神の輪廻転生

森本 晃次

第1話 神様の存在

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。今回もかなりの偏見を持った発言をしていますが、フィクションです。ミステリーっぽくない内容ではありますが、ある意味最後で明かすトリックを使っていることで、ミステリーというジャンルになります。


 里穂は、

「自分には神様がついている」

 と思っていた。

 どうしようもない自分に最近までは、

「神も仏もないものか」

 と感じていたが、それが最近になると、そうでもないと思えてきたのだ。

 何かを考えようとすると、悪いことしか思い浮かばない。本能のままに行動すると、必ず誰かを傷つけてしまう。そんな自分に嫌気がさしていたが、自分がこんな生き方しかできない不器用な人間であるということは自覚している。(実際には、後述のように神は存在しているのだった)

「私、不器用ですから」

 などという昔のテレビCMにあったように、昭和の時代であれば、不器用というのも、愛嬌の一つだったのかも知れないが、今では笑い話にもならない。

 そんなことは分かっているのだが、特に男関係においては、節操がなかった。

 自分でも可愛いと思っている。もちろん、鏡を見た時の思いきり贔屓目に見たことによる感想だが、それなのに、

「自分でも」

 とはどういうことなのだろう?

「自分では」

 にしてしまうと、言葉上、あたかも自己満足でしかない顔を綺麗だと思う、

「痛いやつ」

 ということになるだろう。

 だが、実際には、たくさんの男が自分のまわりに集まってきているのは事実だ。ただ、その連中が彼氏としてのレベルに到底追いついていないことが分かっている。里穂のまわりに群がって食うる男たちは、誰もが自分が彼氏だなどと思っていないだろう。その証拠に皆束縛されることを嫌う人ばかりで、下手に束縛しようものなら、

「彼女でもないくせに、余計なことをいうんじゃない」

 と言って、罵声を浴びせてくることだろう。

 里穂だって、自分でも彼氏だと思っていないくせに、目と向かって、

「彼女でもないくせに」

 などと言われると、自尊心を傷つけられたという思いから、食って掛かることだろう。そんな時の盧浦は自分に抑えが利かなくなり、そのまま大喧嘩になってしまうと想像される。

 相手の男だってそうだ。里穂を彼女ではないと思っているくせに、里穂が他の男といることを面白くないと思っているのだ。だからなるべく里穂が自分と一緒にいない時は。自分の目の届かないところにいてほしいと思っているのだ。実に都合のいい考えではあるが、お互いに似たようなものだからである。

 しかも、里穂が付き合っている男たちは。どいつもこいつも中途半端な連中ばかりで、男前ではあるが、その分、どこかが足りない連中も多かった。

 ホストクラブで勤めていたはいいが、ヘルプがきつくてやめてしまったり、アイドルにでもなろうと上京したが、レッスンがきつくてやめてしまったり、女性関係にゆるくてアイドル事務所を首になったりなどという、そんn中途半端な連中ばかりだった。

 彼らのことをろくでもないと言ってしまうのがいけないことなのかも知れないが、一番悪いのは、その連中に一本通った筋がないことだった。

 そんな、一人では中途半端な連中でも、数人寄れば、やっと一人前だと考えれば、それで十分だった。しょせんは寂しさを紛らわすために自分のまわりに侍らせているという程度のものである。本当に好きになれるような人がいるとは思えなかった。

 そう、そんな連中は、

「いかにも本能のままに生きている連中だ」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 里穂も人のことはいえない。

「自分も本能のままに生きていて、人と関わるのは嫌なくせに、孤独も嫌いだ。だとすれば、中途半端な本能で行動するような男連中を数人抱え込めばいい」

 というくらいに考えていた。一種の、

「お姫様気質」

 と言ってもいいだろう。

 ここで、女王様と言ってしまうと、SMなどのS性があることになるが、里穂は自分のことを、少なくともSではないと思っている。男性をいたぶって楽しむという趣向はなく、黙って愛でていることは嫌いではないが、どちらかというと、慕われることに喜びを感じていた。だが、その思いがS性からくるものではないかと思うこともあり、自分のまわりに侍らせている連中とは、紙一重のところで、自分がお姫様になっているだけで、一歩間違えれば逆になることも十分にあったと思う。

