第50話 凶星――Yell for……

※――――――――――――――――――――――


 小さな勢いが不死鳥の翼から俺を遠ざけた。かしゃんと何かが割れる音。膝とお腹が突き刺さるがごとく硬い地面に打ち付けられる。しかしそんな痛みがどうでもよくなるくらい、少女の重みを片足に感じていた。翻った先には眠るようにぐったりと倒れる華奢な体。


「マ……イ」


 僅かに残っていた青い靄が空気に溶け消えていった。その光景はあたかも彼女の大事な何かを奪っているようで、あってはならない現実を突き付けてくる。


「おい……嘘だろ、マイ!」


 彼女の肩を抱いて大きく揺する。運命から逃れ、ようやく前に進めるようになった。その火蓋は切られた直後で、この先には幸福な道がいくつも続いているはずだ。


「これからだろ!? きみはこれから、まだ、もっと、もっと!」


 それ以上、意味のある言葉なんて出なかった。呼びかける「次」を探す中で、体を揺らすことは止めなかった。しかし赤い前髪の間から青藍の瞳は覗かない。


「ルミー殿! 避けてください!」


 声に顔を上げると、目の前にはマイを包んだ炎が迫っていた。俺は反射的に少女の体を覆う。天はこれ以上、彼女から何を奪えば気が済むのか。歯を食いしばった体がいつかのように飛び上がる。紺色の制服に漆黒の黒髪。シュリクライゼさんが俺たちを担ぎ上げていた。


「そのまま、絶対に離さないでいてください!」


「シュリクライゼさん、マイは、マイがっ」


「お気を確かに! 貴方がすべきは狼狽することですか!?」


 今までにない叱責が騎士から溢れた。その声にはっとさせられるも、思考が鮮明になるほどに現実が動揺を誘う。だらりと重たくなった体には生命を維持する最低限の動力しか感じられない。マイは、不死鳥の炎を受けてしまった。


「今はここから離れます。作戦の指示をガルシアン殿に仰いで……」


 シュリクライゼさんが次の行動指針を話している途中、暗がりの渓谷で目を潰すような閃光が走った。生糸じみた光が視界でぶれた瞬間には、さっきまで居た場所から大きく離れていた。刹那に起きた一連のことを認識した時には、ぴしゃん、という金切り声じみた音がする。


 今のは雷光だ。それも、さっき階段を破壊したものと同じ。一度だけに留まらず、放射状に広がって俺たちを捕らえようと迫る。


「魔術……誰だ!」


 不自然な雷の軌道にシュリクライゼさんが鬼気迫る表情で叫んだ。その声に返事はなく、連続で放たれる攻撃だけが応答だった。騎士の瞳が赤く染まって、纏う雰囲気ががらりと変わる。


「“フレイミア”」


 騎士の呟きで剣先から炎が溢れ出す。炎は流動し形を変え、巨人の手の平みたいに大きく広がった。二つの魔術は真正面からぶつかり合って、宵には明る過ぎる火花を散らす。そして飛沫した火の粉ごと、炎が雷光を喰らい尽くした。


 その光が伝う先に、一人の男。


「――それが噂に名高い、変幻自在の炎“フレイミア”ですかぁ」


 ねっとりとした声が嫌に耳に貼り付いた。聞き覚えのある粘着質な語尾が全身をぞわりと撫でる。


 男は新たな魔術を展開し、勢いのある流水が炎にぶつかった。雷によって減衰していたシュリクライゼさんの魔術は白煙を上げて消火され、その蒸気の中から一つの人影が歩んでくる。体は病的なまでに細く、白樺の枯れ枝を彷彿とさせる足首が覗いていた。


「いやはや、さすがは英雄サマだ。やはりぃ、わたくし程度ではとてもとても敵いませんなぁ。美しい色彩。その炎で宵に永遠なる風景をぉ、刻みたいものですねぇ」


「一体何者だ」


 担ぎ上げていた俺とマイを地面に下ろし、シュリクライゼさんは謎の男と対峙する。痩身の体躯に毒々しいまでの紫色の長髪。本当に血が通っているのか怪しくなるくらいに肌が白く、抉れたようにできた隈が目立つ。気味の悪い男はわざとらしく、がばっとこうべを垂れた。素材の良さそうな黒いローブを片手で広げ、あたかもできた執事を真似るみたいに。


