星野真沙姫旅行記

@marinterasu

第1話 初めての旅

 ずぼらなあたしが、こうしてキャリーバッグと、パソコン、更には雨傘を持って、足を動かすために、すべての準備を整えたのは、十一月二十九日。久しぶりの高知。回るところは決めている。まず今日は、日下に行く。

 この日下という場所、それは誰も知らない。日下は高知市内から、更に電車に乗って三十分から四十分。行先の到着駅は、日下駅。そこについたら、あたしはどう動くのだろう。だけどあたしには解らない。

 それでもあたしには、どうしても、今はここにいることが、不思議だ。ようやく駅に着いた時、あたしはほっとした。そして駅前のコンビニで、あたしはお菓子を二つ買って、更に向かったのは駅の構内。タバコを喫って、入った構内は、閑散としていた。

 それからあたしは、あたしは言われた通り、東京行に乗り込んだ。それから立っているのがつらかったのだけど、あたしはドア際に立っていて、窓の外を見ていた。家を出たのは五時二分。そこから歩きで駅まで来た。

 あたしはどこに行くにも、どうしてもあたしは徒歩で行ってしまう。徒歩圏内がほぼ三キロ圏内。昔からそうだった。子供の頃、歩いていたのは、その圏内だった。だから昔も解らない、この街を歩いた。

 そして入った駅だったが、東京行はすぐに来たので、とりあえずあたしは、新木場まで乗るつもりだった。だけどその新木場駅が解らない。だから東松戸で停まった時、あたしはとっさに降りてしまった。

 駅を降りて北総線。一度教えられたその駅は、羽田空港まで一本で行けるという。だからあたしは聞いたその言葉を頼りに、東松戸駅で降りた。だけどこの電車は初めて乗る。羽田行に乗ったはいいが、初めてすぎて怖かった。

 駅が通り過ぎていく。その間に日が昇って、あたしは夜明けの風景を、電車の中で見ていた。だけどずっと、あたしはとりあえず、たってその景色を見ていた。そしてそこからまた行けるのは、どこだろう。九時半までにつくのか。

 不安は大きかった。ううん、不安だけだった。それでもあたしは乗り続け、そして一時間半後の八時十五分、あたしは羽田の第一ターミナルについた。だけど迷ったのは、ここからでもある。

 まずJALのカウンターに行かなければならないのに、それが解らない。一階層ずつ、エレベーターに乗って、降りてを繰り返して、三階の搭乗口に行くのに、少し時間がかかった。カウンターであたしは、チケットを出してもらい、喫煙所を聞いた。

 運よく喫煙所は、構内にあった。あたしは荷物を引きずって、とりあえず喫煙所に行き、タバコを喫う。ほっとした。そう言えば父さんは、これが出来なかったなと、思い出す。あたしと父さん、兄の故郷。それがこれから行く日下だ。

 飛行機に乗る前に、携帯を見ておこうと、あたしは携帯を出した。法人で買った携帯で、あたしは借りているだけだ。でもこれがあるから、何とか不都合なしに、あたしはとりあえず連絡ができるようになった。

 叔父に連絡したのは、高知行が本決まりになってからだ。その代わり、二週間はあたしは、体がきついのを我慢して、毎日通所していた。作家を目指しているのに、普段しているのは軽作業。それを軽んじるつもりはないが、あたしは小説を書きたかった。

 これを書いている今も、あの時のことを思い出しながら書いている。だけどあの日は、高知は雨だった。秋が深まり、すでに暦の上では、冬。それにしては暖かかった。だからあたしは、行先の天気予報を見て、傘を持って来て正解だったと、正直に思ったものだ。

 タバコを喫い終わって、構内に戻ると、まずはチェックイン。これで手荷物が迷った。叔父達に渡す土産は、吉川で買ってある。あとは高知で迷わないことを祈っていた。やり方を聞いて、あたしはすべての荷物ではなく、キャリーケースだけ預けた。

 それから出発ロビーに入って、荷物検査では引っかからなかったので、ライターだけ処分してもらった。もったいなかったけど、危険物を中に持ち込むことは出来ない。飛行機事故の元となるからだ。

 そしてあたしは待つこと十分、ようやく搭乗開始となった。ところがあたしの座席は通路側。ましてマイレージポイントなど持っていない。なんだそれは、と思いながら、あたしは時間まで待った。

 最後にすべての座席が案内されて、あたしはチケット片手になかに進んだ。ここではあたしは、本名ではなく、ペンネームで名前を書こうと思う。星野真沙姫。あたしはペンネームではそう名乗っている。

 それがあたしの名前として、定着したのは、いつ頃だっただろうか。それでもずっとその名前で書いてきた。だからもう、あたしにとってはもう一つの名前。天気の関係もあり、気流が乱れていると、機内放送ではあった。

