第19話 遠征の夜に淡く灯る


 体の疲れに反して微睡みが訪れないのを自覚したのは、隣で眠るトウマが寝息を立て始めた頃だった。


 支援者たちは馬車の荷台と一張りの大きめのテントだけで休息を取っている。合わせて十人いる支援者の内、俺を含めた七人が男性だ。だから少しでも広めのテントを使っているわけだが、そうは言っても大の男が七人も横になれば体が当たるくらい狭いし、中は昼間にかいた汗の臭いが充満する。


 それでも『どこでも休める』というのは、荒野ですら数泊を厭わない開拓者の供をする者にとっては間違いなく必須の技術だ。しかしながら冴えてしまった視界に耐えきれず、俺は一度テントを出ることにした。


「“暗視のまじない”」


 ポーチから呪符を一枚だけ取り出すと、夜でも明かりが要らない“まじない”を自分にかける。今は【ソラティア】の開拓者の誰かが交代で見張りをしているはずであり、見つかって面倒事になることだけは避けたいのだ。


 初日の野営場所は大きな湖の畔だ。昼間に“群れ狼テルフ”に襲われた原っぱからしばらく西に行くと、森林の中にあるこの場所にたどり着く。草木が茂り水質も良いから、鼻を抜ける空気が身に浸透するほどに気分が良い。虫がいるせいで外に出たまま寝るなんてもっての外だが、腐り切った密室よりは幾ばくもマシに感じた。


 明日からは一日かけてこの湖を迂回し、二日後には『クルエアリの森』に到着することができるだろう。そうしたら森での探索が五日間。帰るのに行きと同じ日数を要し、計画通りならば十日前後の長丁場である。その間に『厄災』ドゥーマが封印される地で、マイの兄、キッグ・セアルの野望を阻止する手がかりを見つけることが本当の目的。


「これだけ時間があって、殆ど進展が無かったんだよな。くそっ」


 悔しいがそれが現実だ。マイと出会ってから約一か月。それだけの期間がありながら、彼女の期待に応える成果を何一つとして挙げられていない。彼女は気丈に振舞っているけれど、内心は俺なんかより余程不安だろう。命を狙ってきた兄の動向は不明で、研究も頭打ち。日を追うごとに一度抱いた希望が薄れていっている。


 俺は外套の内ポケットへと隠してある物を取り出した。緻密な意匠が刻まれた小石。どんな質屋も買い取ってすらくれないだろうが、これは少女が命を賭けて守り抜いた特別な石だ。本来であればマイが持っているべき物。しかし今は本人の希望で俺が預かっている。


『私では何も起きませんでした。だからきっと、店主さんが持つことに意味があるんです』


 そう言って無理矢理俺の手のひらに握らせた少女の顔は悲しげだった。それもそのはず、今は亡き母親との約束を、本当は最後まで自分自身で守り切りたかっただろうから。マイの決心が生半可な気持ちでないことくらい、どれだけ目が曇っていたとしてもわかる。


「あなたはどうして、娘にこんな試練を与えたんだ?」


 実の兄に殺されかけ、自分では発現することの無い現象を持つ“刻時石”を与えた。そんな思惑を持っていなかったとしても、憤りが沸々と昇る。これだけの不幸を呼び寄せた石を、そうまでして守る理由がどこに――


 湖の近くの岩場に明かりが見えた。淡い蛍のような光がその一部を照らしていて誰かが居ることを悟る。かなり歩いて来たから、もう見張りの目の届く範囲には居ないと思っていた。俺は慌てて木陰に隠れてその正体を探った。



 半分より少し大きな月の明かりが水面に弾かれている。煌びやかな燐光がその紅髪を涼し気な風と一緒に揺らして、上からも下からも少女を照らした。伏し目がちの瞳は闇夜に飲まれぬ銀河を眺め、憂いを帯びた姿は大地を愁思する天女すら思わせる。素朴な旅の服装から覗く白魚のような手を座っている岩にかけながら、遠く、遠くの深藍の空を見上げていた。


