友士灯―ともしび― 継承編

葉霜雁景

第十二章 あとを残す

縫合

舟出

 一体、相手は何を考えているのだろう。


 巨大な湖と、湖畔に広がる街を見下ろせる高台にて、志乃は途方に暮れていた。まだ優しさが残る夏の日差しの下、志乃を連れ出した相手が完全に沈黙してしまっているので。

 ここへ来た多くがやっているように、志乃と同行者は柵の近くに並び立って、広大な青色を眺めている。水面を煌めかせる湖、そこへ繋がっている大海原、浮かぶ雲の白も強い夏空。清々しい景色に加え、後方からは物売りの声が、突き抜けるように打ち上げられている。


「――花居志乃、様」


 何もかもが明朗な夏の昼下がりの中、静かな影の声が、雑踏に放浪する志乃の意識を引き戻した。声の主を見やれば、深く沈み込む焦げ茶の双眸と視線が合う。左の目元にある黒子まで、自然と印象に刻まれる双眸だった。顔を合わせ話すのは二回目な志乃も、よく憶えている。

 瞳と同じ焦げ茶の髪を後ろで団子状にまとめ、首筋にも二つの黒子ほくろが目立つ少女。彼女が何故、志乃を連れ出しているのか。きっかけは少し前、今日の昼頃にまで遡る。






 文月ふみづきに入ってから早くも十日が過ぎた頃。茉白を加えた直武一行は、予定通り三日の猶予を保って林濱はやしはまに到着していた。

 穹鏡湾そらかがみわんに面していた碧原府へきげんふの各郡のように、林濱は濃青海のうせいかいと繋がる大きな湖、松枝湖まつえだこを有している。元は支流がいくつも合流して広くなった河といった方が正しかったのだが、〈静堅せいけんの惨禍〉が起こった際に地形が変わっている。さらに、十数年前にも物の怪の襲撃を受けた際には、海と繋がるようにさえなった。


 圧倒的な災害に打ちのめされた痕跡は残っているものの、それ以上の活気が、湖に寄り添う街々を覆いつくしている。碧原府へ続く街道、藍山道あいざんどうが通っていたことに加え、海と繋がったことで水運に海運の幅も広がっている。

 古くからの恩恵と、惨禍の影の両方を落とす松枝湖を眺めながら、志乃と茉白は昼餉を取っていた。場所は景観と鰻が売りの食事処、二人がつついているのも、ふっくら焼かれたうなぎが乗ったお重。志乃は味の良し悪しを判別できていなかったが、茉白が美味しそうに食べているから美味しいのだろうと、のんびり箸を動かしていた。


「はあー、美味しくって栄養にもなる食材って最高……」

「ああ、そうでした。夏と言えば土用の丑の日があるんでしたねぇ」


 頬に片手を当て、うっとり感嘆する茉白に応じた志乃の声は、男を装う低い声になっている。笠や頭巾で執拗に肌を隠す、どうしても訳ありそうに見えてしまう少女の護衛が同じく女性だと、厄介事に巻き込まれるかもしれない故の配慮だった。

 志乃と茉白が他の男性三人と別れて行動しているのは、茉白の小さな用事、買い物を済ませるため。終わった頃合いはちょうど昼時でもあり、食べる機会の少ない鰻を食べに行こうと茉白が意気込んで今に至っている。


「丑の日当日はまだだけどね。でもやっぱり、これから暑くなってくるだろうし、孝信たかのぶは先月とんでもない目に遭ったし、滋養のあるものは積極的に食べておくべきだよ」


 志乃が男声を使う時の名前をさらりと口にしながら、茉白も箸を進めていく。一口ごとに切り分けられる白飯と鰻の大きさは、志乃の見慣れた男性陣が切り出す半分ほどしかない。果たしてその調子で食べきれるのか、という志乃の密かな心配をよそに、茉白は志乃より少し遅れて食べ終えていた。

 終わりは終わりと未だ盛況な店を出て、二人は当初の目的である滞在場所、兼久隊と直武一行のために貸し出された旅館へと向かう。慰霊祭に参加する渡辺家と碓伊うすい家の代表へ貸し出される旅館とはまた別であり、さらに男女別でもあるという厚遇ぶりとなっていた。


