神様のたたりでトイレがこわい

二晩占二

神様のたたりでトイレがこわい

 エンちゃんは小声で「漏れそう」と言った。

 泣きそうな顔だった。


 ぼくは見逃さない。くねらせた体の向こう側で、エンちゃんが股間を握りしめているのを。暴発を食い止めているのを。


「トイレ、行っといでよ」


 ぼくは席から動かずに言い放った。

 昼休みだ。教室は少し雑然としている。


「行けない」

「なんで」

「トリヤマ、代わりに行ってきて」


 エンちゃんは無茶を言いながらぼくの腕にすがってくる。

 避ける。


「行けるわけないじゃん」


 エンちゃんは空振りして、ぼくの机の上に両手タッチする。股間を握っていた手だ。

 ぼくは素早くカバンをまさぐってアルコールティッシュを取り出した。


「……サボっちゃったんだ」


 見えない手形を懸命に拭き取るぼくに、エンちゃんは小声で言い訳する。


「サボった? なにを」

「トイレ掃除」

「あ、それヤバいやつ」


 この中学校のトイレには「ウスサマ」という神様がまつられている。ウスサマには不気味な噂が広がっていた。


 ――トイレ掃除をサボる者に祟りあり。


 この学校の七不思議のひとつだ。

 実際、高校受験の日に幽体離脱したり、おみくじで好きな子の名前を言いふらされたり、と天罰が下った連中は後を絶たない。


「サボったの、いつさ?」

「昨日。トイレ行ったら自分がしたくなってさ。そのまま掃除忘れて帰っちゃった。で、気づいたらトイレが怖くて怖くて……。これってウスサマの呪いだよね」


 呪いじゃなくてたたりだろ、と訂正はしない。エンちゃんにその違いを理解する脳はないからだ。

 エンちゃんは小心者だけど、いいやつだ。

 でも少し、計画性も集中力も皆無で人の話は聞かないし体でかいのに周りも見ずうろつくから物を壊すし十秒前に言ったことも記憶できないのにエンちゃんのお姉さんは学校一の美人だしズルいしお母さんも若くて美人だしズルい、だけなのだ。


「うう、トリヤマ、限界だよお……。代わりに行ってきてよお」


 エンちゃんは体を更にねじる。お正月のおせちにこんなコンニャクが入っていた気がする。


「だから、行けるわけないじゃん」

「そうだよねえ、ううう。あのさ、思いついたんだけどさ」

「うん?」

「5時間目。水泳じゃん?」

「うん、水泳だね」

「プールの中で出したらさ」

「やめて」

「オシッコも見えないしさ」

「やめて」

「バレないんじゃない?」

「やめろって言ってんだろ。エンちゃん、流石にヤバいよ」


 エンちゃんのオシッコがぼくの肌に染み込んでくる図を想像して、鳥肌が止まらない。


「何が?」


 本人は不潔さを理解できないらしい。純粋なバーバリアンみたいな瞳で見つめてくる。


「何が、って……、ほら、人として」

「人として?」

「うん、人として」


 汚えから、とは言わず曖昧な表現でゴリ押す。


「人として、かぁ」


 純粋なバーバリアン、ご納得。助かった。


「そう、だから他の方法を考えよう。おはらい委員にお願いしてみる、とかさ」


 そう言って、ぼくは黒板掃除中の上田アキにチラリと目線を送った。

 彼女は由緒正しき神主の家系で、古来の解呪法に詳しい。その知識を活用すべく「おはらい委員」なる組織を立ち上げていた。


 上田の手腕を語るには半年前のチャーリーゲーム事件を思い出すのが早い。

 チャーリーゲームとは、こっくりさん式の降霊術だ。冗談半分で遊んだ複数の生徒が、見事に発狂した。怪力で、俊敏で、教員でも手を付けられなかった。


 上田はおはらい委員を総動員して運動場に祭壇を設営し、巫女の格好でうるわしく舞い、さかきを手に祝詞のりとを唱え、錫杖しゃくじょうを降りながら念仏を叫んだ。

 壮大な儀式の結果、発狂した生徒たちは正気を取り戻したのだった。



「呼んだ?」


 降り注ぐ声に顔を上げると、まさしく上田がそこにいた。黒板を拭きながら聞き耳を立てていたに違いない。自信満々に錫杖しゃくじょうを握りしめている。


 ぼくはエンちゃんを見た。

 オシッコ我慢時よりも青い顔だ。過去最速で首を左右に振っている。


 上田の儀式は、たしかに効くが、代償も大きい。

 とんでもない費用がかかる。

 しかもお祓い委員に強制参加させられて卒業まで下僕として扱われるとか何とか。


 僕はエンちゃんの気持ちも汲みつつ、この言葉を返した。


「いいや、別に?」



 上田の協力を断ったエンちゃんとぼく。

 自力で尿意克服の手段を探さねばならない。


「とりあえず、トイレ行ってみようよ。一緒に行くからさ」


 最初に思いついたのは強攻策だったが、これは明らかな失敗だった。

 廊下の先にトイレが見えたとたん、ガタガタとエンちゃんが震え始めたのだった。


「こわい、こわいい……」


 小刻みに震える巨体の振動が窓ガラスにまで伝わる。

 もちろん、ぼくは諦めない。怖がるエンちゃんをズルズルと引っ張っていく。


 自慢じゃないが僕は校内一のマッスルボディ。放課後の大半を筋トレに費やしてきた。

 握力は70kgある。


 エンちゃんなど、でかいだけの脂肪の塊だ。

 力任せに引きずるくらい、屁でもない。


 などと余裕をぶっこいていたせいで気づくのが遅れた。エンちゃんが天井を見つめたまま泡を吹いていることに。


 まずい。

 こいつ、失神する。

 漏らす。

 この距離だと、オシッコ直撃をくらう。


 ――させるものか!

