったためか、足、もとい雑巾がつっかえて上手く踊ることが出来ない。

 仕方がないので、パーシアは適当に曲をアレンジして、雑巾を滑らせやすい軽やかな曲調に変えた。減ることのないスープを見て悲嘆する場面は、腹いせにと夫の頭にスープをぶっかけるシーンに変更。長い時間を共にした愛の香は、服を通り越し、身体の奥底にまで染み込んでいく。洗っても洗っても、あなたと私は同じスープの匂いよ。そうか、君以外を愛することは不可能だね。とハッピーエンドで拍手喝采。パチパチパチパチ、ブラボーブラボー。


「こんなことしてる場合じゃないわ」


 はたとダンスを止めて、パーシアは拭き残したところを適当に手で片付けた。

 ここの掃除が終わったら次は暖炉の掃除。それから明日のケーキの為に材料の買い出しに行かなければならない。

 掃除道具を腕に抱え、急いで階段を下りていく。


「どっこい、こーらせっ、うんしょっ」


 中間まで降りたときだった。箒とハタキの柄の間に、見知らぬ青年の姿を見つけた。

 青年はテーブルに座り、ティーカップを片手に唖然とこちらを見つめていた。立ち昇る湯気の奥には緑色の瞳が隠れている。大人しそうなその目とパーシアの青い目。二つの目が丸まって、互いを凝視した。ゆっくりと傾いた箒の柄が、放心するパーシアの頭をパシンッと打った。


「あなた……誰?」

「警察の方よ、パーシア」


 答えたのはアンヌだった。アンヌはお菓子を乗せた皿を持って、二人の前に現れた。


「この間の狼の件で調査をしにいらしたの。紹介するわ、ダタールさん。こっちは孫のパーシア。パーシア、こちらはグローニャ警察のダタールさんよ」

「初めまして」


 アンヌに促され、パーシアは挨拶をした。


「あ、こちらこそ……」


 ティーカップを掴んだまま、ダタールも挨拶を返す。赤茶色の髪と鼻に散らばるそばかすが、どこか素朴な印象を与える青年だった。


「覚えてる? パーシア。ダタールさんはグラシコフ警部の息子さんなのよ。ほら、この間狼に襲われた、あの人の」


 ふうん、とパーシアは改めてダタールを見た。見る限り、二週間前に会った髭面の男には似てないが、どうやら息子らしい。といっても、髭以外よく覚えていないけど。


「まだ歩行は厳しいみたいだけど、体調はあれから少しずつ回復しているようですよ。……さ、パーシア。あなたも座って。一緒に休憩を取りましょう」


 パーシアは掃除道具を置いて、まず手を洗い、テーブルに座った。取り替えたばかりのテーブルクロスには、すでにアンヌの淹れた紅茶が用意されている。ティーカップを掴むなり、パーシアは紅茶の白い湯気を吹いた。そうしながら、パーシアはちらりと隣に座る青年を見やった。


 気まずそうに見返すダタールと目が合った瞬間、パーシアは忘れかけていた記憶が蘇るのを感じた。目が、この間会った警部のものと明らかに違っている。グラシコフ警部の目は、灰色で凛としていた。

 だんだんとパーシアは、二週間前に見た警部の顔を思い出してきた。玄関のアンヌに呼び出され、肩に腕を回した警部の横顔は、足を怪我をして苦しげだったのもあるが、ダタールとは違ってどこか厳めしかった。

 それにしても変な夜だったわ、とパーシアは思った。妙に騒がしい獣の鳴き声と、収まることを知らない足音。窓から覗く見慣れた満月も、あの夜は不気味に感じた。


「どうです? あれから進展は」


 紅茶にミルクを注いで、アンヌが尋ねた。


「新聞にはまだ、事件の詳細が書かれていないようでしたから」


 スプーンでミルクをかき混ぜて、アンヌはテーブルの新聞に目を向けた。『真夜中の狼、町へと逃走か』……この間まで一面を飾っていた事件は、今はすっかり隅に追いやられている。

 二週間前の満月の夜。南イリヒ森及び東サザナミ森に潜んでいた狼の群れが突如として町を駆け抜けていったこの事件は、数日経った今でも真相を掴めていない。これまでに入ってきた情報と言えば、狼の群れは他の町にまで姿を現したこと、グラシコフのように襲われた者もいたこと、それだけだ。今朝の新聞には隣町から調査資金を援助されたことが書かれていたが、事件の真相は未だ謎のままだった。


「ほんの僅かですが進展はありました。水質調査と、それから地質調査の為に資金援助を受けたのです。何か関係があるのではということで」

「ああ、そのための援助だったのですね」

「確か、南にあるチタの町からでしたね」


 アンヌもパーシアも、揃って目を丸めた。資金援助の話は知っているが、確かチタの町ではないはずだ。それに、チタは南ではなく西にある。


「あら……私は確か、アナトワの町だと思っていたのだけど」


 新聞を引っ張ってきて、アンヌはその記事をダタールに見せた。


「ほら。それからアナトワはここから南。チタは西にあるんです」


 今度はダタールが目を丸めた。渡された新聞には、確かにアンヌの言った通りのことが書かれている。

 言葉を失ったダタールが下唇を噛もうとしたところで、アンヌが言った。


「ダタールさん達は、ここに越してきてまだ半年でしたね。地方の町とはいえ、この辺りは複雑ですもの。私も説明が難しいわ」


 顔を上げるダタールに、アンヌは優しく微笑みかけた。ダタールも安堵したようにそっと口端を引き上げた。


「ダタールさんはザラトイからいらしたのよね?」

「あ、はい。そうです」

「私も大昔に汽車で遊びに行ったことがありますよ。首都と言うだけあって大きなところでした。……ああそういえば、隣国でも同じ事例があったようですね。あちらは熊や鹿だそうですが」

「そうなんですね。初めて聞きました」

「まあ……そうなの? 警察官の知り合いから聞いだのだけど、話していなかったのかしら?」


 ダタールの顔から、ふっと笑顔が消えた。初耳だったのだろうか。糸が切れたかのように固まっている。

 二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。パーシアはずずっと紅茶を啜って、横目でちらりとダタールを見た。細かなボタンが並ぶカーキ色の上着、同色のズボン。膝の上に置かれた平たい帽子も、一応警察のものだけど。


「……まあどのみち、隣国の方でも真相は明らかにされていないようですね。あちらは今はそれどころではないようですし」

「あ、えっと、ら、『ラスラ山銃暴発事件』、ですね。裁判もまだ決着をつけていないとか」

「ダタールさんは警察の方なので、この間の狼について何か思い当たることがあるのではないかと思いまして」

「『思い当たること』、ですか。それならあります。僕……いや、私の中で有力と思っている説ですが」

「あら、本当に?」


 先ほどまで暗かったダタールの顔が、みるみるうちに明るくなった。ダタールは自信たっぷりに、はいっ、と頷いた。


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