課題作品

藤島

私利私欲(第一回課題)

 黒猫を飼い始めた。

 ミカからそう報告を受けたのは、大学生の頃だった。私とミカの出会いの場所。学食のオープンテラスで、嬉しそうに新しく家族に迎えた黒猫の可愛さを語っているミカは、話に聞く黒猫よりずっと可愛く見えた。丸みを帯びた頬を色づかせている理由が男じゃなくて良かったと思ったのは、その時の本心だ。

 ミカのSNSはそれからしばらく、黒猫の写真であふれていた。


 ミカの結婚式は、大学卒業から二年経った大安の日に行われた。

 祝福されるべき衣装で着飾ったミカは確かに幸せに迎えられる人間だと思ったし、その隣に立つ男は幸せ者だろう。

 私はミカの友人として、相応しい祝福をその場で述べて、何事もない顔をして式場を去る。その後は適度に落ち込んで、仕事して、日常に埋没するだけだった。

 それでも変わらずミカのSNSを追うことはやめられなかったし、ミカとの繋がりも、以前ほどじゃないにしても途切れさせることはできなかった。ミカのSNSは、次第に好きなコスメブランドやアイドルのことだけじゃなくて家庭での愚痴のようなものも見られるようになってきて、私は機会を見計らってはミカへメッセージを送っていた。

 それでも、変わらずに続けられているのは飼っている黒猫の写真投稿だ。

 魔女が主役の映画が好きだったミカ。いつか映画に出てくるような黒猫を飼いたいと言っていて、それが叶ったのが大学生の頃。保護猫の中からマッチングされたミカの黒猫。名前は結局何だっただろうか。私は、つまらない私情でその猫の名前をいつも覚えられなくてミカに怒られている。そんな猫の写真はほぼ毎日投稿されているから、ミカの好きな物は変わっていないし、ミカが変わらずにいてくれる指標にもなっていた。

 でも、旦那との日々の愚痴が書き込まれたり、旦那との写真が上げられる度に、私の感情は波打ってしまう。結婚したのだから次は子どもが産まれるのだろう。そうなったらミカは母親になってしまう。母親になったミカは、私の友人のミカだろうか。私の心を一抹の不安がよぎる。私が持てない物を手にしていくミカ。それは、ミカが私の知らない世界に行ってしまうことを意味していた。共有できる物が少なくなった時、それまでの関係を維持することはできるだろうか。答えはノーだ。少なくとも、私はそう思っている。

 一度、ミカからもSNSからも距離を取ろう。

 ミカが妊娠したという報告を上げたのをきっかけに、毎日が小さな不安に追いかけ回されている気がして、私はスマートフォンからSNSのアプリを消した。ミカの痕跡を消すように。それでも最初は気になってアプリのインストールとアンインストールを繰り返していたけれど、二ヶ月も経てば頻繁にSNSを気にすることもなくなっていた。


 それから三年は穏やかだった。

 ミカとの連絡は最小限に、SNSは見ないようにして、ミカの口から聞く近況だけをインプットする。

 子どもが産まれてからは、生まれた後すぐに出産祝いを渡しに行ったきり会っていない。育児とは時間と余裕を奪われるものだ。ミカは出産を機に産休に入っていたし、時間が合わないことも理由のひとつだった。

 このままゆるやかに切れていってしまうのだろうか。

 大学生の頃のミカから、母親になったミカは身につけるアイテムも顔つきも変わってしまった。子どもが最優先になっていて、時折来るメッセージも黒猫のことより子どものことの方が多くなっていたし、子どものこともそのうち私には送られてこなくなった。子育ての相談や愚痴なら、共感してくれる人の方がいいだろう。

 寂しい反面、やっと少しは穏やかになれると思った。それなのに、あの日ミカから連絡がきてしまった。


「ナオが言ったんじゃない」

 目の前で私をなじるミカの目は恨みにまみれている。あの日、黒猫を飼うと嬉しさに綻ばせていた口元は、まったく反対の方向へねじれて私への恨み言を吐いていた。そうさせたのは私。

 私はミカのアパートで、靴も脱がずに立ちすくんでいた。何も言えない私に、ミカはますます厳しい口調で固い言葉をぶつけてくる。

「どうしてくれるの?」

 ミカの家の玄関は薄暗く、空気がよどんでいる。履きつぶした大人用のスニーカーが一足ひっくり返っていて、隅には子ども用の小さなスニーカーが置いてあった。私はそれらを避けたところに立っている。

 平日の夜に呼び出され、ミカの家に来た私は仕事着のスーツのままミカの前に立っている。仕事で怒られた時だって、こんなに針のむしろに座るような気持ちになったことはない。だって仕事は変えられるしいつでも辞められる。無くして困る繋がりではない。でもミカは違う。そう思っているが、喉の奥に声が貼りついてしまったようでうまく言葉にならない。頭の中を巡る言い訳にもならない理屈は、浮かんでは消えていってしまった。何を言ってもいまのミカには通じないだろう。

「ねぇナオ。わたし、言うとおりにしたじゃない」

「……うん」

「ナオが言ったんだよね? どうせしゃべれないんだからって」

「そうだね」

 そう、言った。私が。

 あの日、大切に飼っていた黒猫を、当時三歳の子どもに殺されてしまって、発狂寸前のミカが電話をかけてきた時に。


『どうせその子はしゃべれないんだから、代わりにしたらいいじゃない』


 私が来た時にはまだギリギリ理性を保っていたミカを後ろから押さえて、乞うように言った。殺されてしまった猫の代わりに、脳に障害を持った子どもを猫にしたらいい。人間だと思ったら腹が立ってしまって、遅かれ速かれミカは子どもを殺してしまう。そうなったらミカはどうなるだろうか。酷いバッシングを受けるだろう。子どもの障害が発覚したところでミカは旦那と別れている。一緒に子どもを育てられないから。両親とも疎遠で、誰にも守られないミカが、顔も知らない奴らに傷つけられるなんて、私には耐えられない。

 だから私は、子どもを猫の代わりにするように提案した。だってどちらも私にはなれないものだ。ミカが一線を越えずに済むならどうだってよかった。だってミカは猫を大事にしていた。それなら子どもは殺されなくて済むだろうと思ったのだ。しかし、子どもを猫の代わりにするということが実はどれほどおぞましいことなのか、私は想像すらしなかった。

 ミカだけが大事だった。ミカを止めるために言ったうちのひと言が、幸いにもミカをかろうじて踏みとどまらせたから、あの時の私はほっとしたのだ。私がミカを救ったのだと思った。

 薄暗い廊下に子どもの姿は見えない。

「虐待だって。わたしが悪いんだって。周りからはそう言われるし鬱陶しくなって突き飛ばしちゃった。あの子動かないの。だからナオ、わたしの代わりに出頭してくれない?」

 それまでの険しい表情から一転、ミカは目元を緩めて私の手を取る。その顔は大学でレポートを忘れた時と同じ顔だ。私が可愛いと思っていたミカの顔だ。その顔を見たら、私はもう何も言えない。

 どうせミカは、私が罪を被ったところで私のことを忘れてしまうし、事実は明るみになるだろう。

「わかった」

 涙が止まらない。それでもよかった。ぼろぼろになったミカの家で、先に残らない約束をする。

 あんな一言でミカの人生に爪痕を残せると思った浅はかさを呑み込んで、私は笑った。

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