 里穂の中にあるのは、S性というよりもM性の方ではないだろうか。男とのセックスの中での自分は、ただ愛でているだけで、自分からは決して何もしない、受け身のオンナになっていた。

 一人の男に抱かれながら。別の男と比較している里穂は、男たちから見れば、S性を感じさせる瞬間もあるのだろうが、やはり、根本はMなのであろう。情事の最中には男によって連れていかれるお花畑を創造していて、そのお花畑は夢から覚めても忘れているわけではない。

 お花畑に咲いている花は、いつも頭の中に創造されたものであるとして、記憶から消えることはない。いや、記憶に移ることはなく、褪せることのない美しさをずっと保って意識されているものだった。

 お花畑的発想というと、何か都合の悪いことや、問題のあることでも、そんな感覚に目を瞑り、ポジティブ的な発想によって、すべていい方向に進んでいると思い込むことであった。

「だから、私は頭の中にあるお花畑をずtと意識し続けているのかしら?」

 と感じていた。

「お花畑的な発想は、人からバカにされるだけで、自分の成長の妨げでしかなく、百害あって一利なしと言ったところではないだろうか?」

 とは思うのだが、お花畑的発想がなくなると、もう自分ではなくなってしまうという思いが強く、そのせいか、

「お花畑を創造できなくなると、私は私ではなくなってしまうんだ」

 と感じるようになった。

 本来であれば、それが一番いいのかも知れないが、それで問題が解決するわけではない。里穂はそこまで相手のことを考えられる性格ではなかったはずだ。

 何事も自分が一番であり、それが、自分の存在意義にまで繋がっているなどと思っていた。そういう意味で、里穂は人間ではないと言ってもいいかも知れない。

 里穂が自分を考える時見えているのは、お花畑だけではない。まわりに群がってくる男たち。彼らは自分から近寄ってくるわけではなく。里穂が自分でそんな男子連中を引き付ける魔力を持っているのではないかと思っている。

 中途半端な連中には彼らなりの立ち位置が分かっていて。

「どうせ俺らには、まともな彼女なんかできっこないんだ。遊び相手になる女性を何人か持っていれば。それでいいんだ」

 という発想があった。

 この発想は、里穂の発想と同じではないだろうか。

「類は友を呼ぶ」

 というが、意識の中での利害関係の一致が二人を結び付ける。

 里穂にはその感覚はあるが、引き付けられた男の方は、引き付けられる時、何も考えていないように思う。その時に何も考えていないからこそ、里穂と一緒にいる時。男連中は何も口にしないのだ。

 ひょっとすると。一人の男と会っている時、他の男たちも目立たないようにそこにいるのかも知れない。目立たないように黒子に徹してその場所に佇んでいる。しかも、その位置は適当ではあるが、みんなバランスよく、目の中のファインダーに収まっている。

「この人たちは本当は一人の人間で、分身の術でも使っているのではないだろうか?」

 とも感じられた。

 しかも、これを夢のように感じている理由としては、その男たちの顔がイメージできていないからだ。我に返った時に思い出すだのが、顔を見たという感覚はない。それなのに、イケメンであるということは意識にあるのだ。

 無理にでも思い出すと、その男たちは皆顔がシルエット上になって、それ以上見ようとすると、のっぺらぼうだったというオチが待っているような気がした。

 まるで自分の生きている世界がすべて夢の中の世界のように感じているが、夢の中だという意識があるから、違和感なく想像することができるのではないかと思うのだった。

 里穂という女が、自分をどのように意識しているのか、まわりの人間が分かっているのだろうか。

「いや、他の人に私を意識することなんかできないんだ」

 という思いが里穂の中にあるのだった。

 里穂はたまに誰かに訴えているのを自分で感じる。

「私のいるこの世界って。のっぺらぼうの男たち以外にいるのかしら?」

 とである。

 だからこそ、この世界を夢だと思うのであって、現実世界が他に存在しているのではないか?