 俺は思わず見とれていた。湖の揺れる音がしっかりと耳に届いてしまうくらいまで、輝いた色彩の織り成す絵画のような一瞬に。これから間違いなく俺の記憶に残り続ける――そう確信できるほど美しい光景が、鮮烈に刻み込まれた。


「っ! 誰」


 上を向いていたマイがバッとこちらに振り向いた。気づかない内に音を出してしまっていたらしく、俺は慌てて立ち上がって姿を現す。


「お、俺だよ。ルミー」


「て、店主さん、ですか?」


 彼女は警戒心に溢れた硬い顔を少しだけ緩めてくれた。しかし既知の人物とわかっても不審さは拭えないようで、俺は言い訳を余儀なくされてしまう。


「ごめん。覗き見るつもりじゃなかったんだ。俺も最初は誰かわからなくて」


 さすがに見とれていたとは言えない。失礼であったことに違いないが、今は妙な勘繰りをされた方が困るのだ。これは墓場まで持っていく秘密にさせてもらおう、と身勝手な判断を下す。果たしてマイは、安堵の息を吐いて再び元の場所に戻ってくれた。


「見張りの人に見つかったのかと思いました」


「だったらお互い様だね。隣、良い?」


 どうぞ、と言われ、彼女の腰掛ける岩の近くにどさりと座った。雑草の上は少しチクチクとするけれど、湿気のない柔らかさは即席の座布団にはぴったりだ。


「え、と……使ってくれてるんだね、それ」


「あ、はい。折角いただいた物なので」


 マイの座る岩の上には、いつかに俺があげたランプが置いてあった。永遠に光り続けるという『呪い』のかかった呪符を入れただけの簡易的なライト。しかし長所は短所でもあって、アルコール式のランプよりも不便なことは間違いないだろう。やや押し付け気味に渡したので、こうして有効利用されているのなら一安心だ。


 特に話題も無く、沈黙が過ぎていく。そもそもマイがどうしてこんな所に居るのかもわからないが、あまり元気のある様子でもない彼女にそれを聞くのも躊躇われる。もしかしたらマイは一人で居たかったのかもしれない――というか、わざわざ抜け出して来たのだから十中八九そうだろう。あのまま気づかない振りをして立ち去った方が良かったか、などと考え込んでいる内に、静寂は彼女の方から破られた。


「店主さんはどうして抜け出して来たんですか?」


「うーん。眠れなくって」


 支援者のする回答としては非常に恥ずかしいものだったが、俺は苦笑いしながら正直に言った。しかし彼女に支援者たちの常識は関係無く、そうですか、と返されるだけ。


「もしかして、お昼のことですか?」


「そう」


 続けられたマイの質問に、また正直に答える。“群れ狼”に襲われたとき、結局はマイとクイップさんに助けられた。マイを守ると誓っておきながら、あのまま俺だけだったら獣の餌になっていたのは間違いない。それが悔しくも情けなくもあり、そして何より、未だに子どもじみた夢を諦められない自分に呆れている。


「マイは、どうして?」


「……私もです。眠れなくて。馬車の中って、意外と狭いんですね」


「そっか。積荷もあるもんね」


 酷く実りの無い会話でも、俺たちはどちらともなく、これ以上踏み込もうとはしなかった。ここから先は多分、一介の店のオーナーと一人の客という関係よりもっと深いものだ。その証拠に、こうして長期間付きっきりで依頼を受けている中で、俺たちは専ら“呪術”の話しかしていない。それは俺が、そしてマイが、その一線を互いに踏み越えることに恐れを抱いているから。


 俺とマイは少しだけ似ていて、大きく違う。生まれながらに呪いという力を持ったことだけじゃなくて、目指す世界に無力感を持っていること。届きたい場所の遠さに打ちひしがれて、歩を止めてしまった俺にできるのは、それでも歩みを止めない者――マイをその場所に送り届けることだ。もしそれ以上を望んでしまうなら、俺はきっと、破られた夢をもう一度拾わなくてはいけなくなる。