「申し遅れましたぁ。わたくし、アルト・ワイ・ヘロスリップと申します。いずれは歴史に刻まれる芸術家ですのでぇ、以後ぉ、お見知り置きを」


「芸術家……?」


 身なりは完全に不審者のそれだ。野盗の末端と言われても何も疑わないだろう。そして不自然なのは戦場に芸術家を名乗る人間が居るということだけではなかった。


「偽名か。不敬な名だ」


 この国において中間名を持つ家系はルディナ王家だけだ。現王フェアザンメルン・ヘロ・ルディナの『ヘロ』がそれに当たり、『英雄』の意味を表す。だからこそアルトと名乗った男の名前は偽物だとわかり、│英雄の亀裂ヘロスリップなどという言葉はあまりにも不謹慎だった。


 シュリクライゼさんは珍しく怒りを露わにしながらアルトと名乗った男に問い掛ける。


「これがルディナ王国軍の作戦と知っての狼藉か」


「えぇ、もちろん存じ上げておりますともぉ。まさに先程、無様にも失敗に終わってしまわれたこともねぇ」


 まるでどこかで騎士たちの奮戦を見ていたような言い草だ。不死鳥が飛び回っていたというのに姿が見えなかったということは、森の中に隠れていたか、あるいは――


「ならば、容赦などされると思うな」


 どのような推測であっても、英雄の一声が放たれれば関係ない。迷いなく踏み込まれたシュリクライゼさんの足が掻き消えると、次の瞬間には剣を振り抜いた姿勢でアルトの後ろに立っていた。


「騎士の前で王を貶した自らを恨め」


 狼藉者の体がゆっくりと倒れていく。速さだけならクイップさんさえ比較にならない。王はシュリクライゼさんを伝説をも越える剣士に育てたと言っていた。発言は見栄や比喩の類ではないことを肌で感じられた。


「――ダメですよぉ、英雄サマ。せっかちなんて『らしく』ないですよぉ」


 傾いた男の姿勢から片足が伸びる。沈むはずだった体はがっしりと支えられ、そして男の全身からは髪と同じ紫の、少し白がかった光が溢れた。そして夜闇に灯ったかと思うと、パリン、というガラスの割れるような音が小さく鳴った。


 アルトからは血の一滴も出ていない。太刀筋は確かに男と重なっていたはずで、その証拠と言わんばかりに黒いローブがばっさりと断ち斬られている。しかし、あたかも体だけに当たらなかったように無傷だった。


「大仰な二つ名に見合ったぁ、ドンと構えた態度で居てくれなきゃぁ」


「手応えはあった。不気味な男だ……」


 剣先がもう一度アルトを正面に捉える。シュリクライゼさんとしても男に対する違和感を拭えないでいるようだった。騎士の感覚に狂いでもない限り、間違いなく攻撃は当たっていた。


「おっと、今のは無知なあなたに対する垂範ですよぉ。無闇にわたくしを斬るとぉ、とぉってもぉ、後悔なさると思いますよ?」


「意味のわからない戯言を吐くな。こちらは一刻を争う事態。すぐに他の騎士の応援に行かねばならないのだ」


「応援……助けたいって意味ですよねぇ? じゃあ余計にダメだぁ」


 男は布切れになったローブをばっと開いた。その内側には面妖ないくつもの文字列がタトゥーのように刻まれている。白い肌を埋める紫色の線は、重なり過ぎて何を表しているのかさっぱりだ――常人にとっては。


「何だあれは……」


「美しいでしょう? 未だ途上。されどこの麗艶な輝きぃ……わたくしは、わたくし自身を最上の芸術作品へと日々昇華させ続けているのです」


 血に濡れた目を擦って作品とやらを見た。間違いない。あれの正体は俺やマイにとっては身近過ぎるものだ。


「呪術式……!?」


「ご名答ですよぉ、あなた。まぁ、魔女に見初められたならば当たり前ですけどぉ」


 よくわからないことを言った骸骨のような男は右手の甲を見せつけてくる。そこには他の紫の線とは明らかに異なる、鳥の羽根のような黄色い文様が刻まれていた。


「俺と同じ痣……」


 形は違えど、俺の右手にも同じ彫り師が彫ったとしか思えないような黄色い痣がある。こちらは羊の角のような形だが、これはドゥーマを封印した後に残っていたものだ。奴が言う『魔女』とは何なのか。