 いや、一つの時間に、いくつもの、無数と言ってもいいくらいの可能性が存在していれば、その可能性の数だけ、世界だって広がっているのではないかという、

「パラレルワールド」

 の世界も想像できるのではないだろうか。

 それは人の数だけ存在すると言ってもいい。だが、一人の人間にも無数に可能性があるのだ。

 無数に何を掛けても無数であることに変わりはない。パラレルワールドには何かを掛けるということは、まったくの無意味なことであり、実際にはありえないことではないだろうか。

 そんな発想ばかりが頭の中にあり、人とのかかわりがないことで、人に気を遣うこともなければ。気を遣われることもない。

「気を遣う」

 という言葉がどれほど嫌いだったのかということを、いまさらながらに思い出される里穂だった。

 あれは誰からだったのか? 親からだっただろうが、

「人に好かれる女性になりなさい」

 と言われていたような気がする。

「人に好かれる女性ってどういう女性なの?」

 と聞くと、

「それは自分で、これから考えていくのよ」

 と言われ、

「なんだ、知らないだけじゃない」

 と言って嘲笑うと、相手は、実に不愉快そうな顔をして、もうそれ以上何も言わなかった。

 途中から、不愉快そうな顔がまったくの無表情になり、

「言わなければよかった」

 というよりも、

「いうだけ無駄だった」

 という意味での無表情に変わったのだろう。

 言った相手が悪かったという思いから、言った自分が悪いんだという気持ちに変わったのであった。

 里穂にとって、ウスウス感じている世界は、いかにも何者かの手によって作られたものだということを裏付けるものに感じられた。

 正解のない無数の世界。その一つにいるだけのことなのに、無数にある世界は一体誰が作ったというのか、人間の数だけ神様がいたとしても、一人の人間だって無限なのだ。想像することすら罪ではないかと思うほど、ナンセンスが気がして仕方がない。

 里穂は、

「私は誰かの夢の中にいるような気がする」

 と思ったが、その誰かとは一体誰なのか?

 本当に存在している人なのか、次元が違っている同じ世界の人なのか。同じ次元の別世界に当たるのか、それとも、次元の違う別世界なのか、いろいろ考える。最後の考え方というのが、

「夢と現実世界の隔絶」

 ではないかと思い、目が覚めるにしたがって忘れてしまう理由に十分な説得力を感じさせるような気がするのだった。

 そのおかげなのか、神様の存在を意識できることができる。

 ただ、無数の世界を意識できたとしても、自分がどの世界にいるかなど分かるはずもない。だから、

「この世界に存在している人としか、自分たちは交わることができない」

 と思うのであって、本当に夢の世界というものから見た、いわゆる夢に対しての現実世界は、どこに存在しているのか分からないという世界である。現実世界の人たちはすべてが自分たちから派生していると思っているが、それがそもそもの勘違いなのではないかと思えてきた。

 SF的な発想だが、自分を夢の世界の住人だという意識があるのかないのか、自分でもよく分かっていない。実際に夢だと思って見ている世界では、里穂は娼婦のような存在だった。

 今ではまず見なくなった、通路に立っていて、男性に声を掛けたり、掛けられたりと言った感じで、お互いにその気になれば、ホテルにしけこむという感じであろうが。

 やることは別に特記することでもなく、皆さんご想像の通りである。警察にでも見つかれば、検挙されるだろうし、その縄張りで幅を利かせている組の連中からは、みかじめ料も払っていないのだから、脅しの一つや二つ、三つあることだろう。