「えーっと、欲しかった薬草と、足りてなかった包帯はちゃんと買ってある……っとと」

「おっと。大丈夫ですか、茉白。何も落としていませんか」

「うん、大丈夫。ありがと」


 道はたまに、端々が整備されきっていないため、注意していないと足を取られてしまう、茉白は咄嗟に踏ん張れたため、志乃が差し出した腕の世話になることはなかった。

 壊滅と復興が最近のため、湖畔の街々は新旧の色合いが浮き彫りになっている。加えて、細かい所は放置されっぱなしな場所も多い。転ぶまではいかなくても、すそや紐を引っ掛けてしまう些細ささいなことも起こりうる。茉白は垂れ衣の笠を被っているため、それも破れてしまわないよう注意が必要だった。


 徐々に強まる日差しが注ぎ、熱あるものの匂いや水の匂いが漂う坂道を、本来の姿を隠した少女二人が上がっていく。松枝湖の景観は観光の売りにもなっているため、高台を中心に宿屋も多い。また商人などが利用する旅籠屋はたごやも多い。昔からの宿も、災害の後に建てられた宿も入り乱れている。

 色護衆しきごしゅうの紋を染め抜いた布が掲げられていたこともあって、志乃と茉白は迷うことなく、目的の旅館が固まっている場所へと辿り着いた。色護衆に貸し出された計三つの旅館は、いずれも建て直しを挟んで続いてきた老舗。兼久隊の女性隊員たちが滞在する方の門へと近づいていくと、あちらからも影が近づいてくる。


「茉白ちゃんはおかえりー、志乃ちゃんは久しぶりー」


 明るい声を上げながらやって来たのは、春よりも短髪が涼しく感じられる喜千代。小豆色の小袖と鳩羽鼠の袴も相変わらずだが、夏空の下では色彩がより鮮やかになっているようにも見える。


「ただいま戻りました、喜千代さん」

「お久しぶりですー」


 垂れ衣をめくって挨拶を返す茉白に続いて、志乃は声を女性に戻してのほほんと応じる。長々と立ち話をすることはせず、三人の足は宿の方へと向かった。


 女性陣に貸し出されている建物と、男性陣に貸し出されている建物は、立派な中庭を挟んで同じ敷地内にある。散策をしている隊員たちの姿が館内からもいくつか確認できたが、志乃や茉白と深い親交がある人影は見当たらなかったため、紹介も手短に茉白の部屋へと直行することになっていた。

 宿泊用の部屋の中では広めな部屋は、茉白に当てられたことで医務室と化している。買い足した物の整理の手伝いをしてから、次は志乃に当てられた部屋へ。茉白の部屋は一階で、入り口と階段に近い場所に。志乃の部屋は二階で、茉白の部屋の真上に位置している。


「茉白ちゃんと志乃ちゃん、どっちにも何かあった時、すぐに駆け付けられるか、連絡が取り合えるようにって話になったから、こういう部屋割りになったんだけど……どうかな、志乃ちゃんは」

「ちなみに、最初にそれを提案したのは私ですので。否定するなら、私が納得できる理由を述べてから駄目って言ってね?」


 喜千代は気遣うように志乃を覗き込んだが、茉白はにっこり、別の意味合いを潜ませた笑顔で覗き込んでくる。直武といい紀定といい、茉白といい、どうして笑顔に何とも言えない圧や凄みを持たせるのか。含みのない笑みを返す志乃だが、使い慣れたそれも凍りそうになる。


「駄目ではないです、が。責任は重大ですねぇ……」


 圧のある視線を片頬に受けつつ、志乃は率直な感想を述べた。茉白は後方支援の要になりうるし、天藤家にとっても重要な人物。何かあった際、守れなかったということは許されない。


「もちろん、志乃ちゃんだけに重荷は背負わせないよ。私の部屋はすぐそこだし、いつだって頼ってくれていいからね」

「えへへ、ありがとうございます。お手を煩わせないよう努力はしますので……」

「志乃」


 つっかえることのない定型文が、有無を言わせない力を秘めた呼び声に止められた。上から下へと視線を巡らせた先で、志乃は黙しても威を湛える赤い瞳に捕らえられる。


「迷惑をかけないようにする努力は間違っていないけど、それは、から。履き違えないでね」


 生半可な返事は許さない、と。言外の威圧が志乃を囲う。今度こそ愛想笑いを凍らせられた志乃は、「はい」とぎこちなく返すほかなかった。その返事に茉白が頷くまでの時間もまた、凍り付いたかのようだった。


「言わなかったらお説教ですから。肝に銘じておくように」

「あぁうぅ、分かりました……」

「あはは、芳親くんと同じ声になっちゃってるよ、志乃ちゃん。……っと、誰か来たみたいだ、ちょっと避けなきゃ」


 喜千代が志乃の背後付近にずれるのと入れ替わりで、階段を上がる足音が近づいてくる。とすとすとす、遠慮のない足音は、二階に上がるなり止まった。三人の前で、きっちりと。


