第31話 師と弟子
※
開けた荒野で巡るは青い残像。私の周囲一帯を取り囲み、稲妻のような速度で無数の剣閃が飛来する。
――しかし、捉えられない速度ではない。
「ぬぅっ!」
アレスが方向転換のために足の向きを変えたその一瞬を突き、細剣を大上段から振り下ろす。生まれた空気の歪みは衝撃波となって、荒野を駆ける弟子の行く手を阻んだ。
「くっ」
変わってしまった地形の凹凸に足が縺れ、持ち前のスピードを奪い取る。苦い表情で姿勢を崩したところに心臓目がけて突きを繰り出した。一直線に向かった切っ先は、このままでは間違いなく胸の中心に風穴を開けるだろう。
しかし弟子もこの程度では終わらない。私のそれによく似た剣で軌道を逸らし、心臓を貫くはずだった切っ先は彼女の肩の上を抉った。服が破れ、肩口にじわじわと血が染まる。
「この程度か?」
「馬鹿に……しないで!」
言うなり私から二、三度飛び離れ、大きく距離を置いた。低い姿勢になったかと思うと、あたかも狼のような全速力で荒野を駆ける。
突きに速度を乗せただけの馬鹿正直な太刀筋。私は迫り来る銀灰色を寸でのところで躱すと、横を過ぎる彼女のみずおちに片膝を突き立てた。
「かっ……!」
足が浮き、アレスは空中でぐるりと回った。勢いのままに硬い地面に叩きつけられた弟子は地面に落ちて唸っている。遺跡の方に吹き飛んだ彼女に向き直ると正面に構えた。
「焦りは隙を生む。再三教えたことだ」
剣を杖にして立ったアレスは荒野に胃酸を吐き出す。先刻の襲撃から戦い続けているせいで、彼女の中には食べ物の一つも残っていない。今は動けていても体力の限界は近いだろう。
「急にお喋りね……! 打ち合いの時にだって、いつも無口だった癖に!」
彼女は遺跡側から森へと走り出した。逃げに徹された場合、老いたこの身では彼女の速度に追いつけない。しかし弟子が戦闘を放棄しないという確信があるからこそ、私は彼女の後をゆっくりと追った。
死角の多い空間ならば、あの速度を視覚的に捉えるのは至難の業だろう。真っ向勝負を挑み続けては分が悪いと見て、命を落とす前に判断したのだ。
「自分の得意な戦場へ移るか――良いぞ」
森にも火が回っていて、じきに手が付けられなくなるだろう。短期決戦に持ち込まねば老体のこちらが先に息を失うのは明白だった。
「きっとそんなことまでは考え至っておらぬのだろうがな」
誘いに乗り、アレスの逃げ込んだ森へと踏み入れる。星明かりさえも遮られてしまったことで視界はさらに狭まり、音と気配だけが頼りだ。
火の粉が弾けるだけの静寂に、葉の揺れる音が響いた。それは何度も重なって、やがて木枯らしのごとく森をざわつかせる。
――囲まれている。
ざっ、ざざっ、という不規則な音は獲物を狙う怪鳥の羽ばたきに似ている。アレスが木々を伝い、位置を把握されないように高速で移動し続けているのだ。攻撃を正面から受けられないために彼女が浮かべた、単純かつ最も有効な策。
四方から不気味な葉擦れが聞こえる中、鎌鼬は突如として訪れた。
「っ」
銀色の切っ先を弾く。アレスは私のすぐ隣を通り過ぎた後、またすぐに別の角度から斬りかかってくる。
次々に木の幹と枝が撓る。アレス本人が縦横無尽から放たれる矢となっているのだ。予測さえ許さない彼女の妙技は、並の開拓者の実力を遥かに凌駕する。だが一辺倒な策だけでは私を越えることなど到底できない。
「お前に戦術を教えたのが誰か忘れたか!?」
攻撃の止んだ刹那、背広服の中で筋肉を盛り上げる。両手で柄を握ると、中腰の姿勢で地面と水平に構えた。
放つは全力の一撃。
「ぬぅああッ!」
“
振り払った先にある辺り一帯の木が薙ぎ倒されていく。樹皮がバキバキと砕け、鬱蒼としていた視界の中に宵の光が舞い込んだ。しかし、木で死角となっていた場所には誰もいない。
「忘れるわけ、ないでしょ!」
声のした上空を見上げると、レイピアの切っ先を向けるアレスが居た。彼女は私が大振りの一撃を繰り出すのを待っていたのだ。木々を伝い辿り着いたのであろう月光の真下から、落下の勢いをも利用して私に対抗するためのパワーを生み出すために。