 それが怖くて堪らないのだ。幾度目かもわからない挫折の苦しみはもう味わいたくない。弱気なのはわかっている。俺と物語の英雄との明確な違いは、そんな場所にあるから。


「少しだけ……」


 暗澹とした思考に時間感覚を奪われていた俺は、マイの発した声がいつぶりのものか分からなかった。彼女はまた唇を縛って、やがて意を決するように言う。


「少しだけ、弱音を吐いても良いですか?」


 迷って、生唾を飲む。これを聞くことで、もしかしたら俺の心の何かが変わるんじゃないかと、そう思った。だけど目の前で声を震わせた少女を無視することは、それよりも心が痛かった。


「うん。俺で良ければ、聞くよ」


 ありがとうございます、といつもの礼儀の良い様子でマイは感謝を述べた。そしてさっきみたいに夜空を見上げると、その心の内をとつとつと語り始める。


「私、自信過剰だったんです」


 マイから飛び出したのは意外な言葉だ。その真意は未だわからず、黙ったまま彼女の語る自己分析に耳を傾ける。


「何でもできると思ってたんです。魔術は人並みでも、家に伝わる封印術が得意と言えるくらいにできて。幼い頃から礼儀正しかったから、周囲から賢い子だと持て囃されて。母と交わした約束も守れる……そう思ってました」


 それはセアル家に居た頃の彼女の話であり、そして今も続く少女への正しい称賛にすら思えた。俺と出会う以前からマイの稀有な才覚は花開いていて、没落したとは言え高貴な血に恥じない身の振り方をその歳で知っている。誰もができた娘だと讃えるには十分過ぎる理由だ。だとしても、彼女にはその自信を否定してしまうだけの出来事がたくさん訪れた。


「本当は、魔術は兄には遠く及ばなくて。封印術は呪術の一端でしかなくて。礼儀は躾られたからできただけで。母との約束も、とても果たせなんてしなかった」


 段々と小さくなっていく声は、現実がおのれを傷つけているからか。彼女が一人になって見てきた数々の出来事は、あまりにも重過ぎる。


「家を逃げ出してから、自分の至らなさを痛いほど知りました。一人だけじゃ、自分の命さえ守れない弱さ。今日だって、店主さんが助けてくれなかったら、私は今頃死んでいたかもしれません。息巻いて飛び出して、失敗ばかり……」


 「そんなことない」。そう言ってあげたかった。でもそんなエゴだらけの言葉じゃ、きっとマイの痛みに塩を塗るだけだ。彼女が認めた自分の弱さを、他人でしかない俺が否定して何になる。語るマイは、まだ自分を傷つける。


「本当に私は馬鹿です。見積もりが甘くて、自分だけじゃなくて、親切にしてくれた人の命まで危険に晒して。家族一人のことすらどうにもならない。自分で見ていた自分の姿なんて程遠い――所詮、理想を描いていただけだったんです」


 強いと思っていた少女は、つぅと一筋の涙を流した。誰から見ても間違いなく才能を持ち、研鑽しているというのに、色白の頬を煌めく雫に濡らしている。


「すみません。こんな話されても困りますよね。私、そろそろ戻って……」


 多分彼女は、今抱える痛みを少しでも和らげるために、俺に辛い悩みを話してくれたのだろう。どれだけ自分本位な気持ちで話していたとしても、それを他人事だと跳ね除けることはできなかった。彼女の抱く無力さを埋めるために、俺に少しだけ支援でき手伝えるのは。