 しかし、そんなことはまったくない。いくらでもやりたい放題だった。それは実際にお金を貰っているわけではないからだろうが、警察はともかく組の連中にとっては、むしろただでするだけに、大いなる営業妨害で、下手をすれば、喧嘩を売っていると思われてもしかるべきである。

 それなのに、一度も警察も組の連中からも何も言われたことがない。それが、夢だと思っている一番の理由であった。

 ただ、夢だと思っているが、それは普通の夢ではない。夢というのは潜在意識の見せるのだということであるが、そうであるなら、ここまで自分に都合のいい夢を見られるわけはないのだ。

 一度くらいはおいしい夢もあるかも知れないが、そう毎回続くわけではない。それを思うと夢というのがどれほどひどいものだったのかということがいえただろう。

 だが、それは覚えている夢が嫌な夢であったり怖い夢ばかりで、楽しい夢というのが皆無であることから感じていることだろう。それでも、夢というものは、目が覚めても覚えていないのであれば、それはあくまでも夢とは言えないのではないかと思えて、一度くらいは楽しい夢を覚えていてほしいと思った人は、たくさんいることだろう。

 里穂は時々、自分が見ている夢が都合のいいことばかりなので、

「誰か、本当の自分がいて、自分は、夢の中で忘れられていくだけという理由で存在しているだけなのかも知れない」

 と思うようになっていた。

 本人が夢として認めていないことで、自分は自由に存在することができる。もちろん、勝手な妄想なのだから、何とでも想像できるのだが、それを妄想だというのであれば、あまりいい気分はしてこない。どうしても、本人にとって都合がいいという言葉がついてまわるからだ。

 ということになると、自分の存在意義は、本当の自分の影武者であり。都合のいい夢を見せるための俳優であるかのようではないか。

 本人がどんな人なのかも分からず、都合よく自分を扱うだけのそんな偉い存在なのかと関堪えると、自分がまるで、

「その人の精神的な奴隷なのではないか?」

 と考えてしまうのだった。

 つまりは、自分はその人の気持ちの中でしか生きられない。分身のような気もするが、逆に本人にはできない楽しいことを自分ができているということは、明らかに本人にはない何かを持っているということだろう。それが容姿なのか、性格的なものなのか。それとも、妖艶さということなのか。

 明らかに、本人にはないもので、ほしいという願望をずっと持ち続けているという、本人にとって、理想の女性なのではないだろうか。

 だから、本人というのは、自分t逆を思い浮かべればいいのだ。

「綺麗というわけではなく、妖艶でもなく、不器用で男にモテるわけではない」

 そんな女性だと思うのだが、これは逆も言える。

「綺麗というわけではないが、かわいいという雰囲気を醸し出している。妖艶ではないが、清楚な雰囲気があり、秘めたる美しさなるものを持っている。さらに、不器用でモテるわけではないが、一人だけを思い続けるという恋愛マスターのようなところがある」