 しばらくして、飛行機が出ると、あたしは耳を防ぎたくなった。これが飛行機ではある。耳がキーンとなるのだ。その際、あたしはあることを思い出した。作業所のスタッフさんが言っていたのだ。飴を持って行け、と。あたしは今の今まで忘れていた。

 それから一時間、あたしはたいして不便を感じずに、機内ではコーヒーを飲んで、寛いだ。ただ自分が小さいことを、あたしは自覚している。棚に入れたパソコンと、土産が取れない。だがそれは機内の、キャビンアテンダントさんがとってくれた。

 それを持って、預けたキャリーケースを取るまで、更に三十分はかかったろうか。それでもあたしはいいと思っていた。ここが高知につく時点だ。いや、一時間の機内での時間を過ごし、あたしは高知龍馬空港に降り立っていた。

 到着ロビーを出て、あたしはため息をついた。ここが高知。帰りたかった故郷。だけどそこは記憶にはない。ここがどこなのかも解らなかった。機内の窓から見た時点では、あたしはこの故郷に帰りたかったと、強く思えた。懐かしかった。

 だがそこにあったのは、近代的に開発されたロビー。ここがどこの市なのかも解らない。ただ懐かしさだけにかまけていた。シャトルバスのチケットを買い、そしてロビーと、喫煙所の往復。だけど嬉しかった。

「あんさんはどこからきなすったね?」

「埼玉です」

「どこばいくが?」

 そこであたしは迷った。素直に日下と言えば、解ってくれるだろうか。入れ代わり立ち代わり、変わって行く喫煙所のお客さん。出てすぐは、確かに人影もあった。だけどそれはバスの運転手、タクシーの運転手だ。だから思い切った。

「日下です。日下ば故郷じゃき」

「日下ね。遠かね」

「はい。バスば乗らないかんけんど、バスが解らんです」

 その人はバスの運転手ではなく、タクシーの運転手だった。こういった田舎の気遣いは、あたしもうれしい。まだ生きていた。田舎の風習が。だからそれが胸を温める。ざぁざぁぶりに降る雨の中、あたしは三度ほど、喫煙所を利用した。

 そして高知行のバスが来たのは、それから四十分後。あたしはチケットを見せて、バスに乗り込んだ。エアポートバスと言っても、やはり一時間に一本。これが当たり前の、あたしの故郷。あたしは鞄の中を気にした。

 そこには父さんの写真を入れている。叔父達に見せようと思って、持ってきた。あたしの二人の叔父は、もう七十、八十代。それこそいい歳をしている。だけど二人とも健全で、家にいるという話だった。

 最後に電話したのは叔母で、叔父の奥さんだ。その叔母からは、上の叔父が日下に来てくれるという。だからあたしは、あえて電話をしなかった。エアポートバスで、高知市内についた時、あたしは驚いた。時間通りに出たのに、時間通りにはつかない。

 バスを降りたのは、駅前のバスターミナル。そこから雨をよけて、なかにかけこんだ。それからあたしは日下駅の駅名を捜して、切符を買った。コインロッカーとも思ったが、全部使われていて、あたしは大荷物のまま、電車に乗るしかなかった。

 エスカレーターがあったので、それでホームまで上がると、雨は一層強くなった気がする。だけど相変わらず、各駅停車は、そこに入っていたし、日下は各駅しか停まらない。停まっていた電車は、須崎行。それに乗り込んで十分。特急の待ち合わせだった。

 あたしは思わず気になって、日下に停まるかどうか、車掌さんに聞きに行った。停まるという。ではなぜ待ち合わせなのか。線路の関係だ。高知を出ると、あとはほとんどが単線。複数の線路は少ないし、日下はその数少ない駅だった。

 あたしはボックス席で、黙って窓の外を見ていた。時々時計を気にしたのは、叔母に時間を言ってあったからだ。これで上の叔父が帰っていたら、目も当てられない。上の叔父が住むのは、隣の佐川。日下ではない。

 だからあたしは初日は、日下ではなく、佐川で過ごすつもりだった。だがその叔父が、わざわざ日下まで来てくれるという。だからあたしは、その厚意に甘えたのだ。だがその代わりに電車は十五分ほど遅れて、須崎に向けて走り出した。

 時々窓の外と、そして時計を気にして、あたしは駅を見ていた。昔とは違う、駅の構内。降りたわけではないが、高知商業と訊いて、懐かしかったのも確かだ。昔は毎日、この電車に乗っていた。あの頃は、電車と言わず、汽車と言っていた。

 そうしてついたのが、日下駅。降りてすぐにあたしは雨に気づいて、傘をさしたが、土産物が濡れてしまった。だけど踏切を渡って、反対側のホームに行くと、そこには懐かしい、叔母の顔。あたしは思わず言っていた。