自分の得意な戦場へ誘い込んでおきながら、最後は真っ向から打ち破ろうとしているのだ。愚かな選択。しかしながら面白い。天から剣が振ってくるなどどこの法螺話だろう。その嘘のような話は、今まさに私へと襲いかかる。
「やああァァッ!」
アレスの猛りが響いた。片手だけで剣を構え直し、雷の如き一刺しに相対する。刃が交わった瞬間に切っ先を剣で滑らせ、すぐに空いていた左手を大振りにした。鉄の反響が未だ残る中、裏拳が彼女の柔らかな頬を抜いた。
「がっ」
落下する自分の速度も相まって凄まじい勢いで地面を転がっていく。アレスはまともに受け身も取れていないまま、切り株の一つに被さってぐったりと倒れた。
「……勝負あったな」
しばらく待っても動かない様子を見て、私は剣を納めようとした。
「まだよ」
しかしアレスは枯れた声を張り、子鹿みたいに震える足を庇いながら立ち上がる。細剣を杖にし、血塗れの顔を向ける彼女に限界を見て、私は諭すように言った。
「その傷ではもうまともに動けまい。潔く敗北を認めろ」
「嫌だっ」
稽古の途中とでも言わんばかりに反発するも、アレスの意思に反して体は大きく揺れる。虚勢でしかなかった。
「お前は強くなった。正直、ここまでとは思わなんだ」
あの浜辺で救ってから長くを共にした。メキメキと剣を覚え成長していく彼女は、とうとう開拓者ギルドでも名のある実力者として挙げられるまでになった。
「だからこそ、お前がキッグ様の脅威となる前に殺さねばならん」
「『キッグ様』……? あの貧相な殺人鬼のこと? 似合わないことを言わないで頂戴。貴方はクイップ。自由が取り柄――でしょっ」
先程よりも随分と遅い剣筋。もはやアレスに残されたものは何もない。持ち前のスピードも開拓者として磨いた戦闘技術も、衝撃によって鈍り切った思考に邪魔されて使い物にならなくなっている。軸のぶれた剣を弾くとアレスは体勢を大きく崩した。しかし、足だけはずっと二本で立っている。
「どうして裏切ったの!?」
激情とともにもう一度斬りかかってくる。不格好な剣は馬鹿みたいに単純で、まるで昔に剣を教え始めたばかりのようだ。
「私は元より、セアル家にこの身を捧ぐ影の憲兵……一介の少女に慈悲を与えるような聖人でもなんでもないッ」
ろくに力も込められていない軽い体を吹き飛ばす。アレスは全身が泥だらけになるのも厭わず、ごろごろと地面を転がって受け身を取っては、剣を突き立て起き上がり、また疾駆する。
「貴方はっ」
言葉は最後まで紡がれない。ガキリという金属音に阻まれ、私に届くことはない。それなのに。
弾き飛ばされた体を再び無理矢理に起こし、足首を限界まで曲げて突進する。弾く。倒れ、起き上がる。迫る。剣が交じり吹き飛ばす。倒れる。地面を殴りつけて起き上がってくる。また迫る。ぶつかり合う。幾度も。何度も。何度でも。
やがて雨のような剣戟は止んだ。地に伏すアレスは、自分の体が動いていないことにすら気づいていないくらい、それでも傷だらけの体を起こそうとする。
腕も胸も腹も足も地面にくっついて離れないはずだ。なのに何故――その視線だけは離してくれないのか。
「もう終わりだ」
それは稽古をやめるとき、いつも私が口にした言葉だった。癖のように出てしまった台詞に後悔する。なぜならこの後の彼女の言葉もまた、知ってしまっているから。
「嫌だっ」
案の定、アレスはいつも通りの答えを叫んだ。しかしここは戦場だ。命を奪い、奪われるだけの血の池地獄。稽古の延長で済まされる領域ではない。
「お前はいつもそうだ。聞き分けがない。いつまでも強さを欲しがる。まるで子どもだ」
アレスは両腕で体を持ち上げる。限界の体がミシミシと悲鳴をあげているに違いないが、彼女を突き動かす何かが立ち上がることを可能にする。
それはあたかも私をどこにも行かせないと言っているようだった。今にも自分が遠くへ逝ってしまいそうなのに、私を引き留めんとしているようで。
――突き放す意志を砕こうとする。
「お前ではキッグ様には敵わない。そして、私にもな」