「その術式だらけの体が何だと言うのだ」


「さっきからおかしいと思いませんかぁ? あれだけあなた方を追い続けた『ふしちょう』、今は一匹たりともこちらに来ませんよねぇ?」


「まさか……君が使役しているのか?」


 不死鳥には人間と同等の知能があった。シュリクライゼさんが至った一つの可能性に、芸術家はくっく、と腹を抱える。


「ご名答ですぅ。あれ、なんとわたくしのモノなんですよぉ」


「お前がっ」


 答えを聞いた瞬間に、あるいはそれ以前に、男に対する怒りは爆発していた。飛び出しかけた俺の胸元に紺色の袖が伸びる。まだ有益な情報が得られると踏んだのか、騎士はゆっくりと首を左右に振った。


「無様な騎士団の有り様ぁ。『ふしちょう』の目を借りてぇ、見ていましたよぉ」


「つまりその術式で不死鳥を操っているのか」


「さっきからふしちょう、ふしちょうと……あなたぁ、本当に意味わかって言ってますか?」


 質問に質問を返した紫髪はまたも訳がわからない。会話を成り立たせる気は毛頭無いようで、語りたいことのためだけに唾液まみれの舌を回す。


「知らないようですねぇ。無知は可哀想ですよねぇ。ですからぁ、教えて差し上げます」


 自慢したがりな子どものように、お金を騙し取ったペテン師のように、芸術家は愉快に言葉を並べる。さも“英雄”を馬鹿にすることが楽しくて仕方がないみたいだった。


「命を封する鳥――“封し鳥”は、人間の魂を奪い、糧とするのですよぉ!」


 魂の封印。それはドゥーマを封じたセアル家の技術だ。それとよく似た石も同様の能力を有しており、それぞれ人の魂が宿り、不死鳥――“封し鳥”を形成している。たどり着いた真実は、あってはならない現象だった。


「あの化け物の正体が、人間……!?」


 形を持たず、奇妙に這い鳴くあの炎は全て人間。魂を無理やり変貌させたものがあの怪鳥なのだ。生物としての尊厳をも踏み躙る芸術家の行いに戦慄を覚えずにはいられない。血液混じりの汗が全身から噴き出す感覚があった。


 非人道的な所業を嬉々として語る男に嫌悪感を露わにしながら、シュリクライゼさんは尚も情報を引き出そうと対話を続ける。


「とは言え、不死もあながち間違ってはいなかったようだが」


「魂は肉体が動く限りぃ、消えませぇん。ですからぁ、どんな刃も魔術も効かないのですよぉ。干渉くらいはされちゃうんですけどねぇ。不思議ですよねぇ。神秘ですよねぇ」


 アルトは上を向いて紫だらけの全身を大きくひけらかした。


「さぁてここで問題ですぅ。この術式は一体ぃ――どこへ、繋がっているのでしょうねぇ?」


 無視したシュリクライゼさんの質問を引き合いに出すかのような問い掛け。明らか過ぎる誘導に「まさか」と口が動いていた。


「“身代わりの呪い”か……!?」


「大っ正解ですよぉ!」


 あきゃきゃきゃという耳を劈く笑いが渓谷中に反響する。


「どういうことです、ルミー殿」


「かつて読んだ文献の中にありました。他者の命を犠牲にすることで自らの命を守る呪いが存在したって」


 わななく口を必死に動かしてシュリクライゼさんに答える。“身代わりの呪い”は俺が知り得る中でも最悪の呪いと言っていい。


 過去の紛争の中で、何度も斬られているはずなのに立ち上がる戦士が居たらしい。戦士は恐ろしく強く、“ルディナの英雄”が百の太刀傷を与えた頃にようやく事切れた。戦士を倒した英雄は、次に彼が根城にしていた場所へ征伐に向かうと、驚くべき光景が広がっていた。


