第9話 転生者のあるある展開
「いや、でも」
僕はおそらく、挙動不審になっていただろう。
好き。女の子として。いや、でも。それは。
でもガブリエルは僕のそんな様子など気にせず、静かに、そして真剣な表情で続ける。
「今はまだ、意識してもらえるだけでいい。でも、上手く殿下と婚約解消できたら、少しは考えて欲しい」
「少し?」
「いや、かなり」
「どっちだ」
「言わせるな、恥ずかしいから」
――いや、でも。
僕はただ口を開けて固まっていたけれど、だんだん彼の言葉が頭の中に浸透していくと別の感情が芽生え始めた。
不安、だ。
『あなたは悪役令嬢でね、殿下に愛されていないことに苦しんで闇落ちするから』
という、母の言葉が思い出される。
もうずっと前から、僕は『悪役令嬢エヴェリーナ・リンドルース』の未来を母に教えられてきた。
だから、色々なもの――色々な感情が怖かった。
自分の絶望的な未来を避けるために、殿下だけではなく、他の人にも必要以上の好意を向けないように気を遣ってきた。恋をして嫉妬をして、苦しんで死んでいく。
『でも、わたしがその未来を変えてあげる。あなたはわたしの大切な一人娘。ゲームの中では誰にも愛されることがなかったかもしれないけど、わたしはあなたの母親として、誰よりも、他の誰よりもずっと愛してあげる。だから、幸せになろう?』
そう言いながら母は僕を抱きしめてくれた。
父からは苛立ったような目しか向けられなかったし、間違いなく愛されてはいない。それに傷ついた時期もあったけれど、母がいたから立ち直って歩いてこれた。
でも。
母以外に僕にこんな言葉をかけてくれたのはガブリエルが初めてだ。
そこで唐突に、ぶわりと顔に血が集まったような気がした。少し暑い。
思わず僕が右手で目元を覆い隠した瞬間、頭上から冷ややかな女性の声が降りてきた。
「ここは図書室です。私語は控えてください」
「あ、すみません」
ガブリエルが慌てたように声を上げ、僕はそっと右手を下ろして声の主を見上げた。
そこにいたのは、くすんだような金色の髪の毛の女性だった。左側の目元、頬の辺りは長い前髪で覆われていて、もう片方の瞳は眼鏡のせいで表情が読みにくい。黒いブラウスとスカートという服装のせいで、痩せ型の身体が必要以上に強調された――おそらく、二十代前半くらいの司書の先生。
彼女がラウラ・ヴィロウ、母が言うところの『ラスボス』だ。
冷気を放っているかのようなその気配は、そのか弱そうな見た目を裏切っていて迫力があった。ガブリエルも気まずそうに彼女から目をそらし、慌ててテーブルの上に視線をやったけれど、そこには本なんてない。本を読まないなら、ここに何しに来たんだ、と問いかけているような先生の圧が凄かった。
『ラウラ・ヴィロウはね、美しい存在が嫌いなの』
母はそう言ったと思う。
図書室に引きこもっていて、誰に対しても冷たい態度を崩さない。彼女の長い前髪は火傷による傷を隠すためのものらしく、運悪くその傷跡を見てしまったヒロインは凄い目で睨まれるのだとか。
僕は少しだけ彼女を観察していたが、その視線に気づいた彼女が不快そうに眉根を寄せたのが解って背中に冷や汗をかいた。
彼女の体内に『闇の欠片』が入っているのだろうか、と確認したかったが、目の前の彼女の魔力があまりにも強大すぎて感知することができない。これはどうしたものかと必死に思考を巡らせていると、ちょうどよくそこに声がかけられた。
「あらあ、どうしたの?」
そうやって僕らの間に立ったのは、魔力検査の時に『変人』と呼ばれていた黒髪の先生だった。
その先生――女口調の男性は、手に持っていた書類をラウラ先生に渡しながら明るく笑う。