「失礼いたしました、お話の妨げになりましたか」

「ううん。ちょうどひと段落したところだから、大丈夫」


 感情の窺えない挨拶をし、喜千代からにこやかに応じられた相手は、志乃も見覚えがある人物。表情に乏しい彼女は、志乃と目が合うなり、お手本のような一礼を披露した。


「こんにちは、花居志乃様。現在、星永靖成やすなり様より命を受け、晴成様に同行しております、護堂澄美と申します」


 若鶴にて、志乃の暗殺に関与した少女。志乃もろとも殺される手はずだった少女が、かつての標的と相対する。傍らでは、喜千代と茉白が緊張に身を強張らせる。


「こんにちはぁ。ご丁寧にありがとうございます。若鶴ではお世話になりました」


 一礼を受けた志乃はこれといった他意もなく、身の回りの世話を手伝ってもらったことへの礼で応じていた。いつも通り、のほほんと。


「……何も、おっしゃらないのですね」

「? はい、特には……あっ、俺が何か詫びなければならないこと、ありましたでしょうか」


 澄美もまた緊張を纏いつつ、注意深く志乃に問いかけるが、当の妖雛は心当たりがないとばかりに首を傾げている。想定していた反応と違ったためか、仮面めいていた少女の顔には、なんとも言えないとばかりの歪みが表れていた。


「いえ、詫びるのは澄美の方にございます。貴女の暗殺に関与したことを――」

「あー、あれですかぁ。気にしていないのでいいですよぉ。貴女はおとりで、俺もろとも始末されるところだったと聞き及んでおりますし……何より、貴女も他の方も、俺を殺せなかったでしょうし」


 暢気のんきを崩さず軽い調子で言う志乃に、澄美の困惑は募るばかり。見守っていた喜千代と茉白は、複雑な思いを抱きつつも、拍子抜け気味に胸を撫で下ろしていたが。


「謝罪は不要、ということであれば。志乃様、これからお時間を頂いてもよろしいでしょうか」

「はい、構いませんが……喜千代さん、他に何か、俺が承知しておくべきことなどありますか?」

「特にないね。二人で遊びに行っても大丈夫!」


 急な申し出に狼狽うろたえず頷く喜千代に続いて、「私からもないから、いいよ」と茉白も頷く。かくして、志乃は特に何も言われないまま、澄美に連れ出されるに至っていた。






 そして、現在。澄美は何も言わないまま、正確には何かを言おうとしているのだろうが言えないまま、志乃を前に沈黙している。高台には相変わらず和やかな空気が満ちているが、ゆえに二人を締め出している。


「ええと……俺に何か、話したいことがあるのでしょうか」


 どちらも片手を柵に置いて、保つべきなのかも分からない沈黙が崩れ落ちないよう支える中。自分から切り出すべきという判断をようやっと下して、志乃が助け舟を出す。相手を窺うような声は頼りない音色をしていたが、一向に舟を出せない澄美よりはマシだろう。


「……申し訳ありません。使用すべき言葉が、分からなくて」

「ふむ。何か難しい話をしなければならないのでしょうか」

「いえ、おそらく、難しいことではないかと。ただ、こちらが経験不足なだけで」


 うら若き娘には似つかわしくない堅苦しさを、うら若き娘には重いこれまでを持つ二人が、ぎこちなく積み上げていく。視線を合わせてはすぐ逸らし、柵を掴む手に力を入れてはみすみす逃がし。助け舟の操縦を思うようにできないらしい澄美は、寄る辺のない迷子に見えた。


「うーん、と。経験不足というのは、どういった面を指してのことなのでしょう。話すこと自体は、苦手ではないですよね。若鶴わかづるでは滞りなく会話をしていらっしゃいましたし」

「あれは仕事でしたから、滞ることがあってはなりません。ですので、必要以外の会話となりますと、あまり」

「ああー、なるほど。では、これから言いたいことというのは、私用に当たるのでしょうか」

「そうなるかと」


 志乃もまたぎこちなく櫂を漕いで、何とか澄美の進行を助けていく。私用を軽く切り出すには最適なはずの昼日中にいながら、二人の間に漂う空気は変わらず、柔らかさとは程遠い。