 ということも言えるのではないか。

 その思いこそ、里穂が憧れているものであり、

「生まれ変わったら、そんな女性になりたいな」

 と感じていた。

「美人は三日経ったら飽きる」

 という言葉を聞いたことがあるが、里穂は自分もそんな美人だと思っている。いくら男性を好きになっても飽きられるという意識があるから。

「飽きられるくらいなら、自分から飽きてやろう」

 と思うようになった。

 その方が気が楽だというもので、一人の彼氏を作るよりも、

「広く浅く」

 をモットーにし、その代わり、一回一回を濃厚にすればいいという考えになったのだ。

 その考えが、煩わしい人間関係を排除した世界を形成した。それが、今いる里穂の世界だと言えるのではないだろうか。

 だが、最近、不思議な現象が里穂に起こってきたのだ。

 それまで、煩わしい人間関係を排除したこの世界が居心地よくて、誰からも何も言われない世界が当たり前のように思っていた。

 だが、張り合いがないというか、毎日が楽しければいいという世界に、今まで感じたことのなかった、

「飽き」

 というものを感じてきた。

 飽きを感じてくると、その思いは急に重たさを感じた。重たさなどという感覚は今までに感じたこともなかったが、そこに、人に対しての差別化のようなものが生まれてきた。

 付き合っている男性は、皆自分の好みであった。自分は好きなタイプだと思っている人が相手から声をかけてくれたり、自分から声をかけると相手も断ることはない。

 もっとも、この世界は断るのも自由である。気に入らない相手であれば、いくらでも断っていいのだし、そこが自由な世界と言われるゆえんでもあった。

 そういう意味で、どうしても自分の好きな相手ばかりになるので、男性のタイプも偏ってくる。だから、容姿や雰囲気だけでは相手に差はほとんど感じない。だから、

「今日は最高ランクの男だけど、明日はちょっと劣るんだよな」

 という意識を感じることはなかった。

 毎回、同じレベルの相手だと自分も思い込んでいるのである。

 相手も同じなのかも知れない。

 たくさんの女性と交わっているが、その人にとって、自分もその他大勢の中の一人でしかないのだ。

 お互い様なので、そこにこだわることはない。だから、嫉妬や妬みなどというものは存在せず、そんなものを持ったが最後、ここでの自由恋愛はできないことになる。すると、ここでの自分の存在意義はなくなってしまい、消滅してしまうことだろう。

 そうなるとどうなるのだろう?

 消滅してしまうと、その人が存在したという記憶まで、みんなの中から消えていて、記録にも残らないことになる。そうでもなければいきなり消えてしまうなんてありえないだろうし。記憶も記録も消去して、再度リセットすることになるのだろうか?

 タイムマシンの懸念として、

「過去に行って余計なことをすると大きく歴史が変わってしまう」

 と言われるが。この世界では。

「歴史を変えるのを前提に、一人の人間の存在を消してしまう」

 ということになるのだから、発想がまったく違っていると言ってもいいだろう。

 一般的な世界は、神様が作ったということになっているが、無限に存在する世界も神様が作ったということなのだろうか。となれば、本当に何人の神様がいるかということになるのだろうが、この発想は、どこを切っても考えられることである。時系列で進んでいても、発想が過去に戻ったり未来に行ったりしても、この発想が途切れることはない。

 里穂は神様なんかいないと思っていた。

 それは、この世界が当たり前の世界であり、他の世界を考えたこともなかったからだ。

 その発想は誰にもないかも知れないが。神様を信じるという発想はある。

 そもそも、神様という発想も、人間が自分たちの創造主をどのように理解すればいいのかということを考えた時、誰か自分たちを作った存在がいるということで理屈づけることが一番正当性があるということで、考えたことではないかというのが、一般的な考えではないだろうか。

 昔の人が書いた人間の創世記なるものは、今、つまり過去の人が感じる現在で考えたいろいろなことを正当化させる発想で残したものだとは言えないだろうか。

 ひょっとすると、昔にも書物は盛んで、ベストセラーのなった作品は残っていなくて、歴史書のようなものだけが大事に受け継がれてきたものなのかも知れない。

 そう思うと、ベストセラーのような小説というのは、しょせんその時だけのもので、後世に残すほどのものではないということだろう。

「綺麗な人は三日で飽きる」

 という言葉を思い起こさせられるのではないだろうか。

 人間なるもの、自分だけが一番だと思っているから。この時代の自分たち以外に、考えることのできる生命体はいないだろうとタカをくくっているのではないだろうか。

 その感情が今の世の中に、人間の遺伝子と一緒に受け継がれてきていて、それぞれの世界も時系列に発達してきたことだろう。相対性理論のように、時間の進みが極端に違っている世界も存在しているのかも知れない。

 そんな神様がいる世界に、里穂は、存在していた。


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