「叔母ちゃん」

 これがあたしの田舎の呼び方。それぞれ特徴のある呼び方だったが、あたしは違和感もなく、それを呼んでいた。昔からのことだった。

「まあちゃん、遅れよったがか?」

「うん、十五分ば遅れたが」

「そうじゃったか。なかなかつかんね、言うて話しちょったがよ」

 駅舎に入ると、あたしは懐かしい顔を見た。父さんによく似た顔。眉毛は父さんと同じ、特徴的な眉。これがあたしの一族だった。上の叔父は、記憶より小さくなっていた。当然だ。この人は今年八十二歳になる。

「おんちゃん、来てくれよったがね?」

「久しぶりじゃな?」

「うん、久しぶり。そじゃ、おんちゃん、写真ば撮らせてな」

 あたしは記録を残すことを、嫌だとは思わない。ここが日下。十五人から、二十人は入れば、もう一杯になる駅舎だけが、この駅の特徴。そのベンチも木造。変わっていない。年寄りばかりのこの里で、あたしは若者の部類に入る。

 叔父と叔母の写真を撮って、あたしは満足した。ここに帰ってこれた。電車に乗っている時に、すでに切符は回収されている。改札もない、木造の駅舎。昔と違うのは、コンクリート造りになっていたことぐらいか。

 相変わらず閑散とした駅前。店も失ければ、タクシーもない。叔母は車を回してくれて、あたしはそれに乗り込んだ。大荷物のあたしに気遣って、叔母はそれを後部座席に載せてくれた。それからは思い出話。昔、祖母の葬儀に帰って来ている。

 それらを話しながら、あたしは思い出していた。この里では、車は一家に数台。免許を持っているものは、全員が車を持っている。そうでなければ、全く身動きが取れないからだ。そのため、歳行っていても、ほとんどの人が車を持っていた。

「日下は変わっちょらんねぇ。昔、お祖母ちゃんの葬儀の時、あたしは迷うたがよ。日下じゃき、入れんはずなか、っちゅうてな。踏切ば超えないかんかったが、道路地図で解ってなぁ」

 さすがに笑い話だ。今話すと。だけどあまりにも記憶が幼すぎた。あの頃は、日下にはあまり帰ってこなかったし、それどころか父さんの車で戻って来ていた。祖母の葬儀が初めてだったろうか。あたしが自分で車を運転したのは。

 いろいろ話をしていて、うちの本家についたのは、それから十分か、十五分ばかり過ぎた頃。雨はまだ降っていて、叔母は玄関から入るように言ってくれた。その玄関の戸も、変わっていた。だけどあたしには懐かしい。

 玄関を入ると、狭い三和土。そこを上がると、廊下があり、両方に部屋がある。もともとは祖父母の部屋。だけどそこにはもう、その痕跡もなかった。客間と祖父母の部屋が、父さんが建てたこの家だった。

「おんちゃん、おるが?」

「よぉもんて来たな。座り座り」

「あんがとさん」

 叔父もまた、特徴のある眉毛をしていた。だけどこれがうちの血筋。父さんがすっきりしすぎていただけだ。あたしもそれくらいは憶えている。だけど叔父と話すのは、いつも思い出話ばかり。それで知ったのだが、祖母が亡くなって、もう十六年が経っていた。

 早い月日だ。あたしは三回忌も、七回忌も、十三回忌もでれなかった。お金がなかった。ここまで帰ってくるのに、かなりのお金がかかる。それくらいは憶えていた。三十六で車を手放したあたしは、父さんの死に水さえ取れなかった。

 その写真を出した時、叔父は懐かしそうに見た。それからあたしに聞いたのだ。父さんのがんは何だったのか。直腸がんだった。ただ陽性のポリープで、転移もしていないから、大丈夫だという話だった。

 それを聞いたのは、あたしだった。だから答えられたのだ。それでもつらいことは確かで、それでもお祖父ちゃんがやはり、直腸がんをしていたので、血だと言っていた。叔父もあたしもタバコを喫うので、お墓参りも行って、そしてご先祖様とお祖父ちゃん達に挨拶した。

 あの頃は木の階段だったそこは、コンクリートを敷いて、今はある程度安全になっている。だけどそれでも、あたしには懐かしい場所。そこはお祖父ちゃんのお気に入りだった。まだ小さかったあたしを乗せ、お祖父ちゃんはたんぼを見下ろしていた。

 それがひどく懐かしくて、あたしは振り返れなかった。ここから見下ろす光景は、もう変わっている。それは解った。だからあたしは振り返れなかった。叔母が切り出してくれた花を添えて、手を合わせただけで、あたしは叔母とともにその高台を下りた。

 また叔父の家に戻って、最後にトイレに行って、写真を撮らせてもらった。叔父と、そして祖父母の写真。あとで見てみると、失敗していた。だけどそれも大切な思い出。だから消そうとは思わない。