出会った時から抱く、この迷いは一体何なのか。どうして私は今にも散りそうな儚い命を見放すことができないのだろう。
「勝つわ。私はこの世で唯一の、貴方の弟子だもの」
論理的な理由など露ほど存在しない。しかし、彼女の中ではそれが確かな勝算であるらしかった。
剣を弓を射るように構えた。彼女もまた私と同じ型を取って、真っ向から挑む覚悟を表す。その切っ先は確かにアレス・ミークレディアを捉えていた。
「ここで死ね――アレス」
風同士が致死の一撃を纏って近づく。互いの剣が交錯し寸分でも速い方が勝つ。どんな理屈よりもわかりやすい私たちの生きる世界の理。教え込んできた全てが迫り、刹那の後にはどちらが命を失っているかなんて明白だった。
そして、違和感は突如訪れる。
アレスの剣を握らない左手が前へと突き出されていたのだ。その手は白く染まっており、何かを生み出そうとしている。それはアリシア・ミークレディアが捨て、私が殺してしまったはずの彼女の魔術。薄く引き伸ばされた氷が展開し、一輪の薔薇が咲いた。
しかしいかに視界が遮られても、この距離で外すことはない。必殺の刺突は軌道を一切変えることなく氷のカーテンを穿つ。かしゃん、という軽い破砕音がしてばらばらと落ちていく。その礫の先に、私の瞳を捉えて離さない青色の瞳があった。切っ先は彼女を貫かない。いつの間にか縦にされていた細剣の腹に流され、弟子の長い髪を数本千切るのみ。
わかっていたのだ。私の剣の行き着く先が。これまで私が教え、彼女自身が培った全てで、彼女は私を超えて見せた。
「――見事だ」
一閃。彼女の剣が私を袈裟斬りにする。肩口から薄く血が滲み、しかし力が抜けることはない。それどころか、隣で地面に倒れる音がする。からん、と音を立てたのは私を斬ったはずの細剣だった。
決着はついた。弟子はズタボロで、私の傷は至って浅い。しかしあの瞬間、彼女は間違いなく私の命を奪えていた。
「なぜ、斬らなかった」
倒れ伏すアレスに向かって問いかける。互いの生死を賭けた戦いの中で、相手を生かすことがどれだけ危険かをわからないはずがない。挙句、敵に無防備を晒してしまうなど開拓者として言語道断だ。彼女はゆっくりと呼吸を整えた後で、いつもの調子になった。
「知らないわ……体が勝手に、選んだだけよ」
その言葉に驚いた。かつて私にもそんな経験があったから。
「貴方が私を知らなかったように……私は貴方のことを知らなかった。でも、どこに仕えていても良いじゃない。私は貴方が聖人じゃないことくらい知っているわ」
アレスは息苦しそうな体を仰向けにする。挑み続けた正面は数多の切り傷に苛まれ、唇からは涙のように血が伝った。
「剣が強くて、私みたいな子どもを見捨てられない人。厳しくて心配性なくせに、いざ訓練となれば容赦なんて一切しない……あと料理も随分苦手よね。昔作ってくれた煮込みスープ。あれ、頑張って完食したけど、それからは絶対に貴方を台所に立たせないって決めてたわ」
「……今さら、それを言うか」
「今だから、言うのよ」
もう彼女は私を敵として見ることはしていなかった。まるで本当に稽古だけをしていたかのように、いつもの疲れ果てた表情で油断を晒している。
「私に見せてくれた全ての貴方を、私は知ってる。見ていないものなんて知らない。だから貴方は、私にとって斬るべき敵なんかじゃないのよ」
裏切りに対する憎悪も本気で命を奪おうとした罪すらも忘れたみたいに、彼女はあの砂浜で見せた晴れやかな笑顔で、深く染まった夜空を見上げる。
「貴方はクイップ。私の師匠。それだけよ」
「……そうか」
私は肩の傷口に手を当てながら立ち上がる。アレスに意識はなかった。常に全力で足を動かしながら何百と挑みかかったツケだろう。
その時、遠くで獣の咆哮が聞こえた。これまでに聞いたことのないような怨嗟の叫び。何かを渇望する狂気の声に、想い出の中の人々の願いが反芻する。
行かねばならない。私があの日、全てを斬らなかった理由を思い出したから。
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