「はいはい、これが明日の朝の会議の資料ね! 早朝から眠気と戦いながら会議なんて面倒だけど、仕方ないわぁ」
「……確かに受け取りました。ではわたしはこれで」
ラウラ先生は少しだけ身体を引き気味で、目の前の黒髪の男性教師から逃げようと辺りを見回したようだ。しかし、彼はラウラ先生を逃がすつもりはないようだった。
「ねえねえ、それより考えてくれた? アタシ、やっぱりあなたにお化粧してみたいのよぉ。あなた、年頃なのに化粧っけ一つないじゃない! 絶対、後悔させないからぁ」
彼は威圧的なまでにラウラ先生に近づき、その細い肩をがっしりと掴んでしまっている。そして、みるみるうちに血の気が失せていくラウラ先生の様子を見て、つい僕は口を挟んでしまっていた。
「すみません、女性に対して乱暴じゃないですか?」
「あらぁ、あなた確か……」
そこで、彼の興味津々といった視線が僕に向けられた。「そうそう、将来有望な闇属性! 男装の貴公子じゃない!?」
「貴公子……?」
僕がさらに顔を顰めると、ラウラ先生が素早く肩に置かれた手を振り払って数歩下がった。
「ロベルト先生、ここは図書室ですので静かに」
「ローラって呼んでって言ったでしょ?」
噛みつくように返した彼――ロベルト先生は不満そうに鼻を鳴らしてみせる。でもすぐに、ロベルト先生がハッとしたように僕に視線を戻した。
「そう言えば、あなたの名前、リンドルースって言ったわよね!?」
「え、ええ、はい」
僕もつい、その勢いに腰が引けてしまう。もちろん、椅子に座っているから逃げ場はない。
「あなたのお母さんの噂、色々聞こえてきてるのよぉ。ほら何だか、冷たい夫に辺境に追いやられていた悲劇の夫人というか、まあそれはどうでもいいんだけど!」
――いいのか。
「それより、あなたのお母さん、辺境の……何とかっていう商会に投資してるわよね? 最近、有名になり始めた化粧品のところ!」
「ああ、そうですね」
僕はそこで、小さく頷いた。
僕にはよく解らないが、母曰く、それは転生者とやらのあるある展開なんだという。前世の知識を利用するのがお約束だそうで。
母は新しい化粧品やら服のデザインやら料理やお菓子のレシピやらをコンラスにある小さな商会に売り込んでいた。そこで話題になっている商品の一つが化粧品だった。
そして。
『これ、学校に持って行ったら絶対に役に立つと思うのよね!』
と言いながら、僕にも渡してきたのが『コンシーラー』とか『ファンデーション』とか、他にも色々ある。庶民にも手が届きやすい低価格帯のもの、貴族向けの高価なもの、舞台女優や俳優向けのものなど多種多様。
これはいい機会だと思った。
僕がこうして図書室に足を運んだのは、勉強のためだけじゃない。ラウラ先生の観察と、そして接触。どうしたら彼女と親しくなれるのかと悩んでいたから、このロベルト先生のぐいぐいくる様子は利用できるかもしれない。
何故ならば。
「何て素晴らしい出会いかしら! ねえねえ、だったら凄く売れてるっていう、シミ隠しの化粧品あるでしょ!? 髭の剃り跡なんかも全部隠してくれる、とんでもないやつ! あれ、手に入らないかしらぁ!」
などと、図書室の真ん中で大声で叫んでくれたからだ。
僕が言いたかったことがまさにそれなのだ。
……それに、うん。
ロベルト先生は化粧をしているけれど、やっぱり近くで見ると気になるんだよね。その髭の――青っぽい剃り跡。
「……持ってますけど、でもあれは一応、女性向けですし」
「あらぁ、アタシだって女性よ! 心は!」
……そうだろうな……。
僕は少しだけ彼から視線を外し、必死に言葉を探した。