 叔母に駅まで送ってもらい、叔母が汽車の時間を聞いてくれて、あたしは日下駅の写真を撮り、そして車掌さんに切符を売ってもらって、汽車に乗り込んだ。今どき珍しい、券売機もない、そんな典型的な無人駅。それが日下駅だ。あるのは時刻表だけ。

 この時刻表も、たびたび遅れる。上下線の上り下りの、このすれ違いができる駅が、あまりにも少ないためだ。特急が停まる駅ならまだしも、日下駅は特急は停まらない。だけどあたしはこの淋しい駅が、昔から好きだった。

 叔母に手を振りながら、あたしは汽車の出発を待った。叔母が言うには、ほぼ時間通りには出るらしい。これがひどく珍しいのは、あたしもよく知っている。だからそれだけに名残惜しかった。それでも出て行かなければならない。ここにあたしの家はない。

 あたしの家は、もう四十数年も前に、失くなった。だからあたしは、この里を出て、高知市内の、ホテルに泊まるしかないのだ。それがもう昔からの約束だった。だからあたしは出て行く。ここから離れた、高知市へと。

 時間通りに出た汽車は、各駅に停まり、そして差し掛かった高知商業前までの駅で、学生たちが乗り込んできた。ちょうど通学ラッシュだ。こういう時しか、この土讃線は、満員にはならない。あたりにちらほらと見えるだけの学生ではない。

 高知商業は、全国各地から、スポーツ好きの少年達をスカウトしては、入れていた学校だった。一時は野球で、たびたび甲子園の土も踏んでいる。だが今はそれは過去の栄光だった。それほど名前は売れていない。だから知らない人のほうが多い。

 あたしはそれを懐かしく見ていて、ひとり、少年に話しかけられた。だから答えたのだ。たった一言『帰郷』と。それは嘘ではない。あたしはここで生まれて育った。だからこの高知が故郷。そう何度も自分に言い聞かせ、流れる景色を見ていた。

 高知を出てからは、ほとんどが街だった。都会だ、あたしから言わせれば。傍に数軒、数えるだけの家。それが所々にあるだけの、淋しい里に生まれて、あたしは当然のように育った。あの里は振り返ると、もうかなり遠ざかっている。

 お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが眠る里には、あたしは住めない。それは知っている。今ですら都会に住んでいる。周りは皆田舎だと言っていた。だけどあたしにとっては都会。バスがあり、電車がある。タクシーも駅前に行けばあるし、電話すれば迎えに来る。

 そんな当たり前の光景が、あたしのあの故郷にはない。あの故郷にあるのは、冬はしんっと静まり返る、静かな夜だけ。そしておそらくは信じられないだろうが、たった四チャンネルしかない、高知のテレビ番組。それでだいたいの番組を網羅している。

 駅に降りると、あたしは当然のように駅員のいる窓口を選んで、改札を抜けて、コインロッカーに向かった。見ると、あたしが使いたかったロッカーは、ほとんどが開いている。叔父が笑ったものだ。早くに行かないと、使われている、と。確かにそうだ。

 そこからパソコンを出して、あたしは大荷物を持って、ホテルに通じるとさでんに乗った。このとさでん、路面電車だ。高知市内から、伊野市までを網羅している。ところが伊野唐崎、日下までは通っていない。これが田舎の限界だ。

 とさでんではりまや橋で降りて、あたしはさすがに夜が早いと、感心してしまった。周囲はもう暗く、早くホテルを捜さなければ、あたしは宿までないことになる。この時期、いかに南国高知とは言え、夜は冷える。そのつらさも知っていた。

「えっと、ウェルカム高知ってどこじゃね?」

 あたしは周囲を見回したが、小声のその声は、誰にも届かない。はりまや橋の近くだと聞いていたあたしは、さすがにすぐにはりまや橋を捜した。

 高知の明地、はりまや橋。ここは観光スポットにも紹介されるが、ただここは目立たない。この近くにホテルがあると知っていたあたしは、まず先に警備会社の駐車場を見つけ、そこの係員に聞いたが、色よい返事はもらえなかった。

 そこで近くの商店の店主に聞いたが、それも同じ。ただ観光地図をもらったので、それを頼りに歩いていると、赤い欄干が見えた。はりまや橋だ。それはすぐに解った。昔、あたしはここで踊ったことがある。土佐の民謡『よさこい節』は、毎年ここで踊られる。

 昔、五歳の頃だ。あたしは真夏にある盆踊りで、ここで『よさこい節』を踊った。お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、父さんも母さんも見に来てくれた。あとの列では兄が躍っている。兄妹そろって踊ることはないが、あたし達は確かにここで踊ったのだ。