「俺も昔、理想ばかり抱いていた頃があった」


「え……」


 急に喋って困惑させてしまっただろうが、俺は言葉を止めなかった。少しだけ――ほんの少しだけ、店主ではない自分で寄り添おうと思った。


「俺の両親は揃って開拓者でね。昔はそれなりに名の通った人たちだったらしい」


 人に語ることはしない過去。開拓者と支援者は無用な詮索をしないのが暗黙のルールだ。だから自分から語るようなことをしなければ、誰も知ることのない身の上噺。


「二人から聞かされる冒険譚が鮮烈でね。すぐに夢になった。俺も強くなって自由な冒険をするんだって、毎日お下がりの剣を振ってたっけ」


 腰に手を当てる仕草をしてみた。遠征に出る度にお守り代わりに吊っている剣は、そのときの名残りだ。未練、とも言えるのかもしれない。


「何せ俺には魔術の才能が無くって。開拓者に有用な戦闘能力の片翼が欠けてたから、体を鍛えるしかなかったんだ」


 だからこそ、強くなろうと村の誰より努力した。毎日泣きながらマメを潰しては、それがいつか勲章になるのだと信じてやまずに。クイップさんやアレスのように、剣技だけでのし上がってやろうという野望を抱きながら。


「そんな毎日を送る中で、偶然俺にもできることを見つけた。それが呪術だったんだ」


 懇意にしてくれていた村長が、たまたま預かり残していたハリウェル・リーゲルの『呪術研究記録』。彼が学生時代にメモのように書き記したものを王都の魔術学校で同窓だったという村長が寄り集めたものに過ぎないけれど、不思議と理解できないということがなかった。


「初めて自分にもできることが見つかって、本当に嬉しかったな……だけどそれを村の連中に見せる度に気味悪がられてね。何せ『おまじない』が明確に現れるんだ。何も知らない人からすれば、予知とか怪奇の類にしか見えない。いつしか村のみんなが、俺を呪われた子だって噂するようになった」


 マイの息が詰まる音がした。彼女と俺はどこか似ている――それは“呪術”という才覚に呪われてしまったこと。


 呪術は危険だ。そしてその詳細と実態は世間に大して知られることなく、『のろい』という単語が独り歩きしてしまっている。誰かを不幸にするための術だと口を揃えられる。


「一家は村中から嫌われて、耐えかねた両親は『二度と使うな!』って呪術を禁止した。それでも隠れて文献を読み漁ってたんだけどね……その内に、一つの現実を知った」


 それでもまだ呪術は俺の希望足り得ていた。家族の元を離れ、開拓者になった暁には、この力も有用に使うことができる。むしろ他の人たちにはなれない“呪術使いの開拓者”として、自分だけの道を切り開けるのだと信じていた。研究記録の終わりの方にぽつりと残された、たった一文を見るまでは。


「『呪術を有する人間は、その身体能力が飛躍的に向上することはない』。村に文献を残した研究者がそう書き残していたんだ」


「……! じゃあ」


「俺には戦いに向いた才能が何一つとして無かったんだ」


 あの日の挫折と絶望に勝るものは未だに知らない。信じようとするものに尽く『信じる』ということを許されない苦しみは、辛いだとか、そんな安い言葉じゃ済まないくらい心に傷を残した。家族にすら迷惑をかけて、自分では何になることもできないと悟った。


「マイも知る通り、呪術は準備有りきの代物だ。だから純粋な戦いじゃ魔術には遠く及ばない。その上、身体能力も伸びはしないって言うんだ。開拓者を目指すなんて、とてもお話にならなかった」


 開拓者とは強さゆえのもの。だからソラウのような過激派思想が居るのも理解できない話ではないのだ。彼らはそもそもが常人を越えた才能に溢れている。土俵も次元も違う。俺に欠けたものを、全部持っている。


「それなら店主さんは、どうして支援者に?」


 ここまで殆ど口を閉ざしていたマイだったが、どうしても気になったのだろう。なぜなら支援者とは、開拓者の補佐役だから。憧れ、そして諦めた夢を近くで見ていることが辛く――理想が近くにあることが悲痛ではないのか。俺もきっと、一人だったら間違いなく折れていた。


「俺にも兄貴が居るんだ」


「お兄さんが?」


 唐突に飛んだ話に困惑したのか、兄が居ることに驚いたのかはわからない。ただ思っていたよりも良い反応を示してくれたものだから、ちょっとだけはにかんで言った。


「意外?」


「少しだけ。店主さんは面倒見の良い人ですから。どっちかと言うと、店主さんの方がお兄さんって感じがします」


「はは。ありがと」


 それは多分、憧憬への自己投影というやつなのだろう。自分を救ってくれた者を目指したり、もっと単純に、格好良いと思える人になりたいと思ったり。無意識になりたい姿を追いかけてしまうことも一つの人間のさがだ。