「急を要するものというわけではなさそうですし、さほど難しいことでもない。となると……もしや、俺と親睦を深めたいと思ってくださっています?」


 自惚うぬぼれという自覚はありつつ、ゆえにそれほど重くない声色で訊いた志乃だったが、図星とばかりに澄美の指が跳ねた。志乃も志乃で、思わず目を見開いてしまう。


「……我々は今、色護衆という組織に属している者同士ですので。のちのち支障をきたさないためにも、関係性を改善しておくべきかと。しかしながら……私は、貴女の暗殺に関わった人間です。それが、今さら」


 ぎこちなく硬いまま、揺るぎなかった澄美の声が、初めて波打った。動かなかった表情にも、眉根にほんの少し歪みが見えている。端々でわずかに覗く葛藤は、志乃にも何となく理解できた。すんなり理解できることに、一歩遅れて驚きながら。


「確かにそれは一理ありますが、俺はもっとこう……仕事に寄らない、柔軟な友人関係を築ければいいのではないかと」

「それが、分からないのです。何の任務もない中、他人とどう時間を過ごせばいいのか」


 途方に暮れた顔に、困惑で破裂してしまいそうな声。志乃に蓄積された記憶情報では、脅かされるから何とかしろと懇願する人の状態と似ていたが、それよりもずっと弱々しい。触れていいのか、近寄っていいのかも分からない。


「俺も、かつては分かりませんでしたねぇ、そういうの。……ですが」


 分からなかったが、澄美の前に立っているのは志乃だけで、助け船のかいもまだ握り締めている。手放す気も毛頭ない。


夜蝶街やちょうがいで俺を育ててくれた人々や、芳親のような友人たちが色々教えてくださいましたから、何とかお役に立てそうです」


 空の片手を握り締め、柵に置いていた片手を差し出して、志乃は得意の笑みを浮かべた。桟橋の客を導く船頭よろしく、にっこりと。


「では早速。俺と友達になりましょう、澄美」


 言ってしまえば後は簡単。相手が桟橋に縫い付けられた足をはがし、舟へ乗り込むのを待つだけ。元より乗る意思が見えていた澄美は、そう間を置かずに柵から手を離し、志乃の手を取った。


「えへへ。握手も完了したことですし、これで貴女と俺は友達ですよ、澄美。次は俺の名前を呼び捨てしてみましょうか」

「は、はい。ええと……し、志乃」

「素晴らしい! あ、芳親もたぶん呼び捨てにしていいというか、あちらから強要してくると思われるので、呼び捨てには慣れておいた方がいいかと」


 間髪入れずに呼び捨ても成功させ、ついでに手も握ったまま距離を詰めておく。目に見える距離も、目に見えない距離も。一歩踏み出すだけで、ぐっと近づいた志乃の顔に、澄美の方は思わずのけぞり気味になっていたが。


「それでは次! このまま帰るというのは芳親が違うと言っている気がしますし、一か所くらいどこかへ寄りましょう。食事処や甘味処ですと、俺が文字通り味気ない対応しかできませんので、可能ならそれ以外でどこか!」


 勢いに任せ、志乃はさらに畳みかけていく。自分が提案できれば、という考えもあったが、あいにく志乃は林濱へ到着したばかり。さすがにそこまでは難しい。澄美も重々承知なのだろう、動きにくい表情の裏で、必死に考えを巡らせているのが薄っすら透けて見えている。


「――花を、見に行きませんか」


 ほろり、熟考の末に出てきたのは、志乃では思いつけなかったこと。何を提案されても賛同しようと構えていた志乃だったが、すっかり虚を突かれ押し止められてしまった。逆に冷静さを取り戻せてもいた。


「今は、桔梗ききょうの花が見頃で。たくさん咲いている池があって、道中にも、ちらほらと」

「なるほど、見応えがありそうですねぇ。では改めて、案内をお願いできますでしょうか」


 あわあわと重ねられる言葉を受け入れながら、志乃は握りっぱなしだった手を解いて、澄美の隣に並び立った。いつの間にか位置を確保する芳親を見習って、するりと。


「……隣、歩きづらく、ありませんか」

「俺はさほど。澄美は歩きづらいです? であれば、ここへ来た時のように後ろをついていきますが」

「い、え。慣れます、これから」


 澄美は気合を込めるように眉根を寄せ、頷き、「それではご案内いたします」と先に歩き出した。続く志乃も、遅れることなく歩き出す。

 ぎこちなさを伴いながら、夜と暗がり出身の二人は次の目的地へ進んでいく。夏の昼下がりに、夕暮れの気配はまだまだ遠かった。

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