「すみません、このはりまや橋で写真を撮りませんか?」

「あたしは昔、ここで踊っちょるんですが?」

「あ……すみません……」

 いいけど、田舎まで来て、ナンパするな。そう言いたかった。言わなかったけど。あたしは散々に迷って、五軒目でようやく、そのホテルにたどり着いた。言われてみれば通りが走っているし、タクシーも停まっている。

 だから結果的には、駅前のタクシー乗り場を利用し、そこからホテルまで連れて来てもらえば、早かった話だ。それなのにあたしは、タクシーをできる限り利用するな、という指示を守って、迷いまくったというわけだった。

 ホテルはまだ混んでおらず、あたしはスムーズにチェックインして、五階の部屋まで行った。なぜかツインルーム、そう聞いていたあたしは、中に入って、納得した。明かりをつけると、ダブルベッドが一つ、シングルベッドが一つの、ツインルームだった。

 ここはよく家族連れが利用するのだろう。それが解る内装で、あたしはデッキチェアを出さず、椅子に座って、パソコンを起動した。明日は大歩危、最終日は桂浜と、さっさと予定を立てた旅だが、あたしは異論はなかった。大歩危と桂浜は、ぜひ行きたい場所だ。

 明日の予定を考えながら、趣味の小説を書く。高知の夜と言っても、とさでんがあるように、高知市内は都会だ。だから日下のような、静かな冷える夜にはならない。それでもホテルにはエアコンが設置され、あたしはトイレに行って、ほっとした。

 とさでんのような路面電車は、主に観光用に利用されると、うちの作業所の理事長は、知らなかったらしい。あたしは最初から知っていたが。だからそれも土産に撮ることにしている。だけどそれ以外に何を撮ればいいのか。

 あたしはキーボードを打ちながら、考えていた。あたしのパソコンは、やたらに範囲設定をするので、あたしはたびたび文字を消されて、その度に打ち直すという手間を、何度も取らされている。

 だが今、ノートパソコンも高いため、あまり買い替えられない。だからあたしは文句を言わず、ただ我慢して打っていた。叔父達にもらった包みは、今は開けない。きっと開けたら、あたしはそれを返しに行こうとするだろうから。

 叔父達が定年退職して、もうだいぶ経つことを、あたしは憶えていた。末の叔父が七十後半、上の叔父は父さんとは三歳違いだ。それだけの歳をとっているので、来年五十になるあたしは、さすがに叔父達にもらったものを、その場で返すことはできなかった。

 だから埼玉に帰ったら開けようと、そう思っていた。そしていずれ叔父達に何かあれば、その時はあたしも駆けつけようと決めていた。それだけのことをしてもらった。叔父の家で食べた寿司が、あたしには嬉しかった。出来合いの物でも、土佐の水があっている。

 それがあたしには解った。都会の水は、あたしには臭くて飲めない。だからいつもコーヒーばかりを飲んでいた。ただ猫舌なので、熱い飲み物は全滅で、あたしは主にアイスコーヒーを飲んでいる。

「えっと、叔母ちゃんにもろたお寿司で、お腹ははっちょるき、あとは風呂入って寝るだけ。じゃけんど、この興奮状態、いつ収まるじゃろ?」

 自分でもそれは解らない。この故郷に帰って来たのは、叔父の言葉なら十六年ぶり。

 お祖母ちゃんの葬儀が十六年前。だからその時に一度帰って来ていて、それ以来だ。理事長様様だ。だから今は恨む気持ちも、全くない。ホテルで迷ったことは置いといて、あたしは明日への大歩危に、意識を向けた。久しぶりに行くからだ。

 予定表を確認して、あたしはだいたいすぐにタイムスケジュールを考えた。朝食の券ももらったし、コインランドリーの場所も聞いた。あとは、風呂に入るだけだ。そして薬を飲んで寝るだけ。そのはずだった。

 起きたのは、深夜だった。まだ夜が明けていない。時計を見ると、まだ二時だった。これは午前様などという、生易しいものではない。もう汽車は全くない。だからあたしは、パジャマ姿で、仕方なく缶コーヒーを買いに行った。

 飲んだ缶コーヒーを捨て、代わりに新しい缶コーヒーを買う。その繰り返しだった。興奮していた、明らかに。日下に帰ったからか、あるいは大歩危に行けるからか。高知と徳島を隔てる大歩危峠。そこに鎮座するように営業していた、大歩危ドライブイン。

 父さんは長距離の運転手をしていたことがあり、たびたびこのドライブインに行っていた。だからだろう。あたし達も幼いころから行っていて、遊び場も等しかった。そこに駅があることは、知っていた。対岸だったと記憶していた。

 というのも、昔は鮎釣りが盛んで、ここで取れた鮎を、塩焼きにして、客に食べさせるという、商売が成り立っていたのだ。それを憶えていたあたしは、大歩危で、うどんとアユを食べることにしていた。絶品だからだ。