「村中から煙たがられる中で、兄さんだけは俺の呪術の才能を認めてくれてた。どれだけ親に見放されてもそれを捨てるなって。与えられた力の善し悪しなんて、他の誰が決めるもんじゃないって、そう言ってくれた」


 ――『いつかその力で、俺の“支援者”になってくれよ。そうしたら、俺がお前をどこにだって連れて行ってやる』


 兄は泣いて見送る俺の頭を撫でながら言葉を残し、一足早く村を出て行った。自由な世界と自分なりの生き方を求めて。その時を境に呪術は再び俺の希望になった。


「兄さんも俺と同じで、開拓者になることが夢だった。俺はそんな兄さんに付いて行くために支援者になったんだ」


「それじゃあ店主さんのお兄さんは、時折お店を訪れているんですか?」


「いや、そんなことは一回も無いよ」


 マイの質問に対して、かぶりを振りながら答えた。水面の影に自分の顔が見えて、情けなくてすぐに前を向き直した。


「俺が村を出て、初めてギルドを訪れた時には、もう兄さんは居なかった。遠征に出た切り、クランごと消息不明になっていたんだ」


 クランの消息不明。詰まるところ、開拓者たちの全滅を表す。兄は開拓者になる夢を叶えて、そして……


 マイの目が大きく開かれているのに気づいて、慌てて軽い口調に変える。


「だからさ。勝手かもしれないけど、マイには家族を取り戻して欲しいんだ」


 夢が潰えることに慣れなんてなくて、何度経験しても辛いことだった。役に立たない剣を持っても、縋るように誰かを待っていても、いつまでも惨めなまま。こんな思いをするのは俺だけで十分だ。


「もしかして、店主さんが王都でお店をやっているのって……?」


「まさか」


 嘲りは水面に反射した。だから自分語りはここまでにして、俺は立ち上がる。


「支援者は誰かの理想を手助けする仕事だ。何でも自分でやろうとしなくて良い。マイが一人で抱えられない分は、俺がちゃんとやり遂げるよ」


 失敗をしないようになんて、土台無理な話なのだ。それでも成長を願うからこそ人は強くなれるし、俺はその人の支援者でいたいと思う。所詮無力な人間でしかないが、それでも一端の男なのだ。


「店主さんは、お強いですね」


「マイの方がよっぽど強いさ。それに、まだ何もできてないんだから」


 畔には風が出始めて、湖を揺らしている。そろそろ体が冷えてしまう頃だろう。マイに寝床に戻るよう促そうとして、震えた声に呼び止められた。


「店主さん」


「ん?」


「私、この一件が終わったら、もっと色々なことを学びたいです。店主さんみたいに、誰かの理想を応援できるくらい、強く。だからもしこの依頼が済んで、依頼料をお支払いできたら、その時は――」


 言葉はそこで途切れた。マイははっと何かに気づいたように立ち上がり、俺が来た森の方向に向けて両手を伸ばす。すぐに彼女の臨戦態勢だと理解し、俺もその方角を見据えた。ざっ、ざっ、と人の歩く音がして、途端に心臓が跳ねる。


 【ソラティア】の見張りの開拓者に見つかることは非常に都合が悪い。彼らの謗りを一身に受けるならまだしも、これ以上目をつけられたら『厄災』の調査が立ち行かなくなる。こんなに話し込む予定はなかったのに。これだからハリエラさんにお人好しなどと言われるのだ――と居もしない人に助けを求めたくなった。