 

 ぼくはとっさに、エンちゃんの股ぐらを思いきり掴んだ。


「痛い痛い痛い痛い!」

 握力は70kgある。

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

 エンちゃんが叫ぶ。

「エンちゃん、だめだ、失敗だ。いったん出直そう」

「痛いいっ! もげる! 潰れるうっ!」

「エンちゃん、聞いてる? 教室に戻るよ」

「離して、離してえええーーーー!」



 教室に戻るとすぐエンちゃんは机に突っ伏した。うめき続けている。


「うう、じんじんする」

「やったじゃん」

「何が?」

「痛みで、尿意も消えたでしょ」

「消えたというか、わからなくなったというか」

「やったね、結果オーライ」


 ぼくは自分の非を認めるような軟弱な行為が大嫌いだ。


「結果オーライ、なのかな」

「そうだよ、そうに決まってる」

「いや、まあ……それはもういいけどさ。どうせトリヤマは謝らないんだろうし。実は、別の問題が出てきてさ」

「ほほう、どうしたんだい」


 エンちゃんは神妙そうな顔を机から持ち上げた。


「大きい方もしたくなってきた」


 オーマイガー。

 尿意だけでもややこしいのに便意だって?

 ウスサマは一体どれだけお怒りなんだ?


 いや、エンちゃんの便意はウスサマには関係ない。このクソやろうめ。


「プールで出したら、バレないかな?」

「バレるよ。バレバレだよ」


 ボケなのか本気なのかわからない発言にツッコミを入れつつ、ぼくは熟考する。


 トイレは使えない。

 ぼくの身の回りは汚したくない。

 被害はぼく以外の人間にだけで収まっていただきたい。

 ぼくが不潔にまみれなければオールオーケー。


 よし、これしかない。


「エンちゃん、覚悟を決めよう」

 ぼくが告げると、エンちゃんは再び純粋なバーバリアンの目になる。

「覚悟? 何の? 漏らす?」

「違う。漏らすな。絶対に漏らしてはならない」


 なぜなら、ぼくが汚れるから。


「じゃあ、いったい何の覚悟を決めるの?」


 エンちゃんの問いかけに、ぼくは少しタメを作って人差し指を向けた。


「多くの友達を失う覚悟、さ」


 沈黙。

 考え込むエンちゃん。

 右に、左に、首をひねる。

 二回、うんうん、とうなずく。


「俺、トリヤマしか友達いない」

「ああ……、そうか」


 そういえば、ぼくにもエンちゃん以外に友達と呼べそうな人間はいなかった。



「あああああーっ! あああ、ああーーーっ!」


 絶叫しながら教室の窓へ向けて全速力で走り寄るエンちゃん。必死の形相に、思わずみんな一斉に避ける。机をひいて道を作る。


 名付けて、発狂作戦。

 チャーリーゲーム事件に着想を得た。つまり、祟りのせいで正気を失ったフリをするのだ。その勢いで窓から運動場めがけて排泄する!


 完璧だ。


 級友たちが避けてできたエンちゃんロードを、彼は巨体をなびかせながら駆け抜ける。

 弾みながら白い窓枠に足を乗せて、仁王立ち。

 ベルトに手をかける。

 勢いよく、ズボンを、おろす。


「何やってんの」


 パンイチになったエンちゃんを見上げて、上田が呆れた声を放り投げる。軽蔑以外の感情がすべて殺された、絶品の目つきだ。


「何、って……覚悟」


 素に戻って、パンイチのままエンちゃんは返す。


「バッカじゃないの、突き落とすよ」


 素のまんまで、上田が錫杖しゃくじょうを振りかぶった。

 ぼくは慌てて二人の間に入り、エンちゃんは窓枠の細い足場をふらふらと踊った。



 小さな、白い花だった。

 僕には名前もわからない。

 上田はそれを、トイレの片隅に置いた。間に合わせで空き缶に活けられた花は、それでもどこか誇らしげだった。


「ねえ、上田」

「花を置いただけで祟りが終わるのか、って聞きたいんでしょ。あのね。神様は亡霊じゃないのよ。あの太っちょ、掃除をサボっただけじゃないのよ、きっと。ふらふら歩いてお供えの花を踏み潰したんだわ。それで祟りにあったの」

「いや、それより上田。ここ、男子トイレなんだけど」

「ぬおおっ、入れたーーー! そんで出たーーーっ!」


 淡々と神罰を解説する上田。

 上田にツッコむぼく。

 十数時間ぶりに排泄行為を済ませたエンちゃん。

 トイレ内は見事なカオスだった。


「オン クロダノウンジャク ソハカ」

「え?」


 ぼくのツッコミを華麗にスルーして、上田は合掌しながら謎の呪文を口にする。


「オン クロダノウンジャク ソハカ。真言よ。ウスサマの。あなたも唱えなさい」

「なんで」

「いいから」


 有無を言わさぬ口調に、ぼくは思わず聞こえたとおりに繰り返す。


「いやー、スッキリしたー。トリヤマも上田も、ありがとうねー」


 すべてを済ませた表情で個室を出てくる、エンちゃん。

 その眼前に、上田はモップを突き出す。


「さ、掃除の時間よ。サボったぶんも丁寧にね。ウスサマはけがれを浄化する神様なんだから。しっかりお清めしなきゃね」


 当然その掃除にはぼくも付き合わされ、気づくと5時間目の水泳は終わっていた。


 以降、ぼくら二人がお祓い委員という名の「上田の下僕」に仲間入りしたことは、言うまでもない。


 <了>

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