 讃岐というからには、それなりのこしの強さと、張のあるうどんだが、それだけに素うどんで食べると、美味しい。あたしは大好きだった。今でもうどんを好物の一つに挙げるのは、これを憶えていたからだ。

 その秘訣が水にあることを、あたしは料理人の人に、こっそりと教えてもらっていた。冷水でぬめりを取り、ゆっくりと茹で上げることが、そのコツなんだそうだ。だけど自分でうどんを作っても、どうしても真似できない。子供の頃に、何度も挑戦した。

 だからもう一度、食べたかった。行程では、十五分ほどで着くという。だからあたしは、決めていた。さっさと岡山行きの特急に乗るか、各駅で行くかして、あたしは旅すがら、道すがらで行くことにしていた。

 次の朝、朝食を食べたあたしは、さっさと支度をした。この時、携帯を入れるのを忘れていて、あたしは大歩危についてから、その間抜けに腹が立った。大歩危に来るのに、大ボケをかましてどうなる、と思ってしまった。それくらいのことをしてしまった。

 写真が一枚も撮れなかった。だからあたしは高知に戻ったら、今度こそ携帯をとって、駅前で見た、三英志の像を撮ろうと、心に決めた。大歩危が撮れない以上、あたしはそうするしかなかった。

 駅前でタバコを喫って、あたしは駅に入ると、はっとした。そうだ。ここでも特急券はいるが、特急券の買い方を知らない。駅員さんに慌てて訊きに行き、あたしは特急券を買って、それから大歩危に行った。

 やはりここも同じ。日下と同じ無人駅だ。ただ駅員はいるらしく、切符を売っていた。ただあたしが行った時間が早すぎて、まだ窓口はしまっていたが。だから券売機があるのを確かめて、あたしは駅を出て、すぐに喫煙所を捜し、タバコを喫った。

 それで見ていたが、駅前は日下のように、寂れてはいなかった。店が三軒ほどあり、更には大歩危の観光バスも出ている。ただこれは予約制で、行きずりの観光客は乗せない。だから前もって予約する必要があるが、あたしはもともとあてにはしていなかった。

 タバコを喫い終えて、あたしは旅すがら道すがらで、坂を上がった。これは確実に筋肉痛になる。それだけの急な坂で、だけど上り切ってからは、一本道。あたしは記憶通り、対岸に渡ることが出来て、橋梁から見たその清流に、心が持って行かれた。

 そうだ。この清流を見たかった。この清流が、今書いている話の、モデルになったところだ。この急な坂は、あたしが思い描いていた、『渓谷』だった。やはりここも記憶と、それほどの食い違いはなかった。

 あえて時計を見ずに、あたしは旅すがら道すがらで歩いて、大歩危ドライブインを捜した。周りを見ながら、あたしは記憶との違いを、まったく見つけられなかった。だから期待してしまったのだ。それを知ったのは、妖怪屋敷、と出た看板に、首が傾げられた。

 昔はそんなところはなかった。ここは大歩危峠のはずだ。歩きながら、古い道を歩いた。そしてその理由を知った時、あたしは内心、がっくり来た。大歩危峠にあるのは、大歩危ドライブインだけだった。周りを見ても、そんなところはない。だがそのたたずまいは。

 あたしはトイレに行って、手を洗って、ハンカチで拭きながら出て、恐る恐る、その店に入った。目についたのは、妖怪の絵面のTシャツや、ハンカチなどの小物。そして名物でもある、讃岐うどんのパック。そう言った、なぜか現代ものもある。

一通り店を回って、あたしはとりあえず名物である讃岐うどんの、四、五人前パックを三つ買って、ふと見た奥に、昔ながらの座敷があった。だからあたしは期待してしまった。だけどそのメニューを見た時、あたしは失望してしまった。

 変わった名前の、ハンバーガーが売られていたのだ。そんなものを食べに来たわけではない。だけどあたしは、あの清流を見ただけで、良しとした。少し話を聞いたら、大歩危ドライブインが失くなったのは、十六、七年前だという。

 ちょうどその頃、お祖母ちゃんの葬儀で帰って来ていたあたしは、ここには来ていない。当時の建物を利用して、今の店が出来たという。その頃に失くなったのは、大歩危ドライブインだけではない。高知大阪間特急フェリーもそうだ。

 昔、高知の高知港と、大阪の南港を結んでいた、特急フェリーだ。失くなると聞いて、あたしは迷いなく、特等席で大阪に帰った。これで一つ、お祖母ちゃんとの思い出がなくなる。そう思ったのは、まだ記憶に新しい。

 あたしは帰りは、半ば失望しながら、駅までの道を歩いた。そしてふと見ると、うどん、の文字があった。ここにあったのだ。大歩危名物、讃岐うどん。あたしは店主さんに聞いて、食券を買って、それを渡してから、出来立ての讃岐うどんを食べた。

 これがつるつるして美味しい。昔ながらの作り方だと、すぐに解った。大歩危の冷水で洗われたうどんは、つるつるして美味しい。これをゆっくりゆでるから、あの味が出るのだ。料理人でもない、素人のあたしが出せる味ではなかった。

 それを堪能して、あたしはまた駅前でタバコを喫って、高知行の特急に乗り込んだ。それから高知市内に戻って、時間を潰す気にもなれずに、ホテルに帰った。そしてあたしは昼を食べてから、今度は高知市内の観光に出た。

 おもてなしクーポンは、実は全く使っていない。だからあたしは土産物屋を捜しながら、ただ散策した。理事長に電話したら、早々にパソコンに向かわせる気はない、と言い切られてしまったが、確かにはりまや橋や、その奥の維新時代に作られた四阿がある。

 これらは高知の名所で、だからここで写真を撮ることは、一種のステータスになっている。これが高知観光だと、うそぶくものもいるほどだが、あたしはそんな気はなかった。昔はもっとあったはりまや橋は、その規模が縮小されていた。

 それを残念に思いながら、写真を三枚とって、さらにその奥の四阿を撮って、更に高知市内の観光を続けて、土産物屋を、駅前で見つけた。この時点で送ってもらえばよかったのだが、あたしはそれすら失念していた。ううん、思いつかなかった。

 ホテルに持って帰って、これは持って帰れないと思い、あたしはホテルから送ってもらうことにした。そこでもまた迷惑をかけたが、ホテルの人は元払いとして、あたしがお金を払うと、快く送ってくれた。それに感謝してしまった。

 それからホテルの部屋に戻って、まだ日暮れまで時間があったので、ホテルの部屋から、高知市内の景色を撮った。ちょうど路面電車が過ぎた後だったようだ。あたし達は昔から、チンチン電車と呼んでいたが、それもいい思い出だ。

 そして翌日、あたしは興奮で眠れないまま、桂浜観光に行くために、荷物を預けた。朝はちゃんと食べたし、ホテルは綺麗だった。だからもう、あたしには文句のつけようのない、高知市内だった。

 タクシーの長時間貸し切りは、確かに安かった。都会ではこうはいかない。観光名所を案内してくれるプランだが、あたしはあえて、桂浜だけにしてもらった。桂浜だけが行きたかったのだ。だから今更見飽きた高知城とかは、まったくの度外視だ。

 タクシー内では、昔の思い出話に花が咲いた。高知市内は変わっていた。あちこちにコンビニが出来て、高知道が完成した。この完成によって、四国縦断道が開通し、高知各所に行けるようになったと、再従兄弟が話していたのが思い出された。

 平日の旅行なので、再従兄弟とは会えない。だけどあたしは、それでもこの高知に帰ってこれて、よかったと思った。ふと窓の外を見ると、昔の料金所が見えた。昔、桂浜にはこの料金所を超えて、有料道路に入らなければならなかった。

 今はその跡地だけが残っていて、往時を思い出させる。だけど駐車場は広く、観光用のタクシーも停まれるように、施設が整えられていた。あたしはタクシーを降りて、真っ先に浜に向かった。その途中、あたしは土産物屋を見て、ふと違和感を感じた。

 叔父が言っていたのだ。桂浜も変わったと。水族館は確かにあったが、もうそこにフラミンゴはいなかった。そして桂浜水族館も、たいして広くなったとは、確かに言えなかった。コンクリート詰めの階段を上がり、すぐに見えたのは、広い浜辺だった。

 そこにはかつてあった売店はなく、星の砂も売っていなかった。星の砂とは、鳴き砂のことだ。この桂浜だけで捕れる、鳴き砂。これは高知の最大の特産品だった。あたし達は願いをかなえてくれるという、この鳴き砂を、星の砂と呼んでいた。

 何もかもが変わっていた。ここで食べられたイカの姿焼きもなく、そしてかつてあった土産物屋も失くなっていた。ただあったのは、綺麗な砂浜だけ。そこも舗装された遊歩道があったが、あたしは二ヶ所を収める写真だけを撮って、土産物屋に行って、土産物を買った。

 あとはふと見ると、カツオのたたき、とあった。高知の特産品の一つ、カツオのたたき。ここでしか食べられない特殊なたたきで、ほかの燻して焼く方法とは、一味違う。あたしはそのメニューを見て、迷ってしまった。食べたかったからだ。

 だけど値段を見て、そしてあたしは時間も気にして、注文票だけをもらって、桂浜を後にした。海の色は濁っていたが、それでもきれいだったのは変わらず、あと数日もすれば、晴れが続けば、また海底が見えるほどには澄んでくる。それがこの桂浜だった。