 全員が刀傷で死んでいたのだ。まるで殺し合ったみたいに。


 本来ならばただの怪奇譚でしかない話だったが、実地を訪れたハリウェル・リーゲルによると、“身代わりの呪い”の痕跡が残されていたと言う。彼らは殺し合っていたのではなく、戦士の傷を代わりに負ったということだ。


「もし本当にその呪いをあいつが使っているとしたら……」


「わたくしを倒せるのはぁ、囚われた全員を殺した後だけ、なんですよぉ」


 “身代わりの呪い”はあの鳥たちと連結し、封し鳥の正体は奪われた人間の魂。つまり騎士たちも、マイも、全員分の命を絶った後にしかアルトは倒せない。


「これぞまさに芸術! わたくしという戦士の死を彩る、最っっ高の贄たち!」


「腐ってる……!」


 戦いに自らの命を賭けず、あまつさえ尻拭いは奪い取った他人の魂。今まで見たどんな人間よりも卑劣な戦い方だ。穢れた誇りで描いた術式で、戦士や芸術家など語れようものか。


「さぁ、仲間を殺して、わたくしを打ち倒す覚悟がございますか? 英雄サマァ!」


 男は叫声とともに幾度目かの稲妻を走らせた。指先が光った瞬間に、俺の視界は再び平衡感覚を失う。


「シュリクライゼさん、何を!?」


「一旦、退きましょう。奴の話が本当なら、僕には殺さずに捕らえる手段が無い」


「そんな……」


 キッグを討ち取る程の実力者であっても、救うべき人間に攻撃の矛先を代えられてはなす術がない。いや、本来はあるのだ。奴一人の命と引き換えに、これまで奪われた何十という命を斬り捨ててしまえば、アルト・ワイ・ヘロスリップを討伐できる。


 しかし“英雄”はそんなことを望むべくもない。ゆえに選んだのは逃げの一手だった。そんな苦渋の選択さえも嘲笑うかのように、エセ芸術家の魔の手は違う方へ伸びていく。


「おっとぉ、あまり離れない方が良いですよぉ? わたくし、何をするかわからない狼藉者

ございますからぁ」


 言いながら男は唾液の滴る舌を突き出した。奇怪な動作は謎ばかりなのに、本能的にその思考を察知してしまう。


「やめろ――ッ」


 ジグザグと牙じみた歯が、何の躊躇いもなく自らの舌を噛み切った。否、切ろうとした。すると再び男の体から一筋の光が励起し、辺りを紫に包み込む。


「あはぁ」


 男は虫の這うような声で嗤った。“身代わりの呪い”が本当なら、今まさに誰かの命が奪われた。俺はすぐに抱き締めていたマイを見る。彼女の体からは僅かな呼吸音が聞こえているけれど、もしも抜かれた魂が破壊されていたら、奴の“呪い”を暴いたとしても彼女は帰ってこないかもしれない。確かめる方法なんてあるはずが無かった。


「わたくしを止めたければぁ、要求を飲んでいただけますかぁ?」


「くっ」


 さしもの“英雄”も立ち止まる他ない。人質はマイだけでなく、奪われた何人もの騎士たちの魂も含まれている。彼が国を守る同胞を見捨てる訳がなかった。芸術家は悠長に腕を持ち上げ、ニタついた笑みを消すことなく言った。


「そこの痣持ち。その男を置いて行きなさい」


 枯れた人差し指は間違いなく俺のことを指していた。正確には、俺の右手の甲にある湾曲角の痣だ。封し鳥を引き付けた呪いの勲章。この痣に一体何の価値があるというのか。


 そんなことはどうでも良い。これ以上、囚われたマイや騎士たちの命を奪わせないためには、今はあいつの要求を受け入れるしかないのだ。右足を出すと殆ど同時に、肩がずしんと重たくなった。命惜しさに足がすくんだのではない。首を曲げると、そこには剣を持たない手で俺を引き留めようとするシュリクライゼさんが居た。