 果たして、現れたのは細剣を携えた剣士だった。屈強な体躯を、遠征には不向きそうな背広で覆う白髪の男性。俺はその姿にいかばかりの安堵を得た。


「失礼。男女の逢瀬を邪魔してしまいましたな」


「お、逢瀬だなんて。大袈裟ですよ、クイップさん」


 今回の遠征に居る開拓者の中で最も信頼の置ける人物と言って良い。『開拓者至上論』を掲げるクラン構成員とも、自己価値観の強いアレスとも一線を画す。この師をもってどうしてあんな性格の弟子になったのか理解できないほどだ。


「ですが支援者の方々だけで夜の森に入るのは感心しませんな。何かあっても、昼のようにお守りすることができませんので」


「す、すみません。少し明日の予定について相談事があって……」


「相変わらず嘘がお下手ですな」


 う、と慧眼に喉が詰まる。人生経験の差なのか言う通りなのか、この人に通用する口八丁は今の俺に無いらしい。


「しかしながらそちらのお嬢様のお顔を見れば、誰もただの密会だったとは思いますまい」


「わ、私ですか?」


 急に話題の種にされたマイは目をぱちくりさせていた。少し目元が赤ばんでいたけれど、ここに来て最初に見たときよりは暗鬱さの取れた表情をしている。木々を通してやってくる夜風が、痛々しいようには見えなかった。


「きっと貴女にとって、大切な時間であったのでしょう」


「クイップさん、もしかしてさっきから……」


「さぁ。何のことでしょう」


 ――自分だって人のことは言えないではないか。


 心の中で独りごちながら微笑を浮かべる老人を見遣った。この月夜の中で無粋な男は二人も居たようである。お互いに視線だけで秘密のやり取りを交わすと、クイップさんは俺たちに向かって促した。


「もう寝床にお戻りになられますよう。この場では、何も見なかったことに致しますゆえ」


「わかりました。でもその前に、二人に聞いて貰いたいことがあります」


 そう切り出すと、マイとクイップさんはそのまま俺の言葉を待ってくれた。清涼な空気を吸い込んで、昼間から心の中に仕舞っていた苦艱を吐き出す。


「昼の“群れ狼”襲撃のとき、副リーダーのソラウがマイのことを妨害したと思われます」


「えっ……!」


「……」


 当事者たる少女は驚き、クイップさんは深く眉をひそめた。正直なところマイ以外にこの話をする気はなかった。【ソラティア】のメンバーには間違いなく相手にされないだろうし、他の支援者に話したところで状況はなにも変わらない。さらにタチが悪いことに、被害を受けたマイでさえ気づかないほどの精密な魔術コントロールのせいで信憑性にも欠ける。最悪、俺が個人的な恨みでクランを荒らそうとしているとも捉えられかねないのだ。


「信じては、くれませんか?」


 だからこそ、頼りは眼前の老人ただ一人だった。彼ならばこの事態を正しく認知してくれる可能性が高い。いや、そんな打算的な思考でなくても、彼は信頼の置ける開拓者だと身をもって示してくれたではないか。老人はしばらく目を閉じて何かを思案した。そしてゆっくりと上下の唇を離す。


「信じましょう」


「……! じゃあ」


「はい。ソラウの動きには、私が常に目を見張っておきます」


 暗がりに紛れるように、肺に溜まっていた空気を静かに放った。


「お願いします」


 とりあえずこれで少しは状況が変わってくれるだろう。俺たちはこの遠征から離れるわけにはいかないが、ここで死ぬ訳にもいかないのだから。


「――愚行を冒した者には必ずその報いが訪れます。ルミー殿も、そのようにはなられぬよう、お気をつけて」


「? はい、そうします」


 愚行とは、今こうして出歩いている俺たちを咎める言葉だろうか。しかしクイップさんはそれ以上何も言うことは無く、暗闇の中に再び戻って行ってしまった。


「俺たちもそろそろ戻ろうか」


「そうですね」


 そうして俺たちは各々の狭い寝床に戻った。寝苦しさは相変わらずだったが、不思議と目を開くのは億劫だった。


「……そういえば、マイからの頼みを聞きそびれたな」


 いつか聞こうと小さな誓いを作っている内に、夜はまた巡る。

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