 あたしは行きと同様、思い出話に思いを忍ばせたが、曾我部成親の像を撮れると知って、撮ってもらった。自分で撮ったのが一枚、撮ってもらったのが二枚。それだけでも収穫はあった。そして高知駅に戻り、あたしは改めて、荷物を置く場所を捜した。

 あとから見つけたキオスクで、あたしはコインロッカーが開いていることを知って、大きな荷物は全部、そこに預けた。そしてまだ使っていなかったおもてなしクーポンで、土産を買って、持って帰ることにした。

 この時、迷いなく買ったのは、龍馬の脱藩セット、だった。坂本龍馬が高知出身だということも、そして脱藩していたということも、広く歴史で習うことだ。だけど土佐には一つだけ、龍馬の伝説が残っている。

 龍馬は脱藩に当たって、カツオ一本と、菓子を持って土佐を後にしたという。その菓子は、姉の乙女が持たせたものだ、という伝説だ。それは誰にも知られておらず、あたしは菓子と思い込んで買ったのだが、帰って開けてみると、カツオだった。

 そしてこの日に帰ることになっていたので、あたしは中身を確かめずに買って、持って帰った。帰りはよかった。シャトルバスに乗って、あたしは高知龍馬空港に向かった。高知龍馬空港では、チェックインが遅かったので、本当ならまだゆっくりできた。

 これがあたしの悪い癖だ。人にタイムスケジュールを決められると、その先々に行ってしまう。だからいつも損するのだが、この癖だけは治らない。そしてチェックインの時、大荷物である、キャリーケースは預けることにしていた。

 チケットをもらい、あたしは荷物検査をして、空港内の、出発ロビーにある、喫煙所で時間を潰した。特に何もないはずが、面白いものを見つけて、あたしは人があまりいない時を狙って、その写真を撮った。実は外でも撮っている。

 外の喫煙所には、やはり灰皿が、三つ四つ、置かれている。コロナ禍のために、距離を撮って、会話を控えてタバコを喫うのだ。そしてあたしは到着時のことを思い出して、自分で苦笑を浮かべた。ざあざあぶりの高知龍馬空港で、あたしは喫煙所を捜したのだ。

 その時は見えなかったけど、時間がある今なら見えた。それも撮っておいて、さすがに寒くなったので、喫煙所のある、出発ロビーに入ったのだ。そしてその時も見た。おかしかった。ここまで龍馬を強調しなくてもいいのに、と思ってしまったが、これも土産だ。

 そして時間が来て、あたしは喫煙所から出て、鞄と傘だけを持って機内に入った。国際線からの便らしく、あたしはまた通路側だった。外はもう真っ暗だ。羽田についたら、今度はバスに乗る予定だ。あたしは携帯を出して、思い出を振り返る。

 楽しい高知旅行だった。また帰って来たい。ここがあたしのルーツだと、あたしはそう思えたし、確信できた。自分用の土産も買った。それが今まで買った土産の中で、一番高価なものだと、内心で確信できた。安く買えたけど。

 羽田空港についたのは、夜も更け始めた頃だった。まだ耳がおかしい。そしてあたしは、バスに乗って帰ることになっている。新越谷行だ。それに乗るのは、初めてだった。席番は決まっていなかったが、あたしは中ほどに腰かけた。

 それから一時間半、あたしは身動きできないバスの中で、真っ暗になった景色を見ていた。新越谷についてから、ローソンによって、カップ麺を買って、あたしは南越の駅に入って、武蔵野線に乗り、吉川駅についた。

 この時、あたしが大荷物だったことを見た親切な女性が、ホームまでキャリーケースをあげてくれた。それがうれしかった。だけど最悪だったのは、吉川駅だ。あたしは禁止はされていたが、結局タクシーで、百円ローソンまで帰った。買うものがあったからだ。

 それ以外の無駄なお金は、一円もなかった。その運転手が最悪だった。あたしが行先を告げると、その瞬間から舌打ちと、そして唾吐きをやめず、降りてからも、荷物を出そうとさえしてくれなかった。あたしは重い荷物を持って、とりあえずは買い物して帰った。

 階段を上がる時は苦労したが、それでも疲れた体に鞭打ち、夕食と、そしてお風呂を済ませて、寝たのは二時か。多分それくらいだった。だから初めてタイマーをかけた。


 あたしは……星野真沙姫、で小説を書いてきた。だけどこれは単純に、思い出話。あたしの久しぶりの帰郷で、また行くことがあっても、叔父夫婦には会えないだろう。きっとその頃は、もうこの世にはいないかも知れない。そういう年齢だから、写真だけは飾ろう。

 そしていつかグループホームを出て、あたしは大阪に帰りたい。やり直すなら大阪と、もう何年も前に決めていた。ただ回想に耽りたい。だから写真は現像しよう。それだけだ。

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