「お待ちくださいルミー殿!」


 死んでいない黒々しい瞳。期待を帯びた視線。浴びるほどに心臓が五月蝿い。


「貴方が居なくなれば、あの呪いを解ける人間は他に居ない。ルディナの騎士として、僕には貴方を守る義務がある」


「お考え直しになった方が良いですよぉ、英雄サマ。どうせ、そこに居るポンコツではぁ、わたくしの呪いを解くことなんてできませんよぉ」


「……ッ!」


 悔しくても現状では事実だ。学んできた呪術の中に“身代わりの呪い”の知識は無かった。存在の認知はあっても、触媒や術式がわからなければ呪いは解けないのだ。奴の体にある術式は刻まれた数があまりに膨大過ぎて線が捉えられない。


「シュリクライゼさん。俺じゃ……」


 騎士は悲壮な表情を隠し切れなかった。


 失望しているだろう。ハリウェル・リーゲルの後継者として選ばれていた人間がこの体たらくなのだ。彼を慕っていたシュリクライゼさんならば尚のこと。ルミー・エンゼの器は伝説を残すには程遠い。そのことを今しがた受け入れたばかりなのに、彼の視線が酷く厳しく突き刺さる。


「仕方ないですねぇ。もう何匹か減らせば、考えを改めてくれますかぁ?」


 痺れを切らしたようにアルトがもう一度長い舌を伸ばした時、遠方から凄まじい気迫が飛んだ。


「ヌゥェエアアッ!」


「おぉっと!」


 渓谷の奥地から抜剣した青い影。不死鳥の揺らめく炎ではなく、あまりに大柄な男の姿だった。騎士団長ガルシアンは斬撃を放ちながら悪党に突っ込み、アルトは寸でのところで風の魔術を使って躱す。


「殺してくれる、この下衆者がッ」


 浮かび上がったみすぼらしい体に、凄まじい怒気に満ちた剣が幾度となく迫った。その度に様々な色の魔術が宵闇に光って芸術家はふわふわと宙を舞い続ける。ガルシアンはこちらの異変を察知してやって来たのだろうが、ともすれば【青の騎士団】はどうなってしまったのか。いや、今はそんなことよりも重要なことがある。


「待ってくれ! そいつを殺したらマイが――他の人間が死ぬことになる! あんたの仲間もだ!」


「部下は全員、元よりその覚悟ができている! 口を挟むな支援者!」


 ガルシアンは明らかに冷静な判断を欠いていた。このままでは本当にアルトの命を奪うまで切り込みかねない。その事実だけで高鳴る心拍が酸素を奪っていく。


「チッ。話を聞かないケダモノが一番厄介ですねぇ」


 ガルシアンの殺気が弱まらないとわかってか、気分を害したように舌打ちをする。


「英雄サマ、交渉は保留と致しましょう。十日後、もう一度この場所でぇ。良いお返事を待っておりますよぉ」


「逃がすと思うかァ!」


 ガルシアンの片手が地面を捉える。エネルギーの凝縮した腕から水が噴出し、土を撒き上げながらその反作用で大きく飛んだ。しかし標的はニヤケ面を崩すことはない。


「逃げますよぉ。“黒煙札”」


 アルトがどこからか取り出したのは見慣れた呪符。摘んだ指先の魔術で紙が破かれると、周囲には完全に視界を遮る黒煙がぶわっと広がった。


「なんだこれは!?」


 煙の中心に位置することとなったガルシアンは騎士剣を振り回して払おうとしていることだろう。しかし呪術によって生み出されたのなら、アルトの身を隠したのは決して晴れない煙幕の呪いだ。やはり奴はマイと同じ、魔術と呪術の両方の才を持った人間に違いない。


「ルミー殿!」


 シュリクライゼさんの腕がまるで見えているかのごとく俺を掴んだ。黒煙から引き剥がされた世界には星明かりしか差さない。そこには二人の騎士と、無力な支援者の姿しか残されていなかった。


 腕には器だけとなった赤毛の少女の姿。未来を手に入れるはずだった彼女の頬に一粒だけ雨が降った。


 ――渓谷に反響した慟哭が、自分のものだと思えなかった。

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