「実はそれは、女性から感想をもらいたいがための試供品なんです。例えば、そこにいらっしゃる司書の先生みたいな綺麗な人だったらありがたいというか」
「綺麗……?」
瞬時にそう言ったラウラ先生の声に憎悪にも似た敵意がこもるけれど、僕は聞こえなかったことにした。今が最初で最後の機会だろう。ラウラ先生に押し付ける……いや、使ってもらうための。
僕は何とか自然に見えるように心がけながら、微笑を口元に作って彼女を見た。
「はい。先生はきっと、化粧映えすると思います。化粧映えというか、元々が綺麗な人ですから絶対に使って欲しいんです。ええとその。僕の母が考案したコンシーラーというのは、ソバカスや肌のシミを完全に消した上に、自然な肌の色を演出するものです。ただ、まだ発売したばかりで女性の使用感を聞きたいので、ぜひ先生に使ってもらいたいというか」
「……しないで」
――馬鹿にしないで。
そう小さく聞こえた。
さらに。
何も、知らないくせに、と。
急ぎすぎて失敗した、と思った。目の前にいるラウラ先生の魔力が凄まじい勢いで濁っていく。渦を巻き、辺りの空気を揺らがせる。
そして気づかされるのだ。
間違いなく、彼女の体内に闇の欠片がある。そうでなければ、ここまでの邪悪な気配は感じないはずだ。
母の言葉を思い出す。
『絶対、あれはコンプレックスになってるのよ。ラウラ先生って、子供の頃に火傷の傷を負って、両親や妹から醜い顔だって蔑まれてきた人なのよね。だから絶対、その傷を隠すことができたら意識が変わるって睨んでるの。そうなったら、彼女がラスボス化するのを防げるんじゃないかって期待してる』
だから僕は何とか彼女に化粧品を使ってもらいたかったのだけれど、これは……失敗しただろうか。
不安を隠しながら、何とか次の言葉を探していると。
「じゃあ、アタシが彼女に化粧するから! ほら、ほらほら!」
ロベルト先生が重い空気を勢いよく切り裂いて叫んだ。「そうよ、アタシがラウラ先生を絶世の美女に変身させてあげる! だからついでにアタシにも使わせてぇぇぇぇ!」
「……え、あっはい」
僕は眼前に突き出されたロベルト先生の顔から逃げるために上半身を後ろにそらせながら、傍らの椅子の上に置いてあった自分のカバンに手を伸ばした。
そして。
何だか解らないけれど、僕の狙いは達成したみたいだ。。
僕がずっと持ち歩いていた、色々な化粧品が入った小さなケースを取り出してロベルト先生に渡すと、頬を紅潮させた彼はラウラ先生を抱え込んで図書室の隣にあった準備室へ連れ込んでしまった。
気が付いたら、図書室の中にいた他の生徒たちの視線は全部僕らに向けられていた状態で、何だか居心地が悪い。
そしてガブリエルは鼻の上に皺を寄せながら低く呟いていた。
「俺の前で、他のヤツを綺麗とか言いながら口説くもんかな? お前は男装してるんだし、無意識に女の子を誑し込んでいく質なんだろうが、俺は納得してないから」
口説いていない。
口説いていないし誑し込んでもいない。
僕がそれを口にしようとした時、隣の準備室から悲鳴のような声が聞こえてきて、つい僕たちの視線がそちらに向かってしまう。
「大丈夫、大丈夫だから! 大人しく塗りたくられてちょーだいっ! アタシを信じて!」
「信じないです! いやー!」
「やだぁ、あなた化粧水すら塗ってないんじゃないの!? お肌が綺麗なのは若いうちだけよ!?」
「余計なお世話ですー! 誰か! 誰かぁ!」
……うん。
騒々しい。
大丈夫だろうか。
僕とガブリエルは、いつの間にか顔を見